a 長文 3.3週 yube
 妖怪ようかいの中に「もののけ」という種類があって、これは「もの」につく。一般いっぱんには、「ものの毛」と書いて、これは「もの」に生える「毛」のことであろうと考えられているようであるが、そうではない。「ものの気」と書いて、これは「もの」が漂わただよ せているかに見える「気配」のことである。
 つまりこれは、「もの」についてそれが「もの」であることを、次第に歪曲わいきょくもしくは変質させてゆくわけであり、それが我々には、どことなく得体の知れない「気配」を漂わただよ せているように見えるのであるが、ここで言う「もったい」も、そうした「もののけ」の種にほかならない。そしてそれがつくと、我々はその「もの」を、むしょうに捨てたくなる。
 従って逆に、それのついていないものを見ると、むしょうに拾いたくなる。つまり、「もったいない」のである。我々は、定期的にごみ捨て場をうろつき、「もったいない」とつぶやきながらあれこれと拾い集める連中を見て、「あれはきっと、それらのものが拾ってくれ拾ってくれと、連中をそそのかすからに違いちが ない」と考えるが、実はそうではない。「もの」に「もったい」という「もののけ」がついている時、その「もの」が我々に「捨てろ捨てろ」とそそのかすのであり、「もったいない」と言って拾うのは、単にその反動にすぎないのである。(中略)
 ところで、人類史をひもとくまでもなく我々は、かつて「狩猟しゅりょう採集時代」というものを経験し、今また「消費遺棄いき時代」というものを迎えむか つつあることを、よく知っている。つまり、その生活の主たる様態を、「拾う」ことから「捨てる」ことへ、大きく転換てんかんさせつつあるのだ。妖怪ようかいもったいは太古より存在し、それが「もの」についたり離れはな たりすることにより、人々にそれを捨てさせたり拾わせたりする法則性は、何ら変化していないにもかかわらず、こうした転換てんかんが行なわれたということは、明らかに奇妙きみょうなことと言えよう。
 現在、もったい専門の妖怪ようかい学者が問題としているのは、この点にほかならない。言うまでもなく、考えられることはひとつである。つまり「狩猟しゅりょう採集時代」から「消費遺棄いき時代」に至る期間
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の、どこかの時点で文明が、もったいを人為じんい的に操作しはじめたのだ。文明がもったいという妖怪ようかいの存在に気づき、それをひそかに養い育て、「もの」に自由につけたり離しはな たりすることができれば、人々に「もの」を、これまた自由に捨てさせたり拾わせたりすることができるようになるのは、道理である。
 もちろん文明が、人々に「もの」を捨てさせなければならなくなった理由は、だれもが知っている。あらためてここで歴史の復習をする余裕よゆうはないが、この間に人類は「産業革命」を経て「大量生産時代」を迎えむか たのであり、当然ながらその大量に生産された「もの」は、大量に消費されなければならなくなったのである。しかし、生産力というものはやみくもに向上させることができるが、消費の方はそうはいかない。そこで、どうするべきか。
 当たり前の文明ならここで消費に見合うべく生産力の方を抑えるおさ  であろう。ところが、我々の文明はそうしなかった。生産力を抑えるおさ  どころか、それをさらに向上させ、我々の消費の手に余る分を、そのまま捨てさせることにしたのである。このあたりが、我々の文明の、天才的なところと言えよう。そしてそのためにも、妖怪ようかいもったいが駆り出さか だ れるハメになったのだ。
 前述したように、「もの」に「もったい」がつくと、我々はそれをまだ消費しつくしてないにもかかわらず、むしょうに捨てたくなる。文明は――というより、現在それをしているのは流通経済の中枢ちゅうすうを支える専門家たちであるが――ひそかにこの操作をしている。つまりこれを、専門用語で「もったいをつける」と言う。「もったい」がつくと、何となくその「もの」が、「重く」感じられたり、「わずらわしく」感じられたり、「うっとうしく」感じられたりするのである。
 もちろん、こうした専門家たちだって馬鹿ばかではないから、商店へ並べられた商品に「もったい」をつけるようなことはしない。そんなことをすれば我々は、消費はおろか、「購入こうにゅうする」ことをすらしなくなる。商品の流通が円滑えんかつに行なわれるためには、我々がそれを買って帰り、包装紙を開いたとたん、それがつくようにしなければならない。ということから考えれば、シャーロック・ホームズを
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長文 3.3週 yubeのつづき
一冊でも読んだことのあるものには、どこにカラクリがあるか、すでに推理できたことであろう。そうなのだ。包装紙である。化粧けしょう箱である。そして、それを結ぶリボンである。そこにもったいが仕掛けしか られ、それらを解き放ったとたん、それは中の商品につくことになっているのである。包装紙や、化粧けしょう箱やリボンを、もったいないと言ってしまっておきたくなるのは、そこにそれまでついていたもったいが、中の商品に移り住んでいるからにほかならない。
 かくて、流通経済は円滑えんかつに機能し、生活は潤いうるお 、我々は満足している。「もったい」である。妖怪ようかいもったいの養育と、専門家たちによるその見事な操作によって我々は「捨てるために手に入れる」という、生物学的には希有けうの性向を身につけ、「消費を上回る生産」という、あり得べからざる事態を楽々とこなしているのだ。

(別役実『当世もののけ生態学』より)
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