a 長文 12.4週 wapu
 「患者かんじゃが最後まで希望を持つことができるためにはどうしたらよいか」ということは、ことに重篤じゅうとく疾患しっかんにかかわる医療いりょう現場において切実な問いである。病気であることが知らされる―だんだん状態が悪くなることを知り、有効な対処法はないことも知る――自分の身体がだんだん悪くなり、できることがどんどん減って行く――死を間近に感じるようになる。
 このような状況じょうきょうで、「希望」とはしばしば、「治るかもしれない」という望みのことだと思われている。あるいは「自分の場合は通常よりもずっと進行が遅いおそ かもしれない」ということもあろう。いずれにしてもまさに「希望的」観測である。だが、希望とはこうした内容の予測のことなのだろうか。
 もしそうだとすると、それこそ確率からいって、そうした患者かんじゃの多数においては、はじめに立てた希望的観測が次々と覆さくつがえ れるという結果にならざるを得ない。それでは「最後まで望みをもって生きる」ということにはならないだろう。そもそも、「がん」と総称そうしょうされる疾患しっかん群をモデルとして、「告知」の正当性がキャンペーンされてきたのは、患者かんじゃが自分の置かれた状況じょうきょうを適切に把握はあくすることが今後の生き方を主体的に選択せんたくするために必須ひっすの前提であったからではなかったか。右に述べたような望みの見出し方は、非常に悪い情報であっても真実を把握はあくすることが人間にとってよいことだという考えとは調和しない。
 では「死は終わりではない、その先がある」といった考え方を採用して、希望を時間的な未来における幸福な生に託すたく というのはどうだろうか。だが、医療いりょう自らが、そのような公共的には根拠こんきょなき希望的観測に過ぎない信念を採用して、患者かんじゃの希望を保とうとするわけにはいかない。
 ところで、死は私たち全ての生がそこに向かっているところである。遅かれおそ  早かれ私の生もまた死によって終わりとなることは必至である。その私にとって希望とは何か――考えてみればこの問いは、重篤じゅうとく疾患しっかん罹っかか 患者かんじゃにとっての希望の可能性という問題と何らか連続的であろう。そして、多くの宗教は死後の私の存在の
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

持続を教えとして含みふく 、そこに希望を見出そうとしてきた。それは人間の生来の価値観を肯定こうていしつつ、提示される希望である。だが他方宗教的な思想には、死後の生に望みをおく考え方を拒否きょひする流れもある。その場合は、人間はもっとラディカルに自己の望みについて突き詰めるつ つ  のである――「死後も生き続けたいという思いがそもそも我欲なのである」とか、「自己の幸福を追求するところに問題がある」というように。それは生来の価値観を覆しくつがえ つつ提示される考えである。では、死が私の存在の終わりであることには何の不都合もないではないかとして、これを肯定こうていした場合に、希望はどこにあるか――どのような仕方であれ、「死へと向かう目下の生それ自体に」と応えるしかないであろう。
 終わりのある道行きを歩むこと、今私は歩んでいるのだということ――そのことを積極的に引き受ける時に、終わりに向かって歩んでいるという自覚が希望の根拠こんきょとなる。そうであれば「希望を最後まで持つ」とは、実は「現実への肯定こうてい的な姿勢を最後まで保つ」ということに他ならない。つまり、自己の生の肯定こうてい、「これでいいのだ」という肯定こうていである。「自己の生」といっても、生きてしまっている生(完了かんりょう形)としてみることと、生きつつある生(進行形)としてみることとの二重の視線がある。完了かんりょうしたものという生のアスペクトにおける肯定こうていは「これでよし」との満足である。他方、生きつつある生、つまり一瞬いっしゅん先へと一歩踏み出すふ だ 活動のアスペクトにおける、前方に向かっての肯定こうてい、前方に向かって自ら踏み出すふ だ 姿勢が、希望に他ならない。

 (清水哲郎『死に直面した状況じょうきょうにおいて希望はどこにあるか』より。一部省略)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534