1「ふしぎ」と言えば、「私」という人間がこの世に存在しているということほど「ふしぎ」なことはないのではなかろうか。自分が意志したわけでもない。願ったわけでもない。ともかく気がつくとこの世に存在していた。2おまけに、名前、性、国籍、貧富の程度、その他、人生において重要と思われることの大半は、勝手に決められている。こんな馬鹿なことはないと憤慨してみても、まったく仕方がない。その「私」を受けいれ、「私」としての生涯を生き抜くことに全力をつくさねばならない。(中略)
3「私」のふしぎを忘れたたましいのことを忘れて生きている人に、その「ふしぎ」をわからせる点で、児童文学は特に優れていると思う。私が児童文学を好きなのは、このためである。確かに「大人」として生きるのも大変なことだ。4お金をもうけねばならない。地位も獲得しなくてはならない。他人とスムーズにつき合わねばならない。それらは大変な労力を必要とするし成功したときには、やったという達成感もある。しかし「いったいそれがナンボのことよ」と「たましい」は言う。5その声をよく聴く耳を子どもは持っている。あるいは「たましい」の現実を見る目は子どもの方が持っている。そのような子どもの澄んだ五感で捉えた世界が、児童文学のなかに語られている。だから、児童文学は、子どもにも大人にも読んでほしいと思う。
6たましいというのは、直接にちゃんと定義するなどということはできない。しかし、それは、死んだときにあちらに持っていけるものだ、などと考えてみることもできる。「マッチ売りの少女」があちらに持っていったものと、地位や名誉や財産を沢山持っている人が、あちらに持っていくものと比較したらどうなるだろう。7もちろん後者のような人は、立派な戒名を手に入れることが、最近では可能になった。その人が死んで閻魔の前に立ち、立派な戒名を名乗るとして、閻魔さんの家来の鬼が「ふん、それがナンボのものよ」などと言っているところを想像してみるのも面白いことではある。
8たましいなどほんとうにあるのかないのか、実のところはわからない。しかし、それがあると思ってみると、急に途方もなく恐ろしくなったり、面白くなったり、人生を何倍か豊かに味わうこ
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