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 「ふしぎ」と言えば、「私」という人間がこの世に存在しているということほど「ふしぎ」なことはないのではなかろうか。自分が意志したわけでもない。願ったわけでもない。ともかく気がつくとこの世に存在していた。おまけに、名前、性、国籍こくせき、貧富の程度、その他、人生において重要と思われることの大半は、勝手に決められている。こんな馬鹿ばかなことはないと憤慨ふんがいしてみても、まったく仕方がない。その「私」を受けいれ、「私」としての生涯しょうがい生き抜くい ぬ ことに全力をつくさねばならない。(中略)
 「私」のふしぎを忘れたたましいのことを忘れて生きている人に、その「ふしぎ」をわからせる点で、児童文学は特に優れていると思う。私が児童文学を好きなのは、このためである。確かに「大人」として生きるのも大変なことだ。お金をもうけねばならない。地位も獲得かくとくしなくてはならない。他人とスムーズにつき合わねばならない。それらは大変な労力を必要とするし成功したときには、やったという達成感もある。しかし「いったいそれがナンボのことよ」と「たましい」は言う。その声をよく聴くき 耳を子どもは持っている。あるいは「たましい」の現実を見る目は子どもの方が持っている。そのような子どもの澄んす だ五感で捉えとら た世界が、児童文学のなかに語られている。だから、児童文学は、子どもにも大人にも読んでほしいと思う。
 たましいというのは、直接にちゃんと定義するなどということはできない。しかし、それは、死んだときにあちらに持っていけるものだ、などと考えてみることもできる。「マッチ売りの少女」があちらに持っていったものと、地位や名誉めいよや財産を沢山たくさん持っている人が、あちらに持っていくものと比較ひかくしたらどうなるだろう。もちろん後者のような人は、立派な戒名かいみょうを手に入れることが、最近では可能になった。その人が死んで閻魔えんまの前に立ち、立派な戒名かいみょうを名乗るとして、閻魔えんまさんの家来のおにが「ふん、それがナンボのものよ」などと言っているところを想像してみるのも面白いことではある。
 たましいなどほんとうにあるのかないのか、実のところはわからない。しかし、それがあると思ってみると、急に途方とほうもなく恐ろしくおそ   なったり、面白くなったり、人生を何倍か豊かに味わうこ
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とができることは事実である。もちろん、よいことばかりではなく、下手をすると普通ふつうの人生を維持いじできなくなるという危険もあることは知っておかねばならない。
 人生における「ふしぎ」と、それを心のなかに収めていく物語とが、いかに人間を支えているかについて述べてきた。昔はそのことは部族や民族などの集団で、神話を共有することによってなされてきた。このことは現在もある程度まで事実である。すべての宗教はその基盤きばんとなる物語をもっている。
 しかし、現在のように個人主義が進んできて、その生き方をある程度肯定こうていするものにとっては、個人にふさわしい物語をもつ、あるいはつくり出す必要があると思われる。と言っても、だれもがそのような物語をつくり出す才能があるわけではない。
 そのために、そのときどき自分にとって必要な物語、あるいはそれに類似のものを他人のつくったもののなかから見つけ出すことをしなくてはならない。それは、ひょっとして古い神話のときもあろう。あるいは、現代作家の書いた児童文学かもわからない。ただそれは自分に完全にピッタリというのはないであろう。自分もこの世のなかで唯一ゆいいつ固有の存在と考える限り、そんなことはありえない。しかし、それと共に自分が人間としていかにその存在を他と共有し合っているかを思うと、多くの人に共通の重要な物語があることも了解りょうかいできるであろう。
 このようにして自分の人生を生きるとき、死ぬときにあたって、自分の生涯しょうがいそのものが世界のなかで他にはない唯一ゆいいつの「物語」であったこと、「私」という存在のふしぎがひとつの物語のなかに収められていることに気づくことであろう。自分の人生を豊かで、意味あるものとするために、われわれはいろいろな「ふしぎ」についての物語を知っておくことが役立つのではなかろうか。
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