長文集  12月1週  ★徳川譜代の暮臣鈴木重成は(感)  1u-12-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2020/09/15 12:30:52
 徳川譜代の暮臣鈴木重成は三代将軍家光の
ころの人で、島原・天草の乱後、幕府の天領
(直轄地)となった天草に代官として赴任し
ました。島原・天草の乱では三万七千人の民
が皆殺しにされましたが、重成自身も乱のと
き砲兵隊長として出陣したので、相当の人数
を殺したはずです。天草に赴任したときには
罪業感を抱いていたかもしれません。
 重成に課せられた任務は、天草の民が二度
と乱を起こさないよう民心を安定させること
、規定通りの年貢を収められるだけの生産力
を回復させること、キリシタンを仏教に改宗
させることでした。どれひとつとっても大変
なことですが、重成の実力を見込んでの人事
でした。
 天草の状況は悲惨でした。島原・天草の乱
後、人口が激減し、多くの田畑が耕す人もな
く荒れるに任されていました。しかもそこへ
過酷な税金が課せられ、農民は木の根、草の
根を食べて命をつないでいるありさまです。
 かねてから、天草の島全体の生産力は二万
石ほどしかないのに、石高は四万二千石と査
定されていました。そもそも島原・天草の乱
が起こったのも、重税による生活の苦しさか
ら逃れようと、大勢の農民がキリスト教に入
ったことが原因でしたが、乱後も状況は同じ
でした。
 重成が民の生活を向上させるためにまずや
ったことは、神社仏 閣、道路、港などの築
造工事を行い、民に賃金を得させることでし
た。このために重成は幕府から巨額の資金を
調達したようです。いまも天草には、二、三
十億円ほどの価値があろうかという社寺が二
十五か所ほど残っています。
 やがて重成の努力が功を奏して、荒れた田
畑にも実りが戻り、島の生産力は徐々に上が
ってきました。民の生活にも多少余裕が生じ
てきたかに見えました。しかしそれでもなお
、石高四万二千石の査定は天草には重すぎま
した。だが重成は幕府の代官です。いかに民
の窮状を見るに忍びなくとも、税を徴収しな
ければなりません。
 ついに重成は石高半減の嘆願を決心しまし
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た。重成の心に菩薩心が起こりました。世の
ため人のためにわが身を投げ捨てようという
覚悟です。
 重成は、自分が生きている間に嘆願が受け
入れられないことを承知していました。なぜ
なら、重成の嘆願が認められれば、他の代官
がわれもわれもと嘆願書を出すからです。そ
うなれば幕府の台所にひびが入ります。しか
し、嘆願を実現しなければ天草の民は救われ
ません。
 幕府を生かし民も生かす道は一つ。切腹で
す。
 もちろん、重成には他の道をとることもで
きました。年齢もすでに還暦を過ぎていまし
たから、病気を装って隠居を願い出ることも
できました。あるいは平々凡々の場当たり的
な政治を行って無難に切り抜けることもでき
たでしょう。しかしそれは、己の命を捨てて
他の命のために尽くそうとする重成の菩薩精
神が許しませんでし た。
 ある年、肥後(熊本県)地方を大暴風雨が
襲いました。天草は壊滅的な打撃を被り、農
民は田畑も家も食べるものも失いました。
 民を飢えから救うには、米蔵を開放する必
要がありました。だが米蔵を開くには幕府の
許可が要ります。無断で開けば切腹です。し
かし、天草と江戸の距離は往復二千五百六十
キロ。普通に歩けば八十日かかります。使い
の者の帰りを待っていては民が死にます。
 だが、重成の覚悟はもう固まっていました
。「なに、わし一人腹を切れば済む」重成は
すぐに米蔵の開放を命じました。承応二年(
一八五三)旧暦十月十五日午前零時、重成は
石高半減の上表書を妻重子に託して、切腹し
ました。
(「致知」九十七年四月号 黒瀬昇次郎氏の
文章より)