a 長文 4.1週 ya2
 そうしてみると、価値の多様化と画一化とは決して矛盾むじゅんしたことではなくて、同じ現象の両面のように思えてくる。その根本にはやはり、普遍ふへん的価値の崩壊ほうかいがある。普遍ふへん的価値が崩壊ほうかいしたのは崩壊ほうかいしただけの歴史的理由がある。ある一つの普遍ふへん的価値を信じた人たちが、それと矛盾むじゅんし、対立する価値を信じている人たちを排撃はいげきし、差別して残虐ざんぎゃく行為こうい繰り返しく かえ てきたということがあって、ある日ふと気づいてみると、そんなことをしてまで守らなければならないほどの絶対性はどのような「普遍ふへん的」価値にもないことがわかってきたのである。
 そこで、普遍ふへん的価値というものは存在しないのだということになった。すべては相対的であって、どのような価値を信じていようが間違っまちが ているとは言えず、それぞれが勝手に信じていればいいのだということになった。
 そこから、価値の多様化ということが出てくるわけであるが、悲しいかな、人間は何らかの価値を信じ、それを自我の支えにしなくては生きてゆけず、しかも自分の信じる価値はできるかぎり多くの人びとに信じられているものであることを望むので、勝手にどのような価値を信じてもいいと言われても、それほど自由のはばはないのである。そして、普遍ふへん的価値は崩壊ほうかいしているわけだから、何らかの価値を信じていても、それが普遍ふへん的だと思って信じていたときのような自信はもてず、ひょっとしてとんでもないことを信じてしまっているのではないかとの疑いを拭いぬぐ 切れない。そこで、他の人たちが信じているように見える価値を、自分は確信をもてないままに、一応今のところ信じておくといったことになる。他の人たちが信じているように見える価値を自分も信じるという人が多くなれば、必然的に、価値は画一化されるわけである。
 したがって、価値が多様化されたと言っても、個人が選択せんたくできる価値のはばが広く豊かになり、無限に多様な生き方の可能性が開かれているということではなくて、ある価値を信じることによって個人が得ることができるものはむしろ貧しくなっており、また、価値が画一化されたと言っても、多くの人が一つの共通の価値を信じて連帯するということにはならなくて、つまり、同じ価値を信じていることが人と人とを結びつけるわけではなくて、ばらばらに同じ価値を信じているといった具合になっている。
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 わたしは現代を「嫉妬しっととはしゃぎの時代」だと言っているが、普遍ふへん的価値が崩壊ほうかいすると、そこに自我の安定した基盤きばんを見出せないので、人びとははしゃいで目立つ以外に自分の存在を確認する方法がなくなり、また、同じ理由で他の人のことが絶えず気になり、嫉妬しっと狂わくる ざるを得ない。
 この嫉妬しっととはしゃぎということと、価値の多様化または画一化とはつながっている。目立つためには、他と異なっていなければならず、人びとは多様な価値をそれぞれに表現し、「個性」を打ち出して目立とうとする。しかし、他方では価値は画一化されているので、優劣ゆうれつ、成否を計る一本の尺度しかなく、すべての人が同じ尺度のもとで序列をつけられ、劣位れついにおかれた者は同じ尺度の上で上昇じょうしょうしないかぎり、いつまでもれつ者である。これでは、同じ尺度の上で優位にある者に嫉妬しっとし、かれを引きずりおろしたくなるのは避けさ がたい。
 これらのことは現代の時代精神とでも言うべきことであろう。こういう傾向けいこうはあらゆる面に現れている。たとえば、若者が親の反対を押し切りお き 、苦難を乗り越えの こ てついに結ばれるといったいわゆる大恋愛れんあいをしなくなった。これは、恋愛れんあいの永遠性、唯一ゆいいつ性、絶対性といったことが信じられなくなった以上、ある者が、おれは大恋愛れんあいをしてやろうとがんばったところで、どうにもなるものではない。職業選択せんたくにおいても、一つのことに一生を賭けるか  ということをしなくなった。

(岸田しゅうの文章による)
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