長文集  11月3週  ★クルト・ネットーが(感)  1u-11-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2020/09/15 12:30:52
 クルト・ネットーが日本にやってきたのは
、前述の通り明治六 年、十二月の雪の舞う
寒い季節であった。横浜から船を乗り継いで
釜石に到着した。彼は、政府の役人たちと一
緒にさらに一路小坂鉱山へ向かった。もちろ
ん、徒歩である。吹雪のなか、一行はひたす
ら前へ前へと足を進めた。少しでも立ち止ま
ってしまえば、凍えてしまうのではないかと
思うくらい、寒さは厳しかったのである。
 突然、目の前が開けた。眼下には大きな川
が水飛沫(みずしぶ き)をあげ、渦巻いて
いた。彼はそこでこの世のものとは思えない
凄まじい光景と遭遇した。ガクガクと膝が震
えてくるのを止めることはできなかった。そ
の震えは、寒さによるものだけではなかっ 
た。
 その厳寒の川のなかで一体何がうごめいて
いるのか、初め彼にはわからなかった。川辺
に近づくにつれ、その正体が明らかになって
いった。なんと、年老いた日本人労働者たち
が首まで水につかり、流されまいと必死でこ
らえていたのである。労働者たちは一枚の板
の上にクルト・ネットーを乗せて川を渡すた
めに、長い時間水のなかで待っていたのであ
った。
 「何という国であろうか」とクルト・ネッ
トーは強烈な衝撃を受けた。自分のような若
者を川の水につからせないために、自分の親
ともいえる年配の人たちを厳寒の激流の川の
なかに待たせておくなんて……。
 彼は政府の案内人が止めるのも聞かず、そ
の激流の川のなかに飛び込んだ。その老いた
労働者たちの支える板に、彼はどうしても乗
ることができなかったのである。川を渡り終
え、水から上がったとき、衣服はガチンガチ
ンに凍りついていた。
 遠い異国の地で、しかも寒さの厳しい山奥
でのこの強烈な体験 は、その後もずっと彼
の胸に刻み込まれていた。冷たい川の水のな
かにたたずみ、自分を見上げる労働者たちの
目、目、目……。彼は悪夢にうなされ、夜中
にハッと目覚めるのであった。背中は汗でび
っしょり濡れ、呼吸は荒かった。
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
 彼は自分がこの国に何のためにきたのか、
考えずにはいられなかった。そしてあのよう
な労働者のためにも、自分はこの国の近代化
のために身を捧げなければいけないと強い使
命を感じたのであっ た。
 鉱山から帰ってきた彼は、連日深夜まで机
に向かうようになっ た。日本の発展は鉱業
のみならず、橋なくしてはありえないと考え
たのである。技術者であるクルト・ネットー
は橋の設計図を完成させた。そして政府に無
償で提供し、全国に橋をかけることを進言し
たのであった。
 日本の川に橋がかけられるようになったの
には、このようないきさつがあったのである

 (中略)
 冷たい水につかり、板を差し出している人
々は世の中にたくさんいる。あなただったら
、そのような人々に対してどう振る舞うだろ
うか。「そういうときは寒いから、風邪をひ
くから板の上に乗りなさい」。そんな悪魔の
ささやきが、日本に汚職事件をはじめ、さま
ざまな問題を引き起こしたのではないだろう
か。
 私はそのような声に断固首を振り、自ら冷
たい水のなかに入り、橋をかけようと努力し
なければならないと思う。そして私たち日本
人にもっとも必要なのは「クルト・ネットー
」の精神である「真 心」を未来永劫受け継
いでいくことであると思うのだ。
(「致知」九十七年六月号 木村慶一氏の文
章より)