a 長文 9.1週 yabi
 視覚系は、光を介しかい て物の形を認知する。形は触っさわ てもわかるから、視覚だけが形の担い手ではない。さらに、聴覚ちょうかくも形の認識にまったく無関係とはいえない。コウモリは、自分の出すちょう音波を利用してえさの虫を捕らえと  、障害物を避けるさ  そのためには相手の位置や大きさ、広がりを「耳で見ている」はずである。
 ところで形はどこにあるのだろうか。形は物の方にある。すなわち形は物の属性だという。もちろんそうに違いちが ない。「無いもの」は、どうやっても「見えない」。見なくても、触っさわ てみれば、あるていど形がわかる。それは、ものが本来、形を持つからである。
 もう一つの見方では、形は頭の中にある。目がなかったら、物は見えない。その目は脳に連絡れんらくしている。たしかに、触っさわ てみれば物の形もあるていどわかるが、大きな物体を撫でな てもとても「一目」ではわからない。形を知るには、触覚しょっかく刺激しげきがいったん脳に入り、それを使って脳があらためて形を構成する。目だって同じである。物が好んで形を作っているわけではない。われわれの頭が、形と称するしょう  ものを、相手に押し付けお つ ている。
 さて、この二つのどちらが正しいか。それは、考えてもムダらしい。どちらが正しいかというのは、じつは質問が悪い。答えが出ないように、問題が立ててある。形については、右の二つの面、つまり自分と相手とをともに考慮こうりょする必要があるから、話が面倒めんどうになるのである。
 目はたいへん有効な感覚器だが、あまりに有効なので、有効でない点に、あんがい気づかないことがある。たとえば、物の大きさがわからない。
 そんなことはない。大きい小さいは見ればわかる。そう言うかもしれないが、それは相対的な大小である。顕微鏡けんびきょうで見たものの大きさは、倍率を知らないかぎりわからない。見たこともないものが、宇宙空間にポッカリ浮いう ていたら、だれでも寸法がわからない。月と太陽が、同じような大きさだと昔の人は思っていたであろうが、実際の寸法はとんでもなく違うちが 
 大きさを知るという、はなはだ単純なことができないので、人の世ではモノサシを売っているのである。あんな簡単な器具はな
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い。それでも、たいへん便利なものである。なぜそれほど便利かといえば、視覚系だけにまかせておくと、大きさの絶対値がわからないからである。
 それを幾何きか学に持ち込むも こ と、比例あるいは相似になる。相似というのは、形は同じだが、絶対的な大きさはどうでもいい。それはまさしく、視覚系の性質である。幾何きか学のように形を扱うあつか 数学が、視覚系の性質を持つというのは、たとえばこういうことである。
 では、なぜ形が同じなら、大きさはどうでもいいのか。それは目の構造を考えればわかる。目はカメラと同じようにできている。レンズを通った光は網膜もうまくに像を結ぶ。その後の大きさは、見ている物体の距離きょりが遠ければ小さくなり、近ければ大きくなる。生物は年中動きまわるから、そういうことは絶えず起こる。だからといって、それをいちいち「違うちが もの」と考えては具合が悪い。
 ライオンがネズミの大きさに見えたところで、ライオンはライオンである。ネズミだと考えていれば、目の前に来たときに、はじめてライオンではないかと気づく。それではライオンに食われてしまう。だから、そういう生物はできたとしても、いまはいない。つまり、視覚系は、その中に絶対座標を持ち込むも こ ようには、進化してこなかった。あえてそれをすれば、ずいぶん正確な目ができたかもしれないが、いちいち座標を定めるために計算量が膨大ぼうだいになり、いきなり大きな脳を作らなければならなかったかもしれない。
 逆に、われわれが「比例」とか「相似」を考えることができるのは、本来、視覚系にそういう性質が存在するからであろう。目の網膜もうまくは、発生的、構造的には、じつは脳の延長であり、相似とは、脳の一部がやっていることを、脳のどこかの部分がよく知っている、ということかもしれないのである。
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