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 日本語は乱れているのか、いないのか。その判断は案外難しい。日常的な感覚で言えば、「コンビニ」というような名詞や、「何気に」という副詞や、「お名前さまは?」などという不気味な質問や、「私って、朝、弱いじゃないですかあ。」というような話し方を耳にすると、「日本語は乱れている、世も末だ。」という気にどうしてもなる。
 一方、客観的に考えれば、言葉は生き物である。日本語と同じように、英語も古英語と現代英語とでは大きな違いちが がある。おそらく人間の話す言葉はいずれも同様であろう。どのような言語であっても、言葉は常に動いており、時代とともに変化していく。だからこそ言葉はおもしろいとも考えられる。
 それなら、なぜ私たちは言葉の変化に神経をとがらせ、「乱れている」と嘆くなげ のだろうか。言葉が「乱れている」と我々が表現する際の心持ちは、その変化が必ずしも好ましい方向に向かっていないと本能的に感じているか、あるいは、通常の変化の域を越えこ ていることへの不安感に基づくものなのではあるまいか。
 さらに、外国語からの借用語が入り込みはい こ 、日本語が急速に変貌へんぼう遂げと ていることも「乱れ」と感じる一つの大きな要因となっている。日本人は、日本語で同じ意味を表現できるにもかかわらず、半ば無意識に英語を取り入れてきた。その結果として、英語からの借用語がただならぬ量で日本語を侵食しんしょくしつつある。たとえば、「介護かいご」と言えばよいところを「ケア」と言う。自宅で食べれば単なる「ご飯」であるものが、レストランで出されると「ライス」となる不思議さ。ことは名詞にとどまらず、英語を日本語の動詞として借用する頻度ひんども増えている。「トラブる」はすでに日本語として定着していると言ってよい。
 しかし、私が懸念けねん抱くいだ のは、こういった外来語の増加そのものより、他の点にある。一つは、こういったカタカナ語のほとんどが「和製英語」であり、そのまま英語としては通用しないものである点。日本語として取り込んと こ だ以上、どのように使おうと自由であろうが、使用している側が、もとは英語であると思い込んおも こ でいることがかえって始末に悪い。日本に住む外国人がもっとも理解に苦労するのが和製英語だという現実も、国際化という観点から見れば残念なことである。
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 懸念けねんの第二点は、「乱れる」という以前に、日本人の言語に対する姿勢が、ますます消極的になっている感を受けることである。コミュニケーションがキーワードとなっているのは表面的な話であり、実のところ、日本人は若者も含めふく 、コミュニケーションに対するエネルギーを欠いたままである。その一つの表れとして、少しでも長い単語は短縮する傾向けいこうが強まっていること、特に若者にそれが顕著けんちょである点があげられる。「クリスマス・パーティー」が「クリパ」になり、「ラブ・ジエネレーション」という人気ドラマが「ラブ・ジェネ」となる。単語がこんな調子であるから、文章も短文と感動詞の組み合わせで十分成り立ち、筋道を追った議論を展開するよりは、「ウッソー、まじ?」で普段ふだんの対人コミュニケーションがすんでしまう。
 一つ一つの単語の次元を越えこ 、コミュニケーションというレベルで考えると、日本人は、言葉を探し、言葉によって自己表現し、他者との関係性を構築することに対して意欲的でないことが、むしろ気になる。この原因が何なのかは一概にいちがい は言えないが、「共同体としての緊密きんみつ性が言語表現への依存いぞん度を低くしている」というある学者の説が該当がいとうすると言えるのだろうか。一昔前までは確かにそうだったのだろう。しかし、現代の日本社会における言葉の軽さ、中身の伴わともな ない言語のありようを見ていると、個々人の言葉に寄せる信頼しんらい感や期待感がなし崩し  くず になってきたからだと思われる。言語に対する日本人のこのような態度から考えると、日本語は乱れているというより、むしろ力を失っていると言えないであろうか。

(鳥飼玖美子くみこ「日本語は意欲を失っている」より)
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