長文集  4月2週  ★私は最近、九十歳を越えて(感)  1a-04-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2023/03/29 02:33:43
 私は最近、九十歳を越えていまなお活躍し
ているある人が書いたものを読んで、大変感
銘を受けた。
 ご老人は功成り名遂げた人だから、多分日
常は快適な環境の中で暮らしておられるのだ
ろう。だが、ご老人は毎朝冷水を浴びること
を一日も欠かしたことがないという。朝起き
て、大気と十度以上も差のある冷水を浴びる
。毛穴がすぼまり、血管が引き締まる。その
刺激がその人の生物体としての適応能力をよ
みがえらせる。快適な毎日にあって、一時で
も厳しい環境の中に身を置くことで、生物体
としての適応能力を刺激する地道な営みが、
ご老人が九十歳を越えてもなお元気に活躍し
ている一つの要因になっているのだろう。
 いま、私は家で鯉を飼っている。鯉や金魚
を飼っている人は多いが、聞いてみると、よ
く死なせている。私は自慢ではないが、鯉も
金魚も信じられないほど長生きさせることが
できる。いや、自慢するほどのことはない。
カレルの理論を応用しているだけなのだ。
 そのコツは餌を十分にやらないことである
。ときには一週間わざと餌を与えなかったり
する。いま飼っている鯉は、これで攻撃的な
エネルギーを発揮し、元気いっぱいに長生き
している。
 餌を十分にもらえないことは、鯉にとって
快適な環境ではない。いささかの飢餓状態に
置かれている。これが鯉に攻撃的なエネルギ
ーを与え、元気に長生きさせる要因なのだ。
反対に十分な餌を与えると、適応能力が刺激
されず、生物体の価値を低めてしまって、早
く死んでしまうことになる。
 最近は犬でも猫でも栄養満点のペットフー
ドを与えられ、満ち足りているようである。
かつて猫と言えば高い木や塀に登り、鼠を獲
るものと相場が決まっていた。ところが、い
まの猫は木にも塀にも登らなくなったし、鼠
も獲らなくなった。栄養満点で飢餓を知ら 
ず、空調冷暖房完備の部屋でヌクヌクと寝そ
べっているうち、∵適応能力が失われ、木に
も塀にも登れなくなったし、鼠を獲ることも
できなくなったのである。満ち足りた環境の
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中に長くいると、適応能力が衰えたまま、固
有の能力も退化してしまうのである。
 そう言えば、盆栽の名人からいい盆栽を育
てるコツは、「切りすぎずに切る」ことだと
教えられたことがある。植物を限られた状況
に置くのが盆栽である。だから、そのままに
しておくと盆栽はすぐだめになってしまう。
枝を切ることで適応能力が奮い起こされ、い
い盆栽になるのである。
 人間もまた、同じである。アレキシス・カ
レルは要旨、次のように言っている。「食う
だけ食って、寝たいだけ寝て、人間の向上な
どはあり得ない」
 まさにその通りだと思う。
 眠たいのを振り切って起き上がったことの
ない青年が、将来物の役に立つ人間になると
は思えない。眠りというのは生物の個体にと
って極めて重要で、これが極度に妨げられる
と、生命の危険にさえ立ちいたる。逆に眠り
たいだけ眠って満ち足りると、生物の個体は
それ以上は眠れない。生物体は生物学的に必
要があるから、必要な分だけ眠るのだから、
「惰眠」などということはないはずである。
それなのに「惰眠をむさぼる」などと言う。
なぜか。
 眠りたいだけ眠ることは、生物体の適応能
力を刺激しないだけでなく、精神の適応能力
にも、響いてくるのである。眠りに満ち足り
ると、生物の個体は何かに向かって努力する
という気持ちを失ってしまうのだ。従って、
眠りたいだけ眠ることは「惰眠」なのであ 
る。
 眠いのを振り切って起きた経験がなくて、
向上した人間はいな い。これは肝に銘ずべ
きことである。向上して将来大いに世の中の
役に立つ学生は、いま眠いのを振り切って机
に向かい、勉強しているはずである。 (「
致知」渡部昇一氏の文章より)