a 長文 5.3週 ya2
 人間はすばらしい。人間は興味深い。もし、今、私のまわりからだれもいなくなってしまったら、緑の森があり、鳥のさえずりが聞こえようと、どんなに青い空が広がっていようと、生きて行く勇気はもてそうもない。人間の中で自分を一つの自己として確立し、ほかの人たちをそれぞれの自己として尊重して生きてゆきたい。このような人間への関心を出発点として生まれた生物科学が生命科学である。(中略)
 人間は、カエルの子はカエルであることを説明する遺伝の機構を理解する一方、「薔薇ばらの木に薔薇ばらの花咲くさ 、なにごとのふしぎなけれど」と歌う。人間がこの二種の態様で自然を理解するのと同様、人間自身の理解のしかたにもこの二つがあるだろう。私はここで、生命科学の中に情感や神をもちこもうといっているのではない。生命科学は、あくまでの自然の法則にのっとった分子と分子の関係で説明される反応の上に成立する科学である。しかし、科学上の発見も人間の精神活動の結果なされたものであり、科学は人間の産物である。したがって科学者が、科学的認識を他の記載きさい方法とはまったく無関係のものとしてとらえ、時には科学だけが唯一ゆいいつの知的認識の方法であると思い込んおも こ でしまうのは誤りだと思うのである。そのような考え方で人間の研究を続けたら、生命科学は非常に危険なものになるだろう。生命科学が人間理解のための体系をつくり出す母体になろうという尊大な考えではなく、科学以外の知の存在を認め、お互い たが の調和点を見いだすことである。そこには、おのずから人間を中心とした接点がうまれるであろう。一つのものへの総合ではなく、お互いに たが  相手の存在を認め、相手のきらいなことはなるべくしないように心がけながら進んでいく思いやりが、両者がバランスよく進歩する道だと思う。
 科学の結果は客観的なものでなければならないが、研究法には研究者の自然観や人間観が反映してよいのではないだろうか。といっても、分子生物学のように共通性を求める研究の場合には、どうしても研究法に一定の流れができ、振幅しんぷくは小さいだろう。一方、マクロな分野は国民性や研究者の個性が出やすい。
 そこで思い出すのは、京都大学霊長類研究所きょうとだいがくれいちょうるいけんきゅうしょを中心とする研究グループが、ニホンザルなどの霊長れいちょう類研究に日本独自の研究法をいくつか編み出して、成果を上げていることである。この研究については、研究者自身による興味深い本が数種出版されているので一
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読をおすすめする。サルの社会の研究は、一九五二年、宮崎みやざき県幸島で野生ザルのづけに成功してから、フィールドの中に実験をもちこんで、次々と成果を上げた。その研究報告を見ると、動物の個体を識別し、それぞれの行動の特徴とくちょうや社会の中での地位を克明こくめいに追っている。動物の集団を個性のない個体の集合としてではなく、個性の集まり、すなわち組織としてとらえている。さらに進んで、研究者たちが共感法と呼んでいる方法はもっとも日本的といえよう。研究者が、客観的観察者としてではなくサルの生活に溶け込んと こ でいるのである。ちょうど人間社会の中で、友人や先生を覚えるのに全体像を直観的にとらえているのと同じ感覚で、サルの個体を覚えている。
 日本のサルの研究者はどことなくサルに似た雰囲気ふんいきをもっているなどというと失礼に聞こえるかもしれないが、そうではなく、その雰囲気ふんいきがあるからこそ興味深い観察がなされるのだろうという尊敬の気持ちを表しているのである。これは、日本人がもっている自然観からみれば当然な研究法である。同じサルの研究でも、欧米おうべいの研究者は伝統ある博物学、エソロジーに基盤きばんをおいて動物の行動解析かいせきに主眼をおいている。日本の研究者は、動物の社会や環境かんきょうと個体との関係を追っている。別の表現をすれば、欧米おうべいの研究法は分析ぶんせき的であり、日本の場合は全体の把握はあくをねらっている。自然の中に溶け込みと こ 、動物とも一体感をもつ日本人の自然観からの発想としか思えない。そして、この方法が生態学から出発して人類学へとつながる道をつけることも期待でき、個性をもった研究法の意味を考えさせられる。
 霊長れいちょう類研究はその後ますます盛んになっている。日本の研究もフィールドを国内のづけした場から、アフリカや東南アジアの森林へと広げ、一方、欧米おうべいの研究者の中にも個体を見ていく方法が取り入れられ、両者は接近しつつ研究のはばを広げているように見える。

(中村桂子けいこ『生命科学』による。表記等を改めたところがある)
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