「患者が最後まで希望を持つことができるためにはどうしたらよいか」ということは、ことに重篤な疾患にかかわる医療現場において切実な問いである。病気であることが知らされる―だんだん状態が悪くなることを知り、有効な対処法はないことも知る――自分の身体がだんだん悪くなり、できることがどんどん減って行く――死を間近に感じるようになる。
このような状況で、「希望」とはしばしば、「治るかもしれない」という望みのことだと思われている。あるいは「自分の場合は通常よりもずっと進行が遅いかもしれない」ということもあろう。いずれにしてもまさに「希望的」観測である。だが、希望とはこうした内容の予測のことなのだろうか。
もしそうだとすると、それこそ確率からいって、そうした患者の多数においては、はじめに立てた希望的観測が次々と覆されるという結果にならざるを得ない。それでは「最後まで望みをもって生きる」ということにはならないだろう。そもそも、「癌」と総称される疾患群をモデルとして、「告知」の正当性がキャンペーンされてきたのは、患者が自分の置かれた状況を適切に把握することが今後の生き方を主体的に選択するために必須の前提であったからではなかったか。右に述べたような望みの見出し方は、非常に悪い情報であっても真実を把握することが人間にとってよいことだという考えとは調和しない。
では「死は終わりではない、その先がある」といった考え方を採用して、希望を時間的な未来における幸福な生に託すというのはどうだろうか。だが、医療自らが、そのような公共的には根拠なき希望的観測に過ぎない信念を採用して、患者の希望を保とうとするわけにはいかない。
ところで、死は私たち全ての生がそこに向かっているところである。遅かれ早かれ私の生もまた死によって終わりとなることは必至である。その私にとって希望とは何か――考えてみればこの問いは、重篤な疾患に罹った患者にとっての希望の可能性という問題と何らか連続的であろう。そして、多くの宗教は死後の私の存在の
|