a 長文 2.2週 yube
 文化もパーソナリティも、多くの場合すこしずつ変化し、そしてときには大きく急速に変化しうるものである。文化のコードは長年の間にひとりひとりの人間の安全と満足をもとめる欲望があつまって、暗黙あんもくの合意のうちにつくりあげられてきたと考えられがちである。しかし、次第に社会が強く組織化されるとともに、そこには、社会の強者、すなわち権力者の安全と満足をもとめる欲望が支配的なものとなっていったのは自然のなりゆきであった。たとえば、テューダー朝のイングランド王へンリー八世(在位一五〇九〜四七)は、自らの離婚りこんの合法性をめぐってアングリカン・チャーチ(イギリス国教会)を成立させ、ローマ教会からの分離ぶんり独立をなしとげてこれを広く認めさせたし、ヒットラーのネクロフィリア(破壊はかい性)はあの悪名高きナチズムにおける大規模な人間破壊はかい行為こういを当時の社会におしつけたのであった。しかし、今日、あらゆる点において高度に統合的な組織性を強めた社会では、個人としての権力者ではなく、その構造的力動によって自律的につくり出されるより大きな交換こうかん価値こそが、文化のコードとして支配者の地位につくことになっている。そこでは、そもそものはじめから個人の署名をもたないこの文化のコードとしての交換こうかん価値を満たそうとする社会の力動的な動きに、個人の欲望は動かされざるをえないような仕組みになっていると言うことができよう。私たちの支配者は、かつてのように、名前をもちはっきり目に見える権力者として君臨しているのではなく、社会的な交換こうかん価値という千変万化する記号のかたちをとって私たちひとりひとりを支配するようになっている。そして、文化のコードというこの無名の支配者は、朝から晩まで私たちひとりひとりの全存在を直接・間接に支配しつづけているようだ。
 ほかならぬこの私自身が欲していると思うことも、それは幻想げんそうであるにすぎない。より大きな交換こうかん価値をもつ記号としてみなが欲しているがゆえに、常識を身につけている私が無意識のうちに欲するようになってしまっているものであるにすぎない。「○○大学に入学しますように!」「スリムな美人になりますように!」等、つきることのないこの世俗せぞくの欲望は、常識となった文化のコードとしての「より大きな交換こうかん価値」を無意識のうちに私的コードにとりこみ、それに身をまかせることによって生じているという側面が強い
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ようだ。――ただし、機械ならぬ人間は、規則を変える創造性という能力を持っているために、全面的にそうであるというわけではない。そのために、そうした「交換こうかん価値」が変化すれば常識も変化し、それにしたがって個人の欲望の内容も当然変化することになるのだろう。人気のある学校や学部そして美人のタイプなどが時代とともに移りかわるのはその証である。そしてこの情報化社会にあって、このような交換こうかん価値としての文化のコードを敏速びんそくかつ広域に浸透しんとうさせるのを助けているのは、いうまでもなく新聞・テレビなどのマス・メディアである。
 これらの欲望を満たそうとすることは、私たちを日々仕事に学習にその他さまざまな活動にかりたてる原動力となっているが、他方その欲望を満足させることがあまりにもむずかしく思えるとき、私の存在の核心かくしんにしのびこんだこれらの欲望のいっさいから解放されればどんなに心が休まるだろうか、と思うことにもなる。そのようなとき、冒頭ぼうとうに述べたように、私たちは無意識のうちにできるだけ文化という「人の手」の加わらない自然の中に逃れのが 、あるいは「非社会」的行為こういの中にかりそめの脱出だっしゅつを試みて、文化のコードによるすさまじい搾取さくしゅからすこしでも身をまもろうとすることになるのかも知れない。
 しかし、文化のコードの手の届かないところに逃げに きったように思っていても、新記録をうちたてたいという思いをひめた探検家はもちろんのこと、南太平洋の豊かな自然というデラックスな休暇きゅうかの宣伝に誘わさそ れて自然に親しむ人々もまた、やはり文化のコードにしっかりとからめとられていることになる。それに、海や山の「自然」の中でも、やはり、流行の登山装備や水着、さまざまな人との出会いがあり、文化的なものを完全に拒んこば でしまうことは、とうてい不可能であると言ってよいだろう。

(有馬 道子)
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