1日本語は乱れているのか、いないのか。その判断は案外難しい。日常的な感覚で言えば、「コンビニ」というような名詞や、「何気に」という副詞や、「お名前さまは?」などという不気味な質問や、「私って、朝、弱いじゃないですかあ。」というような話し方を耳にすると、「日本語は乱れている、世も末だ。」という気にどうしてもなる。
2一方、客観的に考えれば、言葉は生き物である。日本語と同じように、英語も古英語と現代英語とでは大きな違いがある。おそらく人間の話す言葉はいずれも同様であろう。どのような言語であっても、言葉は常に動いており、時代とともに変化していく。だからこそ言葉はおもしろいとも考えられる。
3それなら、なぜ私たちは言葉の変化に神経をとがらせ、「乱れている」と嘆くのだろうか。言葉が「乱れている」と我々が表現する際の心持ちは、その変化が必ずしも好ましい方向に向かっていないと本能的に感じているか、あるいは、通常の変化の域を越えていることへの不安感に基づくものなのではあるまいか。
4さらに、外国語からの借用語が入り込み、日本語が急速に変貌を遂げていることも「乱れ」と感じる一つの大きな要因となっている。日本人は、日本語で同じ意味を表現できるにもかかわらず、半ば無意識に英語を取り入れてきた。5その結果として、英語からの借用語がただならぬ量で日本語を侵食しつつある。たとえば、「介護」と言えばよいところを「ケア」と言う。自宅で食べれば単なる「ご飯」であるものが、レストランで出されると「ライス」となる不思議さ。6ことは名詞にとどまらず、英語を日本語の動詞として借用する頻度も増えている。「トラブる」はすでに日本語として定着していると言ってよい。
しかし、私が懸念を抱くのは、こういった外来語の増加そのものより、他の点にある。7一つは、こういったカタカナ語のほとんどが「和製英語」であり、そのまま英語としては通用しないものである点。日本語として取り込んだ以上、どのように使おうと自由であろうが、使用している側が、もとは英語であると思い込んでいることがかえって始末に悪い。8日本に住む外国人がもっとも理解に苦労するのが和製英語だという現実も、国際化という観点から見れば残念なことである。
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