a 長文 11.4週 yu2
 地球上に未踏みとうの地がなくなったといわれて久しい。地図をひらくと、すべての土地は線によって区切られ、あらゆる場所に名前が記載きさいされている。大陸があり、国があり、街があり、村がある。その外も内も、まるで既知きちの存在であるかのようにふるまわれている。衛星写真によって世界の隅々すみずみまで見渡せるみわた  ようになった現在、未知の場所はどこにもないのだろうか。
 ぼくはこれまで北極や南極、チョモランマといったいわゆる「辺境」を多く歩いてきた。近年は特に地球温暖化の影響えいきょうが著しい極北を中心に、アラスカやグリーンランドの小村を訪ね歩いている。果てしない氷海の上をひたすらスキーで歩いていてホッキョクギツネやシロクマの足跡あしあとに出会うと、生き物の痕跡こんせきにほっとする。目もあけられない吹雪ふぶきの中、小高いおかの雪面を歩くカリブーのシルエットが視界に浮かび上がっう  あ  たとき、わけもなくなみだが出そうになった。後ろを振り返るふ かえ と氷の水平線がどこまでも続いており、いま自分がここにいることが奇跡きせきのように思われた。
 北極というと厳しい荒野こうやが広がっている印象があるかもしれないが、都市に住む人々が辺境だと思っている場所にも動物や人間の営みは細々と、しかし脈々と受け継がう つ れている。の地に暮らす人々にとってみれば、辺境など存在せず、生きている人の数だけ「中心」があるということにほかならない。
 どんな場所のことも瞬時しゅんじにいろいろ調べられるようになった現代において、一般いっぱん的な観光旅行は、ガイドブックなどに紹介しょうかいされた場所をなぞる行為こういになっている。そこには実際に見たり触れふ たりする喜びはあるだろうが、あらかじめ知り得ていた情報を大きく逸脱いつだつすることはない。
 一方、そうした旅行から離れはな て、旅を続ける人がいることも事実である。ここでいう「旅」とは、決められたスケジュール通りに地名から地名へと移動することではなく、精神的な営みをも含んふく でいる。
 北極であろうがヒマラヤであろうが、そこへ行って何を体験するかが重要なのではない。大切なのは心を揺さぶるゆ   何かに向かいあ
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っているか否かということではないだろうか。
 例えば人を好きになること、新しい仕事を始めること、一つの研究に没頭ぼっとうすること、生まれ育った土地を離れるはな  こと、結婚けっこんしたり子育てをしたりすること、そうした営みはすべて旅の一部なのだ。多かれ少なかれ人はこうした旅を経験し、いま生きているという冒険ぼうけん途上とじょうにあるといえる。
 「自分探しの旅」という言葉を耳にするたびに、ぼくはむずがゆいような違和感いわかんを覚える。人はいつでも「世界と共にある」のに、この場合の目的地は外界ではなく、自分の内面へと向かっているからだ。本来の旅とは自分を変えるために行うものでも癒しいや のために行うものでもなく、自己と世界との関係を確かめ、身体を通して自分が生きている世界について知る方法ではなかったか。
 ナショナルな枠組みわくぐ や、言語、性など、旅の中で人は自分に付いてまわるあらゆるものを意識させられる。何にもとらわれない個としての自分という存在がありえないと認識する一方で、しかしすべてを抱え込みかか こ ながら「一人のわたし」として生きていけるかもしれないということを、ぼくは世界を旅する中で強く感じてきた。
 世界は自分との関係の中で存在し、自分は世界との関係の中で生きている。大切な人のことを思い、今まで過ごしてきた時間について繰り返しく かえ 問い続けながら、世界と共にあること。地理的な未踏みとうの地がなくなったとしても、自己と世界とのかかわりの中で「一人のわたし」はさまざまな境界線を飛び越えと こ 、無数の未知を発見する旅にでることはできる。旅のフィールドは、ここやあそこではなく、目の前に、今ここにあるのだ。

 (石川直樹の文章による)
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