a 長文 3.2週 yube
 二十年前、私は京都で下宿しておりました。ある夜、月のいい夜でしたが、私のところのおばあさんと一緒いっしょに、庭に出て月を見てました。そのおばあさんは私に、「アメリカにも月がありますか」と聞いたのです。
 たいへんかわいらしい話でしょうが、まだこのような初歩的な誤解が残っているはずです。しかしどちらかというと、少なくなったのです。二十年前か、五十年前なら、一般いっぱんの人は同じような誤解をしていたでしょうが、現在よっぽどのおばあさんでなければもう聞けない話になりました。
 ところが、もう一つの迷信が――迷信と言ってもいいと思いますが、日本に残っている。ある意味では、これが日米相互そうご理解の邪魔じゃまをしているのではないかと思います。それは、外国人が刺し身さ みを食べないという迷信です。私のことを知らない日本人と話し出すと、国を聞かれるし、職業を聞かれるし、そして、三番目あたりの質問は、刺し身さ みでも平気ですかと聞くのです。このような質問は実はどうでもいいと思います。仮に私が刺し身さ みを見てムカムカするとしても、日本を理解していないと早合点してもらいたくない。実は私は刺し身さ みが大好きです。「刺し身さ みを食べます」という札を胸に付けてもいいとさえ思っています。それとも「食べます」だけでも十分でしょう。どうせ質問はいつも刺し身さ みのことです。ほかのことは聞かれないんです。(笑)それが一つです。
 さらに、もう一つ、日本語は外国人に絶対話せない、そして外国人が仮に話せてもぜったい読めないという迷信です。この迷信は非常に根強いのです。三十年前から日本のことを勉強していても、まだ私が日本の漢字を読めないと思っている人たちが圧倒的あっとうてきに多い。私が外国で日本文学を教えていると知っていても、私が日本の文字を読めないと確信しているんです。そんなに難しいでしょうか。もし、そんなに難しいものでしたら、日本国民はみんな天才ばかりだと言うほかないのです。つまり小学校しか出ていない日本人でもかなり読めるのに三十年間勉強しても「佐藤さとう一郎いちろう」という名前を外国人が読めないと言うのはどういうことでしょうか。
 ともかく、そういうような迷信とか、外国人が理解できるということを否定するような態度は、相互そうご理解の邪魔じゃまになると私は思います。
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 アメリカ人も理解の邪魔じゃまをするような迷信を持っているのです。しかし、アメリカ人の迷信は、日本人の迷信とまさに逆です。日本人は、外国人はどうしても日本のことを理解できないと思い込んおも こ で一応嘆きなげ ますが、と同時に、外国人に分かってもらえないと思うと何となく優越ゆうえつ感を覚えるのです。「やっぱり日本人でなければこの食べ物のおいしさは分からない。日本人でなければこの花の美しさが分かるはずがない。日本人でなければ天気のいい日のよさが分かるはずがない……」。これは極端きょくたんですが。
 ところが、アメリカ人の場合はどうかと言うと、アメリカ人は、日本人はみんなアメリカのことを知っているはずだというふうに思っている。英語をゆっくりしゃべったらどんな日本人でも分かるはず、分からないようならばそれは分からないふりをしてるからだ、みんな分かってるはずだと思うのです。そして、アメリカの食べ物なら日本人は食べているに違いちが ないと思っているのです。
 たとえば、外国人が日本の着物を着るとか草履ぞうりをはくとか、そういうことがあったら、日本人は何となくおかしいと思う。何となく変です、やっぱり着物は日本人でなければ無理だと言うでしょう。しかし、アメリカ人はまさに逆です。日本人が着ているシャツの胸に、自分の大学のもん描いえが てあれば、とてもうれしくなる。やっぱり日本人もアメリカ人も全く同じものを喜ぶのだと思いたがるのです。そして、日本人がアメリカ人と違うちが と気が付いたら、時間の問題にすぎない、いずれそのうち全く同じになるに違いちが ない、と思います。
 それはとんでもない話ですが、もちろん悪意はないのです。日本人の立場にもアメリカ人の立場にも、全く悪意がない。しかし、悪意がなくても相互そうご理解のためによくないと私は思います。私はいちばん最後に、そういうような悲観的な話はしたくありません。私は相互そうご理解が年ごとに深まっているに違いちが ないと思っております。

(ドナルド・キーン『日本人の質問』)
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