1文化もパーソナリティも、多くの場合すこしずつ変化し、そしてときには大きく急速に変化しうるものである。文化のコードは長年の間にひとりひとりの人間の安全と満足をもとめる欲望があつまって、暗黙の合意のうちにつくりあげられてきたと考えられがちである。2しかし、次第に社会が強く組織化されるとともに、そこには、社会の強者、すなわち権力者の安全と満足をもとめる欲望が支配的なものとなっていったのは自然のなりゆきであった。たとえば、テューダー朝のイングランド王へンリー八世(在位一五〇九〜四七)は、3自らの離婚の合法性をめぐってアングリカン・チャーチ(イギリス国教会)を成立させ、ローマ教会からの分離独立をなしとげてこれを広く認めさせたし、ヒットラーのネクロフィリア(破壊性)はあの悪名高きナチズムにおける大規模な人間破壊行為を当時の社会におしつけたのであった。4しかし、今日、あらゆる点において高度に統合的な組織性を強めた社会では、個人としての権力者ではなく、その構造的力動によって自律的につくり出されるより大きな交換価値こそが、文化のコードとして支配者の地位につくことになっている。5そこでは、そもそものはじめから個人の署名をもたないこの文化のコードとしての交換価値を満たそうとする社会の力動的な動きに、個人の欲望は動かされざるをえないような仕組みになっていると言うことができよう。6私たちの支配者は、かつてのように、名前をもちはっきり目に見える権力者として君臨しているのではなく、社会的な交換価値という千変万化する記号のかたちをとって私たちひとりひとりを支配するようになっている。7そして、文化のコードというこの無名の支配者は、朝から晩まで私たちひとりひとりの全存在を直接・間接に支配しつづけているようだ。
ほかならぬこの私自身が欲していると思うことも、それは幻想であるにすぎない。8より大きな交換価値をもつ記号として皆が欲しているがゆえに、常識を身につけている私が無意識のうちに欲するようになってしまっているものであるにすぎない。「○○大学に入学しますように!」「スリムな美人になりますように!」等、つきることのないこの世俗の欲望は、9常識となった文化のコードとしての「より大きな交換価値」を無意識のうちに私的コードにとりこみ、それに身をまかせることによって生じているという側面が強い
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