1ただ、ひとつ留意しなくてはならない点がある。母親語ときわめて似ていながら非なるものとして、「赤ちゃんことば」という現象が広く流布しているからなのだ。
2赤ちゃんことばというのもまた、英語からの翻訳で、原語はベビートークという。最近では彼の地で映画のタイトルにもなり日本に紹介されたので、母親語よりもはるかに知名度が高いことだろう。3例えば日本語文化圏では、赤ちゃんは食べ物のことを指して「マンマ」と言うことが多い。そして、自動車は「ブーブー」、犬は「ワンワン」となる。4もっとも赤ちゃんは外的事物の区別にまだそれほど長けていないので、ブーブーは動く人工物全体を、またヒト以外の動物すべてを指してワンワンで総称することもしばしばである。
5ところが、これら一群の単語は、おとなが赤ちゃんに向かって語りかける時にもまったく同じ要領で使用される。おかあさんは子どもに向かって、「ごはん食べる?」と聞くかわりに「マンマ食べる?」と尋ねる。6あるいは道を走っている車を指さして、「ほら、ブーブーよ!」と教えている。同一の女性がほかの成人に対して「マンマ食べる?」とか「ブーブーよ!」と発言することはまず考えられないし、もし実際に起こったとしたら、相手はとても奇異に受け取ることは疑い得ない。7それゆえ、おとなの使う赤ちゃんことばは明らかに赤ちゃんとの語りかけに際して特異的に用いられ、赤ちゃんの言語使用の次元におとなが同調することで、双方の間の交流を促そうとする努力の現われであるとみなすことができるだろう。
8文化人類学者の川田順造氏によるとフランス語文化では、赤ちゃんことばはほとんど聞かれないのだという。9わずかに「ねんね」が「ドド」、「おっぱい」が「ロロ」、「おしっこ」が「ピピ」、「うんち」が「カカ」の四語とあといくつかが散見されるだけで、それ以外には赤ちゃんに対しても、おとなに対するのと大差ない言葉の用法を使用する。0ただそのフランスにおいてすら、母親語は歴然として存在する。確かにフランス人のおとなは、子どもに赤ちゃんことばを使うことはほとんどないかもしれないけれど、「小さな大人」に向けて、成人に対するのと変わらぬ語りかけを行
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