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 慰霊祭いれいさいのたびに官僚かんりょうたちの挨拶あいさつがある。「……みなさまの尊い犠牲ぎせいの上に今の平和があることを決して忘れず……」という言い回しを何度か聞いた。そのたびにそれは違うちが と思った。犠牲ぎせいがなければ今の平和がなかったわけではないだろう。早い話が、一九四四年末の段階で大日本帝国だいにっぽんていこくファシスト(軍国主義者)政権が降伏こうふくしていれば、三月十日の東京大空襲くうしゅうの死者十万人も、沖縄おきなわ戦の死者二十三万人も、ヒロシマの死者十五万人もナガサキの死者七万人も出さずに済んだ。同じように、シンガポールで死んだ人たちも南京なんきんで死んだ人たちも、そもそも日本軍が来なければ自分たちは……と言うはずだ。
 だれだって同胞どうほうたちの死を無駄むだとは思いたくない。意義のある崇高すうこうな死と見なしたい。しかし、無駄むだと認めないのは、自分たち人間の愚かおろ さを糊塗こと(こと。とりつくろってごまかすこと)することに他ならない。数百万人の死という犠牲ぎせいの上にしか二十世紀後半の平和が成立しないのだとしたら、そんな平和はいらない。死者たちの上に築かれた平和を楽しむ資格などだれにもないではないか。覚悟かくご犠牲ぎせいではなく無念の死であったという前提から考えないかぎり、また同じことがくりかえされるだろう。
 ヒロシマへの原爆げんばく投下の正当性を言い張る人々がまだアメリカには多いようだ。つまり、あそこで原爆げんばくを使わなければ本土上陸作戦でたくさんのアメリカの若者が死んだし、日本側の犠牲ぎせいも多かったはずだという論法。あの時点でトルーマン大統領にいかなる選択肢せんたくしがあったかを考えて、アメリカ兵の死者の数について、数万人から百万人までさまざまな数字が提出されている。その前提として、沖縄おきなわ戦で日本軍はあれだけ頑強がんきょう抵抗ていこうしたではないかとも言われる。実際の話、沖縄おきなわでは日本軍は民間人をたてに取り、白旗を掲げかか てアメリカ兵を呼び寄せた上で反撃はんげきするようなアンフェア(公正でないこと)までした。
 これに対して、日本の側から何の反論も出てこないのはなぜだろう。ヒロシマとナガサキに原爆げんばくが落とされなかったと仮定して、
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いったい大日本帝国だいにっぽんていこくはどこまで抵抗ていこうしたか。軍の指揮系統はどの程度混乱していたのか、天皇はどこで収拾を図り得たか。だいたいあの時期にはだれにどれだけの権力・指揮力があったのか。五十年もたって、関係者の多くが死んでしまって、回想録のたぐい出尽くしでつ  たというのに、その程度のシミュレーション(模擬もぎ的に調査・実験をして研究すること)をだれもしていない。戦争で死んだ人々の大半は若かった。高い地位にいたくせに責任の所在をごまかす卑怯ひきょう者ばかりが生き残ったとしたら、いかに慰霊祭いれいさいを重ねても若い死者たちは浮かばう  れないだろう。戦後五十年、各論として名誉めいよの破片を拾う本はたくさん出たが、究極の責任を問う史書はまだ出ていない。だから、原爆げんばく投下に対しても決定的な反論ができない。
 「二十年前の八月十五日、私は哀れあわ 捕虜ほりょとして、フィリピンの収容所にいた。敗戦が近いのは覚悟かくごしていたが、祖国が敗れたのは初めての体験である。捕虜ほりょの仲間といっしょに、少し泣いた」と大岡おおおか昇平しょうへいは書いた。あの時期に、あの状況じょうきょうで、少ししか泣かなかったことがこの人の知の力だと思う。その力をもって大岡おおおかさんは事実による鎮魂ちんこん(死者のたましいをしずめること)を行った。薄っぺらうす   な政治の言葉ではなく、戦場で何が起こったかを確定してゆく堅固けんごな言葉によって、あの戦争を定義した。『レイテ戦記』(大岡おおおか昇平しょうへいの書いた戦争文学)を読み返すのも、ぼくにとっては今年の夏の黙祷もくとうの一つだった。

池澤いけざわ夏樹『黙祷もくとうの夏』による)
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