1「食べられる」か「食べれる」か。「見られる」か「見れる」か。後者の用法は許されるか否か。あるいは、そんなことを公に議論すること自体、有益かどうか。
いわゆる「ら抜き言葉」に関心が集まっている。
2「どうして『ら抜き言葉』ばかり騒がれるのか」。中間報告をまとめた第二十期国語審議会の多くの委員は、不満げに語る。この二年間、多方面にわたる議論をしてきたのに、世間の受け止め方は、まるで「ら抜き言葉」しか取り上げてこなかったようだ、という不満である。
3確かに報告は、敬語、方言問題から情報化をめぐるさまざまな問題、国際社会への対応など多岐にわたっている。ワープロと字体の関係なども焦眉の課題の一つだ。しかし、「ら抜き言葉」だけが際立って注目されてしまった。
4こうした関心の偏りも含めて「ら抜き言葉」をめぐる落差と断絶自体が、国語問題の現状を反映していると見ることもできる。その意味で、これを国語審議会の役割を考えるきっかけにできるし、再考する契機にもできよう。
5まず世代間の断絶が背景にある。若者の造語に旧世代はついていけない。同世代にしか通用しない隠語がまかり通っている。最近その断絶は深まるばかりだ。
6「ぱんぴー」は普通の人。つまり、一般ピープルの略。「アンビリ」は英単語の略で「信じられない」と、若者言葉は日本語の境界さえ飛び越えていく。従来の尺度を超えた変容が進む。この現状をどう考えたらいいのか。
7もともと地域による違いもある。「ら抜き言葉」が普通に使われている地域もある。方言の豊かさを尊重すると一方でいいながら、他方で、共通語の基準をたてに「認知しかねる」と断じられることに対する反発もあろう。
8官民の意識の落差もある。世間で使われる言葉に「お上」が口を出すのはおかしい。そもそも政治家、官僚がまず美しく正確な日本語を学び、つかうべきだ。そうした発想からの反発もある。
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