1ラレルは、四つの仕事を同時に受け持つ、じつによく働く勤勉な助動詞である。もとより、これを助動詞とは認めず、接尾語とする説(時枝文法)もあるが、それはとにかく、助動詞ラレルの四つの仕事とはこうである。
2一、「せっかく買った週刊文春を盗られた」というふうに、他からの動作や働きを受けることを表す。つまり受け身を表す。
二、「社長が週刊文春を手に入って来られた」というふうに、動作をする人に対する敬意を表す。つまり尊敬を表す。
3三、「週刊文春はおもしろく感じられる」というふうに、しようと思わなくても自然にそうなるということを表す。つまり自発を表す。
四、「この図書館では週刊文春が見られます」というふうに、あることができるということを表す。つまり可能を表す。
4ら抜き言葉は、四番目の「可能」において頻繁に現れる。なぜだろうか。第一の理由は、先にも述べたように助動詞ラレルがすこぶる付きの働き者で、右の四つの仕事を一手に引き受けているからである。これを逆に、使う側のわたしたちから見ると、ラレルは使い分けが複雑で面倒くさい助動詞だということになる。5だったらラレルの負担を少し軽くしてやったらどんなものか。わたしたちは、心の底でこんなふうに考えている。もっと言えば、ラレルの使い分けは七面倒すぎるから少し整理して簡便にしようというわけだ。こういう性向を言語経済化の原理と称する。6口は希代の怠け者、なにかというとすぐ手抜きしたがるのである。
同時に、日本語にはもう一つ、複雑で面倒なものがあって、それが敬語である。しかもそれはただ複雑でめんどうなものであるだけではなく、使い方を誤ると、人間関係が壊れてしまうなど、それはもう大変なことになる。7そこで「見られる」「来られる」「起きられる」など、正規のラレルに敬語(尊敬)の表現を任せることにした。その一方で、とりわけ可能の表現をラレルから独立させ、つまりラ抜きのレルにして、「見れる」「来れる」「起きれる」という具合に表現することにした。8日本人がどこかで大集会を開いてそう談合したわけではないが、自然にそういうことになったのではないか。……と、まあ、こういうことなのだろうと思われる。さらに付け加えるなら、ラレルよりレルの方が発音しやすく簡潔でもあるので、よく使う可能表現をレルにしてしまったということもある
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