a 長文 4.3週 ya
 ラレルは、四つの仕事を同時に受け持つ、じつによく働く勤勉な助動詞である。もとより、これを助動詞とは認めず、接尾せつび語とする説(時枝ときえだ文法)もあるが、それはとにかく、助動詞ラレルの四つの仕事とはこうである。
 一、「せっかく買った週刊文春を盗らと れた」というふうに、他からの動作や働きを受けることを表す。つまり受け身を表す。
 二、「社長が週刊文春を手に入って来られた」というふうに、動作をする人に対する敬意を表す。つまり尊敬を表す。
 三、「週刊文春はおもしろく感じられる」というふうに、しようと思わなくても自然にそうなるということを表す。つまり自発を表す。
 四、「この図書館では週刊文春が見られます」というふうに、あることができるということを表す。つまり可能を表す。
 抜きぬ 言葉は、四番目の「可能」において頻繁ひんぱんに現れる。なぜだろうか。第一の理由は、先にも述べたように助動詞ラレルがすこぶる付きの働き者で、右の四つの仕事を一手に引き受けているからである。これを逆に、使う側のわたしたちから見ると、ラレルは使い分けが複雑で面倒くさいめんどう   助動詞だということになる。だったらラレルの負担を少し軽くしてやったらどんなものか。わたしたちは、心の底でこんなふうに考えている。もっと言えば、ラレルの使い分けは七面倒しちめんどうすぎるから少し整理して簡便にしようというわけだ。こういう性向を言語経済化の原理と称するしょう  口は希代の怠け者なま もの、なにかというとすぐ手抜きてぬ したがるのである。
 同時に、日本語にはもう一つ、複雑で面倒めんどうなものがあって、それが敬語である。しかもそれはただ複雑でめんどうなものであるだけではなく、使い方を誤ると、人間関係が壊れこわ てしまうなど、それはもう大変なことになる。そこで「見られる」「来られる」「起きられる」など、正規のラレルに敬語(尊敬)の表現を任せることにした。その一方で、とりわけ可能の表現をラレルから独立させ、つまりラ抜きぬ のレルにして、「見れる」「来れる」「起きれる」という具合に表現することにした。日本人がどこかで大集会を開いてそう談合したわけではないが、自然にそういうことになったのではないか。……と、まあ、こういうことなのだろうと思われる。さらに付け加えるなら、ラレルよりレルの方が発音しやすく簡潔でもあるので、よく使う可能表現をレルにしてしまったということもある
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かもしれない。いずれにしても、ら抜きぬ 言葉を認めるかどうかは、二十世紀日本語の重大問題の一つにはちがいない。というのもだいぶ以前からこの是非ぜひについては議論があったからである。『実は、この言い方は、松下大三郎さぶろうという、日本語を深く研究した文法学者の『標準日本文法』という本(一九二四年出版)にすでに注意されています。「起キレル」「受ケレル」「来レル」という言い方は、「平易な説話にのみ用い、厳粛げんしゅくな説話には用いない」とその本にあります。』(大野すすむ
 国語学者の神田寿美子すみこさんによれば、川端かわばた康成の『雪国』(一九三五年)にも「遊びにこれないわ」という例があり、一九四三年(昭和十八年)には「日本語」という雑誌に、『「られる」といふべきところを「れる」といふ人が相当多く、しかも知識人の書いたものにまでしばしばこのやうな用法が現れる。例へば、「駈けか られる」を「駈けか れる」、「綴じと られる」を「綴じと れる」』と書くのは遺憾いかんであるという記事がでているそうだ。このように、ら抜きぬ 言葉は、永く批判の的になりながらも、しかし次第に多く使われるようになってきたのである。たしかに、ら抜きぬ 言葉は手抜きてぬ である。しかしそれには理由があった。では、日本語によって生きている者の一人として、君は、ら抜きぬ 言葉を、そうなった理由を認めるのか。こう問われるならば、答えは否。言語というものはその本質においてうんと保守的なものである。そこで、そう簡単には言語多数決の原理だの言語経済化の原理だのを受け入れれない。いや、受け入れられないのである。
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