a 長文 4.1週 ya
長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。
 1寺田さんは有名な物理学者であるが、その研究の特徴(とくちょう)は、日常身辺にありふれた事柄(ことがら)、具体的現実として我々の周囲に手近に見られるような事実の中に、本当に研究すべき問題を見出した点にあるという。(中略)
 2周知の通り、林檎(りんご)が樹から落ちるのを不思議に感じて問題としたことが、近代物理学への重大貢献(こうけん)となった。あたり前の現象として人々が不思議がらない事柄(ことがら)のうちに不思議を見出すのが、法則発見の第一歩なのである。3寺田さんは最も日常的な事柄(ことがら)のうちに無限に多くの不思議を見出した。我々は寺田さんの随筆(ずいひつ)を読むことにより寺田さんの目をもって身辺を見廻す(みまわ )ことができる。そのとき我々の世界は実に不思議に充ち(み )た世界になる。
 4夏の夕暮れ、ややほの暗くなるころに、月見草や烏瓜(からすうり)の花がはらはらと花びらを開くのは、我々の見なれていることである。しかしそれがいかに不思議な現象であるかは気づかないでいる。寺田さんはそれをはっきりと教えてくれる。5あるいは鳶(とんび)が空を舞い(ま )ながら餌(えさ)を探している。我々はその鳶(とんび)がどうして餌(えさ)を探し得るかを疑問としたことがない。寺田さんはそこにも問題の在り場所を教え、その解き方を暗示してくれる。6そういう仕方で目の錯覚(さっかく)、物忌み(ものい )、嗜虐(しぎゃく)性、喫煙(きつえん)欲というような事柄(ことがら)へも連れて行かれれば、また地図や映画や文芸などの深い意味をも教えられる。
7我々はそれほどの不思議、それほどの意味を持ったものに日常触れ(ふ )ていながら、それを全然感得しないでいたのである。寺田さんはこの色盲(しきもう)、この不感症(ふかんしょう)を療治(りょうじ)してくれる。8この療治(りょうじ)を受けたものにとっては、日常身辺の世界が全然新しい光をもって輝き(かがや )出すであろう。
 この寺田さんから次のような言葉を聞くと、まことにもっともに思われるのである。
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9「西洋の学者の掘り(ほ )散らした跡(あと)へ遙々(はるばる)遅ればせ(おく   )に鉱石のかけらを捜し(さが )に行くのもいいが、我々の脚(あし)元に埋(う)もれてゐる宝を忘れてはならないと思ふ。」
 寺田さんはその「我々の脚(あし)元に埋(う)もれてゐる宝」を幾つ(いく )か掘り出し(ほ だ )てくれた人である。0

 (和辻(わつじ)哲郎(てつろう))
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長文 4.1週 yaのつづき
 1そうしてみると、価値の多様化と画一化とは決して矛盾(むじゅん)したことではなくて、同じ現象の両面のように思えてくる。その根本にはやはり、普遍(ふへん)的価値の崩壊(ほうかい)がある。普遍(ふへん)的価値が崩壊(ほうかい)したのは崩壊(ほうかい)しただけの歴史的理由がある。2ある一つの普遍(ふへん)的価値を信じた人たちが、それと矛盾(むじゅん)し、対立する価値を信じている人たちを排撃(はいげき)し、差別して残虐(ざんぎゃく)な行為(こうい)を繰り返し(く かえ )てきたということがあって、ある日ふと気づいてみると、そんなことをしてまで守らなければならないほどの絶対性はどのような「普遍(ふへん)的」価値にもないことがわかってきたのである。
 3そこで、普遍(ふへん)的価値というものは存在しないのだということになった。すべては相対的であって、どのような価値を信じていようが間違っ(まちが )ているとは言えず、それぞれが勝手に信じていればいいのだということになった。
 4そこから、価値の多様化ということが出てくるわけであるが、悲しいかな、人間は何らかの価値を信じ、それを自我の支えにしなくては生きてゆけず、しかも自分の信じる価値はできるかぎり多くの人びとに信じられているものであることを望むので、勝手にどのような価値を信じてもいいと言われても、それほど自由の幅(はば)はないのである。5そして、普遍(ふへん)的価値は崩壊(ほうかい)しているわけだから、何らかの価値を信じていても、それが普遍(ふへん)的だと思って信じていたときのような自信はもてず、ひょっとしてとんでもないことを信じてしまっているのではないかとの疑いを拭い(ぬぐ )切れない。6そこで、他の人たちが信じているように見える価値を、自分は確信をもてないままに、一応今のところ信じておくといったことになる。他の人たちが信じているように見える価値を自分も信じるという人が多くなれば、必然的に、価値は画一化されるわけである。
 7したがって、価値が多様化されたと言っても、個人が選択(せんたく)できる価値の幅(はば)が広く豊かになり、無限に多様な生き方の可能性が開かれているということではなくて、ある価値を信じることによって個人が得ることができるものはむしろ貧しくなっており、8また、価値が画一化されたと言っても、多くの人が一つの共通の価値を信じて連帯するということにはならなくて、つまり、同じ価値を信じていることが人と人とを結びつけるわけではなくて、ばらばらに同じ価値を信じているといった具合になっている。
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 9わたしは現代を「嫉妬(しっと)とはしゃぎの時代」だと言っているが、普遍(ふへん)的価値が崩壊(ほうかい)すると、そこに自我の安定した基盤(きばん)を見出せないので、人びとははしゃいで目立つ以外に自分の存在を確認する方法がなくなり、また、同じ理由で他の人のことが絶えず気になり、嫉妬(しっと)に狂わ(くる )ざるを得ない。0
 この嫉妬(しっと)とはしゃぎということと、価値の多様化または画一化とはつながっている。目立つためには、他と異なっていなければならず、人びとは多様な価値をそれぞれに表現し、「個性」を打ち出して目立とうとする。しかし、他方では価値は画一化されているので、優劣(ゆうれつ)、成否を計る一本の尺度しかなく、すべての人が同じ尺度のもとで序列をつけられ、劣位(れつい)におかれた者は同じ尺度の上で上昇(じょうしょう)しないかぎり、いつまでも劣(れつ)者である。これでは、同じ尺度の上で優位にある者に嫉妬(しっと)し、彼(かれ)を引きずりおろしたくなるのは避け(さ )がたい。
 これらのことは現代の時代精神とでも言うべきことであろう。こういう傾向(けいこう)はあらゆる面に現れている。たとえば、若者が親の反対を押し切り(お き )、苦難を乗り越え(の こ )てついに結ばれるといったいわゆる大恋愛(れんあい)をしなくなった。これは、恋愛(れんあい)の永遠性、唯一(ゆいいつ)性、絶対性といったことが信じられなくなった以上、ある者が、おれは大恋愛(れんあい)をしてやろうとがんばったところで、どうにもなるものではない。職業選択(せんたく)においても、一つのことに一生を賭ける(か  )ということをしなくなった。

(岸田秀(しゅう)の文章による)
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a 長文 4.2週 ya
 1「ふしぎ」と言えば、「私」という人間がこの世に存在しているということほど「ふしぎ」なことはないのではなかろうか。自分が意志したわけでもない。願ったわけでもない。ともかく気がつくとこの世に存在していた。2おまけに、名前、性、国籍(こくせき)、貧富の程度、その他、人生において重要と思われることの大半は、勝手に決められている。こんな馬鹿(ばか)なことはないと憤慨(ふんがい)してみても、まったく仕方がない。その「私」を受けいれ、「私」としての生涯(しょうがい)を生き抜く(い ぬ )ことに全力をつくさねばならない。(中略)
 3「私」のふしぎを忘れたたましいのことを忘れて生きている人に、その「ふしぎ」をわからせる点で、児童文学は特に優れていると思う。私が児童文学を好きなのは、このためである。確かに「大人」として生きるのも大変なことだ。4お金をもうけねばならない。地位も獲得(かくとく)しなくてはならない。他人とスムーズにつき合わねばならない。それらは大変な労力を必要とするし成功したときには、やったという達成感もある。しかし「いったいそれがナンボのことよ」と「たましい」は言う。5その声をよく聴く(き )耳を子どもは持っている。あるいは「たましい」の現実を見る目は子どもの方が持っている。そのような子どもの澄ん(す )だ五感で捉え(とら )た世界が、児童文学のなかに語られている。だから、児童文学は、子どもにも大人にも読んでほしいと思う。
 6たましいというのは、直接にちゃんと定義するなどということはできない。しかし、それは、死んだときにあちらに持っていけるものだ、などと考えてみることもできる。「マッチ売りの少女」があちらに持っていったものと、地位や名誉(めいよ)や財産を沢山(たくさん)持っている人が、あちらに持っていくものと比較(ひかく)したらどうなるだろう。7もちろん後者のような人は、立派な戒名(かいみょう)を手に入れることが、最近では可能になった。その人が死んで閻魔(えんま)の前に立ち、立派な戒名(かいみょう)を名乗るとして、閻魔(えんま)さんの家来の鬼(おに)が「ふん、それがナンボのものよ」などと言っているところを想像してみるのも面白いことではある。
 8たましいなどほんとうにあるのかないのか、実のところはわからない。しかし、それがあると思ってみると、急に途方(とほう)もなく恐ろしく(おそ   )なったり、面白くなったり、人生を何倍か豊かに味わうこ
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とができることは事実である。9もちろん、よいことばかりではなく、下手をすると普通(ふつう)の人生を維持(いじ)できなくなるという危険もあることは知っておかねばならない。
 人生における「ふしぎ」と、それを心のなかに収めていく物語とが、いかに人間を支えているかについて述べてきた。0昔はそのことは部族や民族などの集団で、神話を共有することによってなされてきた。このことは現在もある程度まで事実である。すべての宗教はその基盤(きばん)となる物語をもっている。
 しかし、現在のように個人主義が進んできて、その生き方をある程度肯定(こうてい)するものにとっては、個人にふさわしい物語をもつ、あるいはつくり出す必要があると思われる。と言っても、誰(だれ)もがそのような物語をつくり出す才能があるわけではない。
 そのために、そのときどき自分にとって必要な物語、あるいはそれに類似のものを他人のつくったもののなかから見つけ出すことをしなくてはならない。それは、ひょっとして古い神話のときもあろう。あるいは、現代作家の書いた児童文学かもわからない。ただそれは自分に完全にピッタリというのはないであろう。自分もこの世のなかで唯一(ゆいいつ)固有の存在と考える限り、そんなことはありえない。しかし、それと共に自分が人間としていかにその存在を他と共有し合っているかを思うと、多くの人に共通の重要な物語があることも了解(りょうかい)できるであろう。
 このようにして自分の人生を生きるとき、死ぬときにあたって、自分の生涯(しょうがい)そのものが世界のなかで他にはない唯一(ゆいいつ)の「物語」であったこと、「私」という存在のふしぎがひとつの物語のなかに収められていることに気づくことであろう。自分の人生を豊かで、意味あるものとするために、われわれはいろいろな「ふしぎ」についての物語を知っておくことが役立つのではなかろうか。
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a 長文 4.3週 ya
 1ラレルは、四つの仕事を同時に受け持つ、じつによく働く勤勉な助動詞である。もとより、これを助動詞とは認めず、接尾(せつび)語とする説(時枝(ときえだ)文法)もあるが、それはとにかく、助動詞ラレルの四つの仕事とはこうである。
 2一、「せっかく買った週刊文春を盗ら(と )れた」というふうに、他からの動作や働きを受けることを表す。つまり受け身を表す。
 二、「社長が週刊文春を手に入って来られた」というふうに、動作をする人に対する敬意を表す。つまり尊敬を表す。
 3三、「週刊文春はおもしろく感じられる」というふうに、しようと思わなくても自然にそうなるということを表す。つまり自発を表す。
 四、「この図書館では週刊文春が見られます」というふうに、あることができるということを表す。つまり可能を表す。
 4ら抜き(ぬ )言葉は、四番目の「可能」において頻繁(ひんぱん)に現れる。なぜだろうか。第一の理由は、先にも述べたように助動詞ラレルがすこぶる付きの働き者で、右の四つの仕事を一手に引き受けているからである。これを逆に、使う側のわたしたちから見ると、ラレルは使い分けが複雑で面倒くさい(めんどう   )助動詞だということになる。5だったらラレルの負担を少し軽くしてやったらどんなものか。わたしたちは、心の底でこんなふうに考えている。もっと言えば、ラレルの使い分けは七面倒(しちめんどう)すぎるから少し整理して簡便にしようというわけだ。こういう性向を言語経済化の原理と称する(しょう  )。6口は希代の怠け者(なま もの)、なにかというとすぐ手抜き(てぬ )したがるのである。
 同時に、日本語にはもう一つ、複雑で面倒(めんどう)なものがあって、それが敬語である。しかもそれはただ複雑でめんどうなものであるだけではなく、使い方を誤ると、人間関係が壊れ(こわ )てしまうなど、それはもう大変なことになる。7そこで「見られる」「来られる」「起きられる」など、正規のラレルに敬語(尊敬)の表現を任せることにした。その一方で、とりわけ可能の表現をラレルから独立させ、つまりラ抜き(ぬ )のレルにして、「見れる」「来れる」「起きれる」という具合に表現することにした。8日本人がどこかで大集会を開いてそう談合したわけではないが、自然にそういうことになったのではないか。……と、まあ、こういうことなのだろうと思われる。さらに付け加えるなら、ラレルよりレルの方が発音しやすく簡潔でもあるので、よく使う可能表現をレルにしてしまったということもある
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かもしれない。9いずれにしても、ら抜き(ぬ )言葉を認めるかどうかは、二十世紀日本語の重大問題の一つにはちがいない。というのもだいぶ以前からこの是非(ぜひ)については議論があったからである。『実は、この言い方は、松下大三郎(さぶろう)という、日本語を深く研究した文法学者の『標準日本文法』という本(一九二四年出版)にすでに注意されています。0「起キレル」「受ケレル」「来レル」という言い方は、「平易な説話にのみ用い、厳粛(げんしゅく)な説話には用いない」とその本にあります。』(大野晋(すすむ))
 国語学者の神田寿美子(すみこ)さんによれば、川端(かわばた)康成の『雪国』(一九三五年)にも「遊びにこれないわ」という例があり、一九四三年(昭和十八年)には「日本語」という雑誌に、『「られる」といふべきところを「れる」といふ人が相当多く、しかも知識人の書いたものにまでしばしばこのやうな用法が現れる。例へば、「駈け(か )られる」を「駈け(か )れる」、「綴じ(と )られる」を「綴じ(と )れる」』と書くのは遺憾(いかん)であるという記事がでているそうだ。このように、ら抜き(ぬ )言葉は、永く批判の的になりながらも、しかし次第に多く使われるようになってきたのである。たしかに、ら抜き(ぬ )言葉は手抜き(てぬ )である。しかしそれには理由があった。では、日本語によって生きている者の一人として、君は、ら抜き(ぬ )言葉を、そうなった理由を認めるのか。こう問われるならば、答えは否。言語というものはその本質においてうんと保守的なものである。そこで、そう簡単には言語多数決の原理だの言語経済化の原理だのを受け入れれない。いや、受け入れられないのである。
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a 長文 4.4週 ya
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 私たちはこれまで、木は時代遅れ(じだいおく )の原始的な素材だと思っていた。だからそれに新しい技術を加え、工業材料のレベルに近づけることが進歩だと考えた。その結果、改良木材と呼ばれるものが次々に生み出された。それらは従来の木の欠点を補い、大量の需要(じゅよう)に応じ、生活を豊かにするのに大きく役立ってきた。たしかに木材工業は発展したのである。
 だが一方、最近になって、一つの疑問が持たれはじめてきたように思う。それは木というものは自然の形のまま使ったときが一番よくて、手を加えれば加えるほど本来のよさが失われていくのではないか、という反省である。考えてみるとそれは当たり前のことだったかもしれない。木は何千万年もの長い時間をかけて、自然の摂理(せつり)に合うように、少しずつ体質を変えながらできあがってきた生き物だったはずである。木は自然の子で、そのままが最良なのである。
 だから木を構成する細胞(さいぼう)の一つ一つは、寒いところでは寒さに耐える(た  )ように、雨の多いところでは湿気(しっけ)に強いように、微妙(びみょう)な仕組みにつくられている。あの小さな細胞(さいぼう)の中には、人間の知恵(ちえ)のはるかに及ば(およ )ない神秘がひそんでいるとみるべきであろう。それを剥い(は )だり切ったり、くっつけたりするだけで、改良されると考えたこと自体、近代科学への過信だったかもしれない。
 木を取り扱っ(と あつか )てしみじみ感ずることは、木はどんな用途(ようと)にもそのまま使える優れた材料であるが、その優秀(ゆうしゅう)性を数量的に証明することは困難だということである。なぜなら、強さとか、保湿性(ほしつせい)とか、遮音(しゃおん)性とかいった、どの物理的性能をとりあげてみても、木はほかの材料に比べて、最下位ではないにしても、最上位にはならない。どれをとっても、中位の成績である。だから優秀(ゆうしゅう)性を証明しにくい、というわけである。
 だがそれは、抽出(ちゅうしゅつ)した項目(こうもく)について、一番上位のものを最優秀(さいゆうしゅう)だとみなす、項目(こうもく)別のタテ割り評価法によったからである。いま見方を変えて、ヨコ割りの総合的な評価法をとれば、木はどの項目(こうもく)でも上下に偏り(かたよ )のない優れた材料の一つということになる。木綿も絹も同様で、タテ割り評価法でみていくと最優秀(さいゆうしゅう)にはならない。しか
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し「ふうあい」(繊維(せんい)の手ざわりや見た感じ)まで含め(ふく )た繊維(せんい)の総合性で判断すると、これらが優れた繊維(せんい)であることは、実は専門家のだれもが肌(はだ)で知っていることである。総じて生物系の材料というものは、そういう性質をもつもののようである。
 以上に述べたことは、人間の評価のむずかしさにも通ずるものがあろう。二、三のタテ割りの試験科目の点数だけで判断することは、危険だという意味である。たしかに今の社会は、タテ割りの軸(じく)で切った上位の人たちが、指導的役割を占め(し )ている。だが実際に世の中を動かしているのは、各軸(じく)ごとの成績は中位でも、バランスのとれた名もなき人たちではないか。頭のいい人はたしかに大事だが、バランスのとれた人もまた、社会構成上欠くことのできない要素である。だが今までの評価法では、そういう人たちのよさは浮かん(う  )でこない。思うに生物はきわめて複雑な構造をもつものだから、タテ割りだけで評価することには無理があるのであろう。

(小原二郎(こはらじろう))
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長文 4.4週 yaのつづき
 1話を元に戻そ(もど )う。以上述べてきたように、海牛類とクジラ類では鼻の位置がかくの如く(ごと )違う(ちが )のだが、クジラのように鼻が頭のてっぺんにある哺乳類(ほにゅうるい)はほかにはいない(おそらくほかの動物群「綱(こう)」でもそうなのかもしれない)。2とすれば、(現生の)クジラの定義として、
(一) 哺乳類(ほにゅうるい)である。
(二) 一生を水の中で過ごす。
の二条件に加えて、
(三) 鼻の孔(あな)が頭頂「頭のてっぺん」に位置する。とすれば、クジラ以外にこれに該当(がいとう)する生き物はいないことになる。3さらにいえば、(三)は非常に有力なキーであるから、(二)の「一生を水の中で過ごす」という定義がなくても、無事にクジラ類にまで検索(けんさく)が行き着くのである。(中略)
 クジラの体型をクラシックにまとめると、「紡錘形(ぼうすいけい)にしてひれ状の前肢(ぜんし)を持ち、後肢(こうし)を欠くが尾(お)部末線に半月状の尾びれ(お  )が付属する。4また、背部後半に背びれを有するものもいる」とでもなる。クジラ類の体型は多かれ少なかれこの字句で包括(ほうかつ)できてしまうのだが、一方、「ちょっと待てよ、こりゃ、何もクジラだけの特徴(とくちょう)でもねーんじゃねえーか?」という疑問がわきおこる。いや、じつにそうなのである。5ここでまとめたクジラの体の基本的な特徴(とくちょう)は、まさに海の先輩(せんぱい)である魚類にもあてはまることなのである。
 著名な進化学者であるハウエルによれば、ホオジロザメ(魚類代表)、イクチオザウルス(通称(つうしょう)魚竜(りゅう)・爬虫類(はちゅうるい)代表)そしてバンドウイルカ・ナガスクジラ(クジラ類・哺乳類(ほにゅうるい)代表)はいずれも、基本体型が大変似通っている。6これらは、進化系統的にはまったく赤の他人のようなものだが、共通しているのは、いずれも生活圏(けん)がまったく水の中にあること、とりわけ一生を水の中で過ごすことである。つまり、このような生活環境(かんきょう)の故にこの体つきになったということである。7この四者の比較(ひかく)は、学術的には系統的に異なる生物が同一の環境(かんきょう)下で過ごすことによって体型が似てくる(生物
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学的)収斂(しゅうれん)現象の例としてしばしば取り上げられる。
 この収斂(しゅうれん)現象は、自然科学的にも人文科学的にも広範(こうはん)に真理をついているように思える。8環境(かんきょう)を条件に見立てれば、空を飛ぶためには鳥とコウモリさらに飛行機の収斂(しゅうれん)になり、さらに形を文化にたとえれば、上りたいという条件は、互いに(たが  )交流がなくても東西の階段の形や使い方が似てくるという例に置き換え(お か )られる。
 9言い換えれ(い か  )ば、収斂(しゅうれん)とは「互いに(たが  )独立して努力しても、合理性を追求してゆくと、結果が類似してくる」ということなのである。
 クジラ類が、一体いつごろ水界に入ったかは依然として(いぜん   )謎(なぞ)が多い。0従来、最古のクジラであるムカシクジラ類パキセタスの化石が現れるのがおよそ五〇〇〇万年前といわれていたが、近年発見されたアンプロケタスの化石は、これを上回る五二〇〇万年前の地層から見いだされている。いずれにしても、ため息の出るような悠久(ゆうきゅう)の時を経ていることには変わりがない。この間には、幾多(いくた)のクジラの種類が現れては消えていったはずであるが、クジラ類というグループとしてはひたすらたゆまぬ努力を重ねて地球上のあらゆる水界に進出する一方、地球が生んだ最も高等な哺乳類(ほにゅうるい)という生物の一族でありながら、自らの記憶(きおく)すらない遠い遠い祖先「海の大先輩(せんぱい)」である魚類を凌ぐ(しの )ほどに体を変えて水になじんだのである。私が前段でこだわった「鼻の位置」も、もちろんこの一環(いっかん)にすぎない。
 クジラ類とは、哺乳類(ほにゅうるい)でありながら、本来の生活の場から水界に生息場所を移し、そこでの生残りを果たしただけでなく、なおかつ合理性を追求している生き物であり、このような「クジラ的な生き物」はやはりクジラしかいない。

(加藤(かとう)秀弘(ひでひろ)編著『ニタリクジラの自然誌』による)
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a 長文 5.1週 ya
一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。
 1住空間をきれいにするには、できるだけ空間から物をなくすことが肝要(かんよう)ではないだろうか。ものを所有することが豊かであると、僕ら(ぼく )はいつの間にか考えるようになった。
 2高度成長の頃(ころ)の三種の神器は、テレビ、冷蔵庫、洗濯(せんたく)機、その次は自動車とルームクーラーとカラーテレビ。戦後の飢餓(きが)状態を経た日本人は、いつしか、ものを率先して所有することで豊かさや充足(じゅうそく)感を噛み締める(か し  )ようになっていたのかもしれない。3しかし、考えてみると、快適さとは、溢れ(あふ )かえるほどのものに囲まれていることではない。むしろ、ものを最小限に始末した方が快適なのである。何もないという簡潔さこそ、高い精神性や豊かなイマジネーションを育む温床(おんしょう)であると、日本人はその歴史を通して、達観したはずである。
 4慈照寺(じしょうじ)の同仁斎(じんさい)にしても、桂(かつら)の離宮(りきゅう)にしても、空っぽだから清々しいのであって、ごちゃごちゃと雑貨やら用度品やらで溢れ(あふ )ているとしたなら、目も当てられない。5洗練を経た居住空間は、簡素にしつらえられ、実際にこの空間に居る時も、ものを少なくすっきりと用いていたはずである。用のないものは、どんなに立派でも蔵や納戸に収納し、実際に使うときだけ取り出してくる。それが、日本的な暮らしの作法であったはずだ。
 6ものにはそのひとつひとつに生産の過程があり、マーケティングのプロセスがある。石油や鉄鉱石のような資源の採掘(さいくつ)に始まる遠大なものづくりの端緒(たんしょ)に遡っ(さかのぼ )て、ものは計画され、修正され、実施(じっし)されて世にかたちをなしてくる。7さらに広告やプロモーションが流通の後押し(あとお )を受けて、それらは人々の暮らしのそれぞれの場所にたどり着く。そこにどれほどのエネルギーが消費されることだろう。その大半が、なくてもいいような、雑駁(ざっぱく)とした物品であるとしたらどうだろうか。8資源も、創造も、輸送も、電波も、チラシも、コマーシャルも、それらの大半が、暮らしに濁り(にご )を与える(あた  )だけの結果しかもたらしていないとするならば、これほど虚しい(むな  )ことはない。
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 9無駄(むだ)な物を捨てて暮らしを簡潔にするということは、家具や調度、生活用具を味わうための背景をつくるということである。芸術作品でなくとも、あらゆる道具には相応の美しさがある。0何の変哲(へんてつ)もないグラスでも、しかるべき氷を入れてウイスキーを注げば、めくるめく琥珀(こはく)色がそこに現れる。霜(しも)の付いたグラスを優雅(ゆうが)な紙敷(かみしき)の上にぴしりと置ける片付いたテーブルがひとつあれば、グラスは途端(とたん)に魅力(みりょく)を増す。逆に、漆器(しっき)が艶(つや)やかな漆黒(しっこく)をたたえて、陰影(いんえい)を礼賛する準備ができていたとしても、ものが溢れ(あふ )かえっているダイニングではその風情を味わうことは難しい。
 持つよりもなくすこと。そこに住まいのかたちを作り直していくヒントがある。何もないテーブルの上に箸置き(はしお )を配する。そこに箸(はし)がぴしりと決まったら、暮らしは既に(すで )豊かなのである。
 (原研哉()「持たないという豊かさ」より)
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長文 5.1週 yaのつづき
 1島国言語の特色のひとつは、相手に対する思いやりが行き届いていることである。ヨーロッパの言語では、われとなんじ、自と他の対立関係において言語活動が考えられるが、島国言語の日本語ではそういう対立関係はあまり発達しない。2そのかわり第一人称(だいいちにんしょう)にいろいろな形態ができている。「私ども」とか「手前ども」のように、第一人称(だいいちにんしょう)の単数か複数かはっきりしないような用法があり、それが何とも言えない味わいをもって受けとられる。
 3ヨーロッパの言語や文法の考えになれた人たちから見ると、いかにも不明瞭(ふめいりょう)である。もうすこしはっきりさせた方がいいのではないか。どうして、日本語の主語が不安定なのであろう。そういう感想がもたれ、それがやがて日本語は論理的ではないのではないかという疑いに結びついて行く。
 4日本語の人称(にんしょう)をあらわす語は、きわめて多様で、第一人称(だいいちにんしょう)など五つ六つがすぐ頭に浮かん(う  )でくる。日常使っている第一人称(だいいちにんしょう)でも、二つや三つは使い分けている。相手との心理的距離(きょり)、関係にしっくり合うような人称(にんしょう)語を使うことが必要だという意識がつよいからであろう。5対人関係の微(び)調整の感覚が発達しているのだとも言える。(ここまで、島国言語という表現を何のことわりもなしに用いてきたが、大陸言語にくらべて劣っ(おと )ているといった含蓄(がんちく)はまったくない。島国、大陸は地理的条件を示すものであって、島国的な母国根性といったものと結びつく形容詞ではないつもりである。以上、念のため。)
 6島国言語のもうひとつの特質は、話の通じがたいへんよいということである。ツーといえばカーとくる。お互いに( たが  )野暮な人間はいない、あるいは、いないはずだという前提に立っている。通人同士のコミュニケイションだということである。7通人というと何か古くさい感じがするが、伝達理解に必要な情報をもっている人間はすべて通人である。したがって、われわれはだれでもある場面では通人としての言語活動をしているのである。その典型は家族間の会話である。8省略の多い、要点のみをおさえた言葉のやりとりをしていて、お互い( たが )に理解し合っている。通人同士だからである。
 家族の会話というのは、どんな大陸言語の性格のつよい社会でも通人的、したがって島国言語的なものである。9ただ、日本語は、普通(ふつう)は家族の間で行われるような言語活動の様式が親密な集団の範囲(はんい)をこえて広く認められるのである。
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 それでは島国言語がなぜ通人社会になるのか。家族の会話が第三者にはまるで判じもののようなやりとりをしておりながらなぜ意思の疎通(そつう)ができるのか。0そういうことが問題になるであろう。
 言語には冗語(じょうご)性というものがある。ひと口にいうと言葉の中に含ま(ふく )れる必要な蛇足(だそく)である。どんな言語でも必要にして充分(じゅうぶん)なことだけしか表現していないことはあり得ない。百が必要量だとすると、表現は百五十も百八十もの情報をもっている。だから、受け手はその中から百だけを理解すればよい。残りの部分は蛇足(だそく)であるが、これがないと相手の言っていることが中途(ちゅうと)でわからなくなったりする危険がある。(中略)
 このように、時と場合によって、蛇足(だそく)の部分をふやしたり、減らしたりということをほとんど無意識に行っている。相手の耳に達するまでにロスが多いと思えば冗語(じょうご)性を高めるし、確実に伝わる自信をもっているときには、低音で話したり、省略の多い表現をとったりして冗語(じょうご)性をすくなくする。冗語(じょうご)性のすくない典型的なケースがすでにのべた家族間の話である。
 日本語は島国言語である。島国言語というのは極端(きょくたん)な言い方をすると、家族同士の会話を社会全体でもやっているような言語のことで、当然、冗語(じょうご)性はすくなくてよい。島国言語の社会で冗語(じょうご)性がすこし普通(ふつう)より高くなると、すぐ、くどいとかうるさいとか理屈っぽい(りくつ   )、野暮というような消極的反応を誘発(ゆうはつ)する。通人の社会である。大人はなるべく冗語(じょうご)性のすくない言葉を用いるように知らず知らず傾い(かたむ )ている。
 大陸言語の社会では冗語(じょうご)性をあまりすくなくすると、ごく親密な関係の人との間ならともかく、相手に誤解されたり、了解(りょうかい)不能を訴え(うった )られたりするから、ていねいな表現をしなくてはならない。ヨーロッパ語の中でもドイツ語がいちばん冗語(じょうご)性が高いということであるが、われわれがドイツ語を論理的で何となく理屈っぽい(りくつ   )と感じているのはこの冗語(じょうご)性の高さと無関係ではないように思われる。
(外山滋比古(とやましげひこ)「日本語の論理」より)
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a 長文 5.2週 ya
 1こればかりは自分で体験するしかないが、方法はないわけではない。
 第一には旅をすることだ。地球上にはまだ浪費(ろうひ)文明に侵さ(おか )れず昔ながらの素朴(そぼく)な生活を営んでいるところがいくつもある。2アジア、アフリカのいわゆる第三世界に行けばいまだそれがふつうの暮らし方だし、またアイルランドやメキシコやニュージーランドにたっぷりとそういう暮らしぶりが残っている。わたしはそういう土地に行き、その生き方になじむことで、自分の生きている日本の大都会の生がいかに反自然な人工的なものかを知った。3と同時に彼ら(かれ )のその生のほうがいかに人間らしく、自然と調和しているかを味わった。そのほうが効率的生産を求めてあわただしい日本の今の生活よりずっと上等な生だと痛感したのだった。
 そこで何より思い知らされたのは、人間は生きていく上でなんとわずかの物で足りるかということだった。4われわれが生活の必需(ひつじゅ)品のごとく思いなしているさまざまな文明の利器などなくても人間は生きていけるのである。むしろそんなものなしに身を自然の中に置いたほうが、どれほど今自分が生きてあることをしみじみと感じるかもしれないのであった。
 5オーストラリアの原住民、アボリジニの一人が東京に来たときビルの入り口の自動ドアに驚き(おどろ )、「なんでこんなものが必要なのか。ドアなど手であければいいではないか」と言ったという。われわれはそういう思いがけぬ指摘(してき)でふだんの生活がいかにムダなもので占め(し )られているかを思い知らされるのである。
 6第二に、それよりもっと簡単な方法は、日本文化の伝統の中からそういうシンプル・ライフを実践(じっせん)した人を探し、その生とわが身の現在とを比較(ひかく)してみることだ。
 西行、鴨長明(かものちょうめい)、兼好(けんこう)法師、池大雅(いけのたいが)、芭蕉(ばしょう)、良寛(りょうかん)、等々、探すにも及ば(およ )ぬくらいそういう生き方をした人物がわが国にはあって、むしろ彼ら(かれ )こそがこの国の文化をつくり出したと思われるほどだ。
 7その中の一人、前述した良寛(りょうかん)をとってみれば、彼(かれ)はおそろしいほど無一物の生を送った。草庵(そうあん)に住み、食は、乞食(こじき)により、衣は着ている黒衣一つという極限の単純さに生きた。8が、彼(かれ)の詩や歌、書を見れば、この最も貧しい生を選んだこの人物の心のうちが
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いかにゆったりと満ち足り、生きている一日また一日を感謝の思いで生きていたかがわかる。それを見ると、彼(かれ)は何ももたなかったにもかかわらずなぜこんなにゆたかな気持ちで生きられたのだろうと、ふしぎな気がするくらいである。
 9草の庵(あん)に足さしのべて小山田の
 山田のかはづ聞くがたのしさ
 むらぎもの心楽しも春の日に
 鳥のむらがり遊ぶを見れば
 ともに、ただ鳥が遊び蛙(かえる)が無心に鳴くのを聞くというだけの歌だが、単純に充実(じゅうじつ)し、良寛(りょうかん)の心が自然に向かってひらけ、鳥や蛙(かえる)の声がその心の世界にこの上ない幸福感を与え(あた )ていることがわかる。0良寛(りょうかん)は恐るべき(おそ   )単純な生活をしながら、心はこれだけ充実(じゅうじつ)していたのだ。これを見ると、これほど徹底(てってい)してすべてを捨てたシンプル・ライフだったからこそ、これだけ自由でゆたかな心になれたのかと思われるほどである。
 ――人は生きるためにいったい何を必要とし、何を必要としないか。(中略)
 そういう根源的な疑問の前に自分を立たせてみるとき、自分たちがいかに文明の提供する便利や快適の誘惑(ゆうわく)によって余計なものを多くもたされているか、それら物の過剰(かじょう)によって生そのものを見えなくしているかを知らされるのである。少なくともわたしは良寛(りょうかん)やそういう生き方をした昔の日本人の生と自分の現在とをくらべることによって、初めて自分の置かれている立場を知ることができたのであった。
 その結果わたしはクルマの所有と維持(いじ)を止め、テレビを見ず、クーラーのない、むろん携帯(けいたい)電話だのワープロだのと無縁(むえん)な、物質文明社会の中であたうかぎりその恩恵(おんけい)を拒否(きょひ)するひねくれ者の暮らしを営むに至ったが、それで満足しているのである。
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a 長文 5.3週 ya
 1父が父でなくなっている。父が父の役割を果たしていない。家族を統合し、理念を掲げ(かか )、文化を伝え、社会のルールを教えるという父の役割が消えかけている。その結果、家族はバラバラになっていわゆる「ホテル家族」となり、善悪の感覚のない人間が成長し、全体的視点のない利己的な人間や無気力な人間が増えている。
 2父としての役割は、立派な父でないと果たすことができない。立派でない父が家族を統合しようとし、理念を掲げ(かか )ても、家族から無視されるだけである。立派な父が必要とされているのに、しかしその立派な父が育ちにくいのが現代社会である。3そもそも「立派」などというものが流行らない世の中なのだ。自らの欲望をコントロールし、全体の将来を考えてリーダーシップをとり、各成員の調停をして取りまとめ、ルールを教えるという「立派な」人格は、尊敬の対象にはなりにくい。4「正直」だの「誠実」だのという抽象(ちゅうしょう)的な徳目(とくもく)を唱える父親は、子どもたちから煙たがら(けむ   )れる。あまり立派でない、むしろだらしのないくらいの父親のほうが親しまれることになる。「ありのまま」がよいとされ、「立派」なのは無理していると見られ、不自然だとみなされる。
 5父でなくなった父の典型が「友だちのような父親」である。彼ら(かれ )は上下の関係を意識的に捨ててしまった。価値観を押しつける(お    )ことは絶対にしない。子どもの自主性を重んじて決して強制はしない。何をするのも自由放任である。6しかしそういう父親の子どもは「自由な意志」を持つようにはなるが、「よい意志」を持つようにはならない。精神力がなく無気力になりがちなので簡単に不登校になったり、逆にわがままになると「いじめ」に走ったりする。
 7いじめっ子の出来方は、わがまま犬の出来方によく似ている。飼い主の言うことをきかないわがまま犬は、飼い主が自由放任でルールを教えなかったために生まれるのである。犬の意志を尊重して、犬の要求を何でもきいてやっていると、犬は自分が主人だと思って自由意思を持ち、勝手に要求をして、やたらと吠える(ほ  )ようになる。8飼い主が父として原則・理念と生活規則を教え、一定の我慢(がまん)をすることを教えないと、子どもでも犬でも同じようにわがままに育ってしまうのである。
 「友だちのような父親」は、じつは父ではない。父とは子どもに文化を伝える者である。伝えるとはある意味では価値観を押しつける(お    )ことである。9自分が真に価値あると思った文化を教え込む(こ )のが父の最も大切な役割である。上下の関係があり、権威(けんい)を持
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っていて初めてそれができる。しかし対等の関係では、文化を伝えることも、生活規則、社会規範(きはん)を教えることもできない。「もの分かりのいい父親」は父の役割を果たすことのできなくなった父と言うべきである。0

(林道義「父性の復権」より)
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a 長文 5.4週 ya
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 春になると、隣家(りんか)の庭の白(はく)木蓮(もくれん)が一斉(いっせい)に花を開く。その姿は薄闇(うすやみ)の中で眺める(なが  )のがいちばん美しい。しかし、いま書きたいのは隣家(りんか)の木ではない。身近な花の美しさによって呼び出されたような、もう一本の木のことである。
 ある日の午後、階下の西向きの窓からぼんやり外を見ていた。そのころまだわが家の西側に建物はなく、空き地ぞいの道を隔て(へだ )てかなり遠くまでの景色が楽しめた。ふと気がつくと、道の向こうの家の庭木の間から一本の白い樹木が立ち上がっている。いや、満身に白い花を飾っ(かざ )た丈(たけ)高い木が目に飛びこんできたのだ。その家の庭にある木ではない。更に(さら )遠くに立っているものが庭木ごしに望まれたのだ。おそらく、木は以前からそこにあったのだろう。ただ純白の花をまとうまで、こちらが気づかなかっただけに違い(ちが )ない。白木蓮(はくもくれん)にしては、丈(たけ)が少し高すぎる。しかし辛夷(こぶし)にしては、あまりに花が大ぶりで木の全体を包みすぎている。家の者に尋ね(たず )ても、その木を見るのは初めてであり、どのあたりに生えているのか見当がつかぬという。まるで突然(とつぜん)に出現したかのような、白く燃える美しい木だった。
 次の日も、次の次の日も、木は同じように立っていた。というより、更に(さら )白い輝き(かがや )をまして西の窓外に目を誘っ(さそ )た。ついにたまらなくなって家を出た。駅とは反対の方角なので、平素はあまり足を運ばないあたりである。歩き出すとすぐに相手は見えなくなった。道からでは近くの家の庭木がじゃまをするからだ。はじめは駅へと向かい、次に右折を二度重ねてもう一本先の道へと曲ってみた。わが家からの見え方からすれば、その道の左右いずれかにあるはずだ。最初の日、とうとう発見することはできなかった。帰って西側の窓辺に立つと、木はくっきりと曇り空(くも ぞら)を背景にたたずんでいるのだった。
 翌日、二度目の探索(たんさく)におもむいた。そして前日と同じ道の右側に、二階家の壁(かべ)に隠れる(かく  )ようにして花を咲かせ(さ  )ている大きな白木蓮(はくもくれん)を見つけ出した。そしてひどくがっかりした。近くにそれらしい木はないので間違い(まちが )ないと思われるのに、見る角度が異なるためか、相手は窓から眺め(なが )たときのような気高い美しさをたたえてはいなか
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った。こんなことならさがし出さなければよかった、といたく後悔(こうかい)した。
 それから間もなく、空き地に家が建てられて西向きの窓からの眺め(なが )を奪っ(うば )た。遠い白木蓮(はくもくれん)はわが家の視界から失われた。その木はいま、ぼくの中だけに一年中白い花を咲かせ(さ  )てひっそりと立っている。

(黒井千次(くろいせんじ)「五十代の落書き」)
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長文 5.4週 yaのつづき
 1じっさい、ほかの国の言葉で日本語ほど多様な水の表現をもっている例はないといってもいいのではあるまいか。だから、さきの蕪村(ぶそん)の句を外国語に翻訳(ほんやく)するのは至難なのである。たとえば英語やドイツ語やフランス語で「のたりのたり」をどのように表現したらいいのだろう。2私はさんざん苦労したあげく、ついにこの句を外国の知人に説明し得なかった。
 「のたりのたり」だけではない。水についてのオノマトペは、そのほとんどが翻訳(ほんやく)不可能である。たとえば、文部省唱歌の「春の小川はさらさら流る」の「さらさら」は、どう訳したらいいのか。3お伽( とぎ)話『桃太郎(ももたろう)』で語られているあの「ドンブラコッコ、スッコッコ」を何と表現したらいいのか。野口雨情の童謡(どうよう)「ドンと波 ドンと来て ドンと帰る」をどんなふうにいいかえたらいいのか。
 水で布などを洗う音は「ざぶざぶ」であり、涙(なみだ)が流れる様子は「さめざめ」であり、4水気をふくんださまは「しっとり」であり、それが外ににじむほどであれば「じっとり」であり、湿気(しっけ)が過度であれば「じめじめ」であり、水が絶えず流れ出る状態は「じゃーじゃー」であり、水が揺れ動く(ゆ うご )様相は「じゃぶじゃぶ」であり、水滴(すいてき)が垂れる音は「ぽたぽた」であり、5水が跳ねる(は  )有様は「ぴちゃぴちゃ」であり、水にひどく濡れる(ぬ  )形容は「びしょびしょ」であり、水に何かが軽そうに浮かん(う  )でいるのは「ぷかぷか」、水に沈む(しず )さまは、「ぶくぶく」、雨が降り出すのは「ぽつぽつ」、水中から泡(あわ)が浮かび(う  )あがるのは「ぼこぼこ」、水を一気に飲み干すさまは「がぶがぶ」、6水が何かに吸い込ま(す こ )れる音は「ごぼごぼ」、そして、大波は「とどろ」に打ち寄せ、滝(たき)は「ごうごう」と落ち、石は水中に「どぶん」と沈み(しず )、水は「ばちゃっ」と跳ねかえり(は    )、夕立は「ざーっ」と襲い(おそ )、梅雨は「しとしと」と降りつづく。
 ああ、なんと多彩(たさい)な水の表現であろうか!
 7だが、こうした多彩(たさい)なオノマトペは、同質社会でこそ微妙(びみょう)な伝達の機能を発揮できるが、異質な風土、異質な文化のなかに住む人にはさっぱり通じない。なぜなら、擬声語(ぎせいご)、擬態語(ぎたいご)というのは、あくまで感覚的な言語であって、言語の重要な性格である抽象(ちゅうしょう)性を
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もたないからだ。
 8したがって、感覚的にわかるこれらの言葉の意味を説明するとなると――とたんに行きづまってしまう。オノマトペは、いわば音楽なのであり、その意味をつたえることのむずかしさは音楽の与える(あた  )イメージを言語で解説する困難さとおなじだといってよい。9この意味で擬声語(ぎせいご)、擬態語(ぎたいご)は言葉の本質ともいうべき抽象(ちゅうしょう)力を欠く低次の言葉だといえなくもない。しかし、言語がその抽象(ちゅうしょう)力をもって伝達し得る領域には限界がある。人間の言語は、しょせん万能ではないのだ。0
 もし言語がこの世界のすべてを表現しつくせるものなら、言葉さえあれば何もかも理解できてしまうだろう。しかし、そうはいかない。そうはいかないからこそ、言葉ではいいあらわせない別の表現を人間は考え出してきたのだ。たとえば絵画であり音楽である。セザンヌの絵を、あるいはモーツアルトの音楽を言葉にそっくり置きかえるなどということができるであろうか。私はオノマトペを言語と音楽との接点として考える。それは人間の感性を音声そのものによって表現しようとする伝達の手段だからだ。したがって、擬声語(ぎせいご)、擬態語(ぎたいご)はきわめて微妙(びみょう)な感性を表現し得るかわりに抽象(ちゅうしょう)性を欠き、普遍(ふへん)性を犠牲(ぎせい)にせざるを得ない。オノマトペはあくまで限られた言語、内輪の言葉という宿命をもつのである。

(森本哲郎(てつろう)『日本語 表と裏』の文章による)
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a 長文 6.1週 ya
一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。
 1単調で荒涼(こうりょう)な砂漠(さばく)の国には一神教が生まれると言った人があった。日本のような多彩(たさい)にして変幻(へんげん)きわまりなき自然をもつ国で八百万(やおよろず)の神々が生まれ崇拝(すうはい)され続けて来たのは当然のことであろう。山も川も木も一つ一つが神であり人でもあるのである。2それをあがめそれに従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。また一方地形の影響(えいきょう)で住民の定住性土着性が決定された結果は至るところの集落に鎮守(ちんじゅ)の社(もり)を建てさせた。これも日本の特色である。
 3仏教が遠い土地から移植されてそれが土着し発育し持続したのはやはりその教義の含有(がんゆう)するいろいろの因子が日本の風土に適応したためでなければなるまい。思うに仏教の根底にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。4鴨長明(かものちょうめい)の方丈(ほうじょう)記を引用するまでもなく地震(じしん)や風水の災禍(さいか)の頻繁(ひんぱん)でしかも全く予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶(きおく)となって五臓六腑(ごぞうろっぷ)にしみ渡っ(  わた )ているからである。
 5日本において科学の発達がおくれた理由はいろいろあるであろうが、一つにはやはり日本人の以上述べきたったような自然観の特異性に連関しているのではないかと思われる。雨のない砂漠(さばく)の国では天文学は発達しやすいが多雨の国ではそれが妨げ(さまた )られたということも考えられる。6前にも述べたように自然の恵み(めぐ )が乏しい(とぼ  )代わりに自然の暴威(ぼうい)のゆるやかな国では自然を制御(せいぎょ)しようとする欲望が起こりやすいということも考えられる。全く予測し難い地震(じしん)台風に鞭打た(むちう )れつづけている日本人はそれら現象の原因を探究するよりも、それらの災害を軽減し回避(かいひ)する具体的方策の研究にその知恵(ちえ)を傾け(かたむ )たもののように思われる。7おそらく日本の自然は西洋流の分析(ぶんせき)的科学の生まれるためにはあまりに多彩(たさい)であまりに無常であったかもしれないのである。
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 8現在の意味での科学は存在しなかったとしても祖先から日本人の日常における自然との交渉(こうしょう)は今の科学の目から見ても非常に合理的なものであるという事は、たとえば日本人の衣食住について前条で例示したようなものである。その合理性を「発見」し「証明」する役目が将来の科学者に残された仕事の分野ではないかという気もするのである。
 9ともかくも日本で分析(ぶんせき)科学が発達しなかったのはやはり環境(かんきょう)の支配によるものであって、日本人の頭脳の低級なためではないということはたしかであろうと思う。その証拠(しょうこ)には日本古来の知恵(ちえ)を無視した科学が大恥(はじ)をかいた例は数えれば数え切れないほどあるのである。0

 「日本人の自然観」(寺田寅彦(とらひこ))
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長文 6.1週 yaのつづき
 1ノンフィクションの書き手は、在るものを映そうとし、フィクションの書き手は、在らしめるために創ろうとする。
 たとえば、先にあげた「『事実』の呪縛(じゅばく)を超える(こ  )もの」という座談会の中で、小説家である加賀乙彦(おとひこ)は、実在の人物をモデルにした小説『錨(いかり)のない船』を書くという体験に即し(そく )て、次のように語っている。
 2『……最初に収集した事実を一応ふまえて、それほど逸脱(いつだつ)したことは書けないけれども、登場人物の心理とか家族の関係とか死んだ様子とかってのは、全部事実と違う(ちが )完全なフィクションになってきたんですね。その方が実在の来栖(くるす)良さんという青年の真実に近いのだろうということなんです。(中略)3昔、アンドレ・ジイドが「フィクションの方が真実で、ノンフィクションは真実から遠ざかるだけだ」と言ってますけど、僕(ぼく)も同じような考えで、フィクションが多ければ多いほど真実に近づいていくっていう経験を今度しましたね』
 4ここには、フィクションの書き手の、創るということの絶大な自信と、あえていえば傲り(おご )が、驚く(おどろ )ほど率直に表明されている。確かに創るということを認めるなら話は簡単だ。5他人というものはついに、理解することはできないのではないか、という苛立ち(いらだ )からも脱(ぬ)け出せ、事実の核(かく)に到達(とうたつ)できないのではないかという絶望からも解き放たれる。自分の身の丈(み たけ)に合った「真実」とやらにも接近できるだろう。6しかし、想像力による事実の改変や細部の補強という方法は、記録というものには限界があるのではないかという問いへの答にはなりえない。記録、ここではノンフィクションだが、それは創らぬという約束の上に成り立っているジャンルの文章なのだ。それをスポーツにおけるルールと考えてもよい。7サッカーが手を使わないことによってラグビーと異なる緊張(きんちょう)感を生み出すように、ノンフィクションも恣意(しい)的に想像力を行使しないということで『在らしめる』という闘い(たたか )を免除(めんじょ)され、『在る』ということによって支えられている力を付与(ふよ)されているのだ。
 8ここまできて、ようやくノンフィクションには限界があるのではないかという問いにまとわりついている霧(きり)がうっすらとだが晴れ
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ていくように感じられる。つまり、限界があるのは当然ではないか、という地点に辿り(たど )つくのである。9そこに一定のルールがある以上、可能なことには限りがある。全能の文章のスタイルといったものを求めることが無理なのだ。とすれば、最も大事なことは、ノンフィクションには何が可能で何が不可能かの境界を見極めることのはずである。0
 ノンフィクションのライターにできることは、事実の断片を収集することでしかない。加賀乙彦(おとひこ)のいう「真実」とやらに到達(とうたつ)することは不可能であり、事実の核(かく)といったものを掘り出す(ほ だ )こともできない。だが、それでどうしていけないことがあろう。断片と断片のあいだはついに埋まら(う  )ない。わかることもあり、わからないこともある。それをそのまま提出してどうしていけないか。いや、むしろその方が、『在る』ものとしての事実の質感や大きさをくっきりと伝えることになるのではないか。事実の断片を断片として提出する。しかし、その断片の選び方、提出の仕方に、書き手の「人間」が混じり合ってしまわないか、という問いかけがあった。それに対しても、その通りと認めることでしか答は見つからない。「人間」の混入は不可避(ふかひ)である。それはこの世に万人が認める唯一(ゆいいつ)無二の絶対的な事実があるのではなく、個人にとっての事実しかないという立場を承認することでもある。つまり、ノンフィクションとは、事実の断片による、事実に関するひとつの仮説にすぎないのだ。

(沢木(さわき)耕太郎(こうたろう)の文章による)
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a 長文 6.2週 ya
 1百年以上家具を使ったという例は別にめずらしくはない。イギリスだけではなく、中国でも日本でも代々その家に伝わる家具というものがあった。使い方さえ間違え(まちが )なければ、家具にとって百年というのは、むしろ短い時間と言える。2またかなり荒っぽく(あら   )使ってもそう簡単には壊れ(こわ )はしない。最悪の場合でも、無垢(むく)の天然木を使っていれば、ほんの少し修理したらまた使える。東京の新宿に「ダグ」という喫茶店(きっさてん)があるが、その中に使われている家具は三百年以上も前のがかなりある。3そして、毎日毎日、いろいろなタイプの人が使いつづけているのに、今でもまったく問題がない。それどころか、永年使いつづけた味わいはますます深まっている。
 それに比べたら、車や家電製品はほとんどのものが十年以内の寿命(じゅみょう)である。4そして、十年も使いつづけた後は、ほとんどの場合鉄くずの価値しかない。ところが、オーク・ヴィレッジ()の家具は、ほぼ車一台の値で、家に必要不可欠なものがそろう。そして、十年たってもまず価値が下がるということがない。5いや、良い家具はむしろ十年ぐらい使い込ん(つか こ )だ方がよくなる。こうしてみると、無垢(むく)の天然木を使った質の高い家具を百年使うとなれば、それは車や家電製品より何倍も安く、かつ生活を快適にするのに効果があるということが納得できる。
 6経済面から考えた効果は、実のところ「百年使う家具」のもっとも重要な要素ではない。無垢(むく)の木でできた質の高い、テーブルやデスクや書棚(しょだな)を生活の中に入れてみると、人間の意識が変わるのだ。薄っぺら(うす   )な合板(ごうばん)と無垢(むく)の天然木は存在感が違う(ちが )。7そして、単に迫力(はくりょく)があるだけでなく自然素材特有の温かさと柔らか(やわ  )さで、私たちを受け入れてくれる。だから、うまくその家具に付き合うのはむつかしいことではない。例えば、良いテーブルの上では、自然に毎日の食事をより大切に味わうようになる。8私たちの眼の前にある食物となっている自然の恵み(めぐ )に素直に感謝しながら食べられるのも、無垢(むく)の木のテーブルだからこその効果だ。会社の会議でも、せせこましいことで腹立てている人に、なるべく百年の木目からのメッセージをとどけるようにしてみよう。9本物の木を使い、本物の造り方をした家具は、本物の人間を育てるようになる。百年の木目は、いまだ未熟な私たちを、控え目(ひか め)だが確実にしっかり応援(おうえん)してく
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れるはずだ。そして、木の家具と対話しながらの日々は、ほんの少しずつだが、私たちの意識を変えていってくれる。0
 本物の木の家具と永く付き合おうと思うと必然的に二十一世紀が問題となる。「子供や後輩(こうはい)をどう育てるか」が結局「二十一世紀をどう育てるか」に結びつく。二十一世紀を担う人間たちの基礎(きそ)をどう造るかはきわめて大切な問題であり、かつきわめてむつかしい問題である。現在のところ、日本の公教育は、未だ時代錯誤(さくご)の「工業化時代の生産様式」でもって、応用力のないひよわなマニュアル人間を造りつづけている。人類の大変動期にあって、こんなことでは先が思いやられる。また、身の周りが、安っぽい工業製品であふれていたためか、若者の興味が安っぽく薄っぺら(うす   )なものばかりに集中している。このままでは、世界全体が刹那(せつな)主義に走るか、安直なカルトに走るかになってしまう。
 そんな不安を超えよ(こ  )うとした時、そう簡単に特効薬は見つからない。即効(そっこう)性の薬を求めること自体が、ミイラ取りのミイラ現象なのだから。そこではやはりすぐには効果がなくても、ジワリジワリとそれでいて心の底深くに一自然の声がしみとおっていくような方法がよい。私は、ここでも「百年使える百年の木目をもった家具」こそ、無言だが、もっとも説得力がある対話相手のように思える。「無垢(むく)の木の学習机を子供に買ったら、子供の生活態度が変わった。」という報告も、何度も受けている。若い素直な感性があれば、百年以上もある木目から、二十一世紀末までも見すえた遠大で深遠なメッセージを、きっと読みとれるはずだ。
 なにしろ木というものは、種から発芽して数百年から数千年生きる生命力を基本的にはそなえている。そういう基本的な生命力を人間が木や年輪から感じ取るだけでも意味あることだ。しかし、さらに重要なことは、木はその生命を持続していた間、すなわち自らの体を少しずつ大きくするという生産活動をしている間、まわりの環境(かんきょう)を良化することはあっても、悪化することは全くないということだ。これは人間を筆頭とする動物には、絶対に見られないことであり、この木の生き方こそ、二十一世紀という環境(かんきょう)の世紀のためにもぜひとも我々人間はまなぶべきだろう。
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a 長文 6.3週 ya
 1「科学における発想と論理」という話になると、いつも昔やったハバチの研究のことを思い出す。もう三十年ほど前のことだが、マツノキハバチ(松の黄葉蜂(はち))というハバチに興味をもった。
 欧州(おうしゅう)の研究者によると、このハバチは年によって大発生したり、ごくわずかな個体数しか現れなかったりする。2冬があまり寒くないと、冬眠(とうみん)(休眠(きゅうみん))している幼虫の多くが休眠(きゅうみん)からさめられず、親になれないままもう一年冬を越し(こ )てしまう。年々、休眠(きゅうみん)幼虫がたまっていき、たまたま冬が寒かった年にそれが全部まとまって親バチになって大発生するからだというのである。
 3日本にも同じ種とされているマツノキハバチが、高山のハイマツ帯にいるという。そこで中央アルプスに登り、高度二千五百メートル付近に生えているハイマツにいる幼虫をつかまえて来て、大学の研究室で飼育を始めた。4飼育温度は、普通(ふつう)、昆虫(こんちゅう)の実験で常識的に用いられる摂氏(せっし)二十五度とした。幼虫たちはハイマツの葉をもりもり食べて、元気そうだった。
 ところがである。二日目には半分近くの幼虫が死に、三日目には大半が、四日目には生き残っているものはいなくなっていた。5こうしてこの年の実験はあえなく終わりになった。
 その翌年、また挑戦(ちょうせん)した。二十五度は少し高すぎたかと思ったので、十六度の「区」も設定した。けれど結果は前年と同じだった。十六度区は全滅(ぜんめつ)が一日延びただけだった。
 6そこで死んだ幼虫をもって昆虫(こんちゅう)病理学の先生を訪れた。「病気ではありませんね。単なる生理死です」。単なる生理死!
 いったいどういうことだ? 三年目は、また殺すために虫を採りに行くのかとアルプスへ出かけるのは気が重かった。
 7出発のとき、ふとある発想がひらめいた。大学前のバス停に学生を待たせて、研究室にとって返した。そして、旧式の自記温度計(そのころはそのタイプのものしかなかった)をぶら下げて、バス停に戻っ(もど )た。
 「そんなもの、どうするのですか」と、学生がいぶかしげに尋ねる(たず  )。8「まあ、いずれわかるよ」。そう答えてアルプスに向かった。
 ふと思いついたのは、「飼育温度は一定ではなく、高温・低温と振れ(ふ )なくてはいけないのではないか」ということであった。高山で
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は昼間は日がさして暑いくらいだが、夜から明け方には猛烈(もうれつ)に寒くなる。9高山のハバチはそういうところにすんでいるのだから、激しい温度の振れ(ふ )に耐え(た )られるのみでなく、そのような振れ(ふ )を必要としているかもしれない、ということに気づいたのだ。
 山から帰って来て、早速、昼は二十五度、夜はただの五度という条件で飼育を始めた。0予想は的中した。幼虫たちはすくすく育ち、ほとんど死ぬことなく、繭(まゆ)をつくった。
 さて、この結果を学会で発表する段になると、ある配慮(はいりょ)が必要になった。二十五度一定、あるいは十六度一定という条件では全部死にました。そこまではよい。「それで、ふと思いつきまして……」とは絶対に言えない。
 どうしたかというと、「そこでこの虫の生息している場所の気温を測定してみました」といって、自記温度計で記録したデータを見せる。そして、「これをシミュレートした温度条件を設定して飼育したところ、幼虫はみごとに成長して、成虫(親バチ)になりました。このハバチの幼虫の成長には、一日のうちに高温・低温が交代する温度周期が必要なように思われます」と結んだのである。
 こうして、ふと思いついた発想には一言も触れ(ふ )ず、データに基づいた「論理的」推理を展開する形をとることによって、この研究も私自身も、「科学的」な体面を保つことになった。
 これが、今までの科学と、科学教育の落とし穴である。幸いにして近ごろは、多くの人がこのことに気づき始めた。しかし、コンピューターによるデータの処理・解析(かいせき)が普通(ふつう)となった今、振り子(ふ こ)はまた以前の状態に戻る(もど )可能性がある。といって、発想法の処方せんなど存在するはずはない。今大切なのは、科学も技術も、普通(ふつう)思われているのとは異なって、ずっと人間的なものなのだということを、深刻に意識することである。
(日高敏隆(としたか)「日本経済新聞」より)
 
 シミュレート…実験と同じように再現すること。
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a 長文 6.4週 ya
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 日本の人里の、何もきわだって美しいといえない風景の中にも、最近とくに知られるようになり、若い人たちが訪れる場所ができ始めた。京都の嵯峨野(さがの)などは、そうした場所の一つに数えられるだろう。また大和の山の辺(べ)の道も、だんだん人気が出てきたようである。だが、これらの場所は、実は、完全な自然の風景ではなく、背後にひかえている歴史の重みが加わって、その価値を高めているのだ。風景を考えるとき、これは非常に重大な点である。
 その地の歴史を知ることにより、平凡(へいぼん)な風景、ありふれた小山が、見る人びとをたちまち深い感興を催す(もよお )。きっかけは、歴史だけではない。芭蕉(ばしょう)の俳句に詠ま(よ )れたいくつかの風景は、その地に行って、ゆかりの風物を見る現代人の心に深い感慨(かんがい)を呼び起こす。風景は、見る人の心によって変わる。風景の価値は、その現在の実体と、過去を思う観賞者の心の交渉(こうしょう)のうちに成立する。
 風景の要素には、歴史が大きくかかわるだけではない。自然に対する知識が、なかなか大きく作用する場合がある。名もない花が咲い(さ )ているのをただ見るだけでなく、その花の名が全部わかり、そのあるものがその土地にあることの意外性といったことがわかり、その育ちぐあいの良さ悪さまでわかったら、興ざめになるどころかかえっていっそう印象が深まるというものだろう。向こうの丘陵(きゅうりょう)の雑木林の中に、若葉をつけたコブシの木の群れを見いだし、二か月前の花のころの光景を想像に描く(えが )のは悪い趣味(しゅみ)ではない。まわりで鳴く小鳥の声を聞いて、その鳥の種類がわかるのも楽しい。ツキヒホシポイポイと形容されるサンコウチュウの鳴き声を、珍しく(めずら  )も人里近くで聞いた時のうれしさは、風景のよさと必ずしも異縁(えん)ではない。
 日本の風景で、今まで人がほとんど注意を払わ(はら )なかったものに生け垣(がき)がある。農村の住宅は生け垣(がき)で囲った家が多い。農村の生け垣(がき)用の樹種は、都会の住宅地より単調な場合が多いが、そのかわり年を経た貫禄(かんろく)のあるものが少なくない。生け垣(がき)というものは、手入れのぐあいで、実にさまざまな態様をしていて、見る人の心を刺激(しげき)するものである。
 人の住んでいる風景と関係するものには、もっと人間くさいもの
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がたくさんある。向こうのあの松の下の家のおばあちゃんは梅干を漬ける(つ  )のが上手で、その隣(となり)の家の息子は野球選手で甲子園(こうしえん)に出場したことがあるなどと知っていたら、その興の深さはどうだろう。そんなことは、風景とは関係ないと言う人がいるかもしれないが、私は何か関係があるという意見である。
 日本の、人の住む風景には、心温まる潤い(うるお )と豊かさをそなえたものが、いたるところにある。それは、いろいろな自然・人文の知識に裏打ちされいっそうの興趣(きょうしゅ)を盛り上げる。自分もそこに住み込ん(す こ )で、朝夕その中に溶け込み(と こ )たいような風景……いや、それよりも「風土」といったほうが適切な場所が、まだまだ、日本にたくさん残っているのである。

(中尾(なかお)佐助(さすけ)「私たちの風景」)
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長文 6.4週 yaのつづき
 1民主主義を一度も体験したことのない社会や世代は、民主主義をとにもかくにも「素晴らしいもの」と考え、そうした立場に立ってそれを描き(えが )、讃えよ(たた  )うとします。しかし、長い間にわたって民主主義を実践(じっせん)し、体験し、その実情を目にすることが増えてくると、こうした議論はなかなか人々の賛成を得られなくなります。2いろいろと「訳の分からない」ことや、いい加減なことが数多くあることを否定できなくなるからです。多くの人々は、先程例にあげたような民主主義批判が、あながち見当外れとばかり言えないことを肌(はだ)で感じています。3問題はその先です。「それでは他にどんな方法があるのか」ということへの回答がなければ、議論は先に進まないからです。
 二十世紀は「民主主義の世紀」と呼ばれたように、人類は実にたくさんの政治上の実験を行ってきました。4整然とした政治の実現のための仕組みや、本当の意味での「人民のための政治」を実現するための試みも行われました。ファシズムや共産主義はその代表例だったと言えます。5しかし、民主主義に対するさまざまな批判は、確かに鋭く(するど )説得的に見えたにもかかわらず、それに代えて実行に移した代案をみると、その結果は決して芳しい(かんば  )ものではなく、民主主義以上に惨憺(さんたん)たるものでした。そこで再び民主主義へと舞い戻る(ま もど )ことになったのです。6二十世紀後半以降の歴史は精神的にはこの舞い戻り(ま もど )の歴史であり、民主主義は初恋(はつこい)の相手のように胸躍る(おど )ものではなかったにせよ、どこかにどうしても捨てがたいものがあったということでしょう。
 日本も相当長い間にわたって民主主義を実践(じっせん)してきました。7こうした体験を重ねてくれば、民主主義の「素晴らしさ」を説く議論があるかと思えば、他方ではそれを先のように「けなす」議論をしていい気分になっているという向きもあります。しかし、それもそろそろ卒業すべきでしょう。8日本の民主主義はまさに、こうした段階の真っ只(ただ)中にいるのです。つまり、そろそろその欠陥(けっかん)や「訳の分からなさ」を見据え(みす )ながら、それを具体的に改善する方法を探らなければなりません。民主主義の「素晴らしさ」を讃える(たた  )議論とそれを「冷やかす」「けなす」議論とのやりとりは、いわば空中戦というべきものです。9しかし、本当に必要なのは、地道に一歩一歩何をどう変えていくかという地上戦なのです。
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 ここでは「あれか、これか」式の空中戦ではなく、「より良く」が合言葉になります。人生の多くの局面において大事なことは、「より良く」を心がけ、実行することです。0「あれか、これか」に比べると、「より良く」を探求することは派手ではなく、あまり魅力(みりょく)のないもののように見えるかもしれません。しかし、人間の社会や個人の人生において大事なことは、ちょっとの違い(ちが )が大きな違い(ちが )につながるということです。継続(けいぞく)的な努力が必要なのはそのためです。五十歩百歩だからといって馬鹿(ばか)にしてはなりません。何も、欠陥(けっかん)があるのは民主主義だけではないのです。われわれ個々人も社会などの組織も、欠陥(けっかん)のないものはありません。それを継続(けいぞく)的な努力によって「より良く」していくことが大切なのであり、民主主義も例外ではないはずです。もちろん、人生や組織を「壊す(こわ )こと」が目的でないならばですが……。

(佐々木(ささき)毅(たけし)『民主主義という不思議な仕組み』より)
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