a 長文 5.4週 ya
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 春になると、隣家りんかの庭のはく木蓮もくれん一斉いっせいに花を開く。その姿は薄闇うすやみの中で眺めるなが  のがいちばん美しい。しかし、いま書きたいのは隣家りんかの木ではない。身近な花の美しさによって呼び出されたような、もう一本の木のことである。
 ある日の午後、階下の西向きの窓からぼんやり外を見ていた。そのころまだわが家の西側に建物はなく、空き地ぞいの道を隔てへだ てかなり遠くまでの景色が楽しめた。ふと気がつくと、道の向こうの家の庭木の間から一本の白い樹木が立ち上がっている。いや、満身に白い花を飾っかざ たけ高い木が目に飛びこんできたのだ。その家の庭にある木ではない。更にさら 遠くに立っているものが庭木ごしに望まれたのだ。おそらく、木は以前からそこにあったのだろう。ただ純白の花をまとうまで、こちらが気づかなかっただけに違いちが ない。白木蓮はくもくれんにしては、たけが少し高すぎる。しかし辛夷こぶしにしては、あまりに花が大ぶりで木の全体を包みすぎている。家の者に尋ねたず ても、その木を見るのは初めてであり、どのあたりに生えているのか見当がつかぬという。まるで突然とつぜんに出現したかのような、白く燃える美しい木だった。
 次の日も、次の次の日も、木は同じように立っていた。というより、更にさら 白い輝きかがや をまして西の窓外に目を誘っさそ た。ついにたまらなくなって家を出た。駅とは反対の方角なので、平素はあまり足を運ばないあたりである。歩き出すとすぐに相手は見えなくなった。道からでは近くの家の庭木がじゃまをするからだ。はじめは駅へと向かい、次に右折を二度重ねてもう一本先の道へと曲ってみた。わが家からの見え方からすれば、その道の左右いずれかにあるはずだ。最初の日、とうとう発見することはできなかった。帰って西側の窓辺に立つと、木はくっきりと曇り空くも ぞらを背景にたたずんでいるのだった。
 翌日、二度目の探索たんさくにおもむいた。そして前日と同じ道の右側に、二階家のかべ隠れるかく  ようにして花を咲かせさ  ている大きな白木蓮はくもくれんを見つけ出した。そしてひどくがっかりした。近くにそれらしい木はないので間違いまちが ないと思われるのに、見る角度が異なるためか、相手は窓から眺めなが たときのような気高い美しさをたたえてはいなか
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った。こんなことならさがし出さなければよかった、といたく後悔こうかいした。
 それから間もなく、空き地に家が建てられて西向きの窓からの眺めなが 奪っうば た。遠い白木蓮はくもくれんはわが家の視界から失われた。その木はいま、ぼくの中だけに一年中白い花を咲かせさ  てひっそりと立っている。

黒井千次くろいせんじ「五十代の落書き」)
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長文 5.4週 yaのつづき
 じっさい、ほかの国の言葉で日本語ほど多様な水の表現をもっている例はないといってもいいのではあるまいか。だから、さきの蕪村ぶそんの句を外国語に翻訳ほんやくするのは至難なのである。たとえば英語やドイツ語やフランス語で「のたりのたり」をどのように表現したらいいのだろう。私はさんざん苦労したあげく、ついにこの句を外国の知人に説明し得なかった。
 「のたりのたり」だけではない。水についてのオノマトペは、そのほとんどが翻訳ほんやく不可能である。たとえば、文部省唱歌の「春の小川はさらさら流る」の「さらさら」は、どう訳したらいいのか。お伽 とぎ話『桃太郎ももたろう』で語られているあの「ドンブラコッコ、スッコッコ」を何と表現したらいいのか。野口雨情の童謡どうよう「ドンと波 ドンと来て ドンと帰る」をどんなふうにいいかえたらいいのか。
 水で布などを洗う音は「ざぶざぶ」であり、なみだが流れる様子は「さめざめ」であり、水気をふくんださまは「しっとり」であり、それが外ににじむほどであれば「じっとり」であり、湿気しっけが過度であれば「じめじめ」であり、水が絶えず流れ出る状態は「じゃーじゃー」であり、水が揺れ動くゆ うご 様相は「じゃぶじゃぶ」であり、水滴すいてきが垂れる音は「ぽたぽた」であり、水が跳ねるは  有様は「ぴちゃぴちゃ」であり、水にひどく濡れるぬ  形容は「びしょびしょ」であり、水に何かが軽そうに浮かんう  でいるのは「ぷかぷか」、水に沈むしず さまは、「ぶくぶく」、雨が降り出すのは「ぽつぽつ」、水中からあわ浮かびう  あがるのは「ぼこぼこ」、水を一気に飲み干すさまは「がぶがぶ」、水が何かに吸い込ます こ れる音は「ごぼごぼ」、そして、大波は「とどろ」に打ち寄せ、たきは「ごうごう」と落ち、石は水中に「どぶん」と沈みしず 、水は「ばちゃっ」と跳ねかえりは    、夕立は「ざーっ」と襲いおそ 、梅雨は「しとしと」と降りつづく。
 ああ、なんと多彩たさいな水の表現であろうか!
 だが、こうした多彩たさいなオノマトペは、同質社会でこそ微妙びみょうな伝達の機能を発揮できるが、異質な風土、異質な文化のなかに住む人にはさっぱり通じない。なぜなら、擬声語ぎせいご擬態語ぎたいごというのは、あくまで感覚的な言語であって、言語の重要な性格である抽象ちゅうしょう性を
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もたないからだ。
 したがって、感覚的にわかるこれらの言葉の意味を説明するとなると――とたんに行きづまってしまう。オノマトペは、いわば音楽なのであり、その意味をつたえることのむずかしさは音楽の与えるあた  イメージを言語で解説する困難さとおなじだといってよい。この意味で擬声語ぎせいご擬態語ぎたいごは言葉の本質ともいうべき抽象ちゅうしょう力を欠く低次の言葉だといえなくもない。しかし、言語がその抽象ちゅうしょう力をもって伝達し得る領域には限界がある。人間の言語は、しょせん万能ではないのだ。
 もし言語がこの世界のすべてを表現しつくせるものなら、言葉さえあれば何もかも理解できてしまうだろう。しかし、そうはいかない。そうはいかないからこそ、言葉ではいいあらわせない別の表現を人間は考え出してきたのだ。たとえば絵画であり音楽である。セザンヌの絵を、あるいはモーツアルトの音楽を言葉にそっくり置きかえるなどということができるであろうか。私はオノマトペを言語と音楽との接点として考える。それは人間の感性を音声そのものによって表現しようとする伝達の手段だからだ。したがって、擬声語ぎせいご擬態語ぎたいごはきわめて微妙びみょうな感性を表現し得るかわりに抽象ちゅうしょう性を欠き、普遍ふへん性を犠牲ぎせいにせざるを得ない。オノマトペはあくまで限られた言語、内輪の言葉という宿命をもつのである。

(森本哲郎てつろう『日本語 表と裏』の文章による)
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