1. 【1】テレビが
普及して、
映画を見る人が少なくなったというのはほんとうです。「
視聴覚文化」が
盛大におもむき、本を読む人が少なくなるだろう、というのは、どうもほんとうらしくありません――ということは、およそ常識からも察せられるでしょう。
2. 【2】
娯楽としてのテレビと
映画とはたいへんよく似ています。見るほうが受け身で、すわっていれば画面のほうがこちらを適当に料理してくれます。それほど似ているから、どちらか一方でたくさんだという考えのおこるのもむしろ当然のことでしょう。【3】ところが本を読むのにはいくらか読む側に努力がいります。また読む速さをこちらが加減することもできるし、つまらぬところを省くこともできる。おもしろいところを二度読むこともできるし、むかしの人の言ったようにしばらく
巻をおいて
長嘆息することもできます。【4】そういう本をよみながらできることは、
映画やテレビを見物しながらは、どうしてもできません。要するに本を読むときのほうが、読む側の自由が大きい、自分の意志や努力で決めることのできる
範囲が広い、つまり態度が積極的だということになるでしょう。
3. 【5】「今日は
疲れたから、
映画でも見ようか」とはいいますが、「
疲れたから本でも読もうか」という人があまりいないのはそのためであり、そもそも読書法ということは成りたっても、
映画・テレビ見物法ということが意味をなさないのもそのためです。【6】一方は受け身のたのしみ、他方は積極的なたのしみで、受け身のたのしみが増えるということは、かならずしも積極的なたのしみを求めなくなるということではありません。
娯楽の性質がまったく
違うから、いわゆる
視聴覚「文化」または「
娯楽」は、読書のたのしみを
妨げるものではないでしょう。
4. 【7】しかしテレビには
娯楽番組のほかに、いくらか知的
好奇心を
刺激する番組もあります。たとえば
憲法についての
座談会とか、ダム建設工事現場の写真とかいったものが「
憲法」や「ダム建設」に対する
好奇心を
刺激します。【8】しかし、その
好奇心を十分に満足させるようなまとまった知識を
与えてくれることは、ほとんどありません。そこで「
憲法」に関しまた「ダム建設」に関して、まとまった知識を読書によって得ようという
欲求がおこっても、ふしぎではない。∵【9】そうなればテレビは、読書を
妨げないばかりでなく、むしろ助長するようにはたらくということになりましょう。少なくともそういう一面がありうると思います。
5. 新しい絵はわからないという人がよくあります。【0】新しい絵というのは、
抽象絵画のことでしょう。よくわからないというのは、その絵が本来、魚を
描いたものか、女性を
描いたものかわからないという意味でしょう。それならば、新しい絵はわかる必要のないものです。(中略)しかし、本を読むということになると、これはどうしてもわからなければ無意味です。魚のことを言っているのか、女性のことを言っているのかわからなくてはどうにもなりません。少なくとも、ある種の美術はわかる必要のないものです。音楽は絵と同じ意味ではなにものも表現していないので、そもそもわかるはずがない。読書だけが絵を見ることや音楽を
聴くことと
違うのです。すべての本は言葉からできあがっていて、すべての言葉はなにかを意味します。その意味をとらえて、意味
相互のあいだの関係を理解することが、本を読む法、つまり本をよくわかることでしょう。読むこととわかることとは
切り離せません。
6. しかし、世の中にはむずかしい本があります。どうすればたくさんの本を読んで、いつもそれをわかることができるようになるでしょうか。その方法は
簡単です。しかし、おそらく読書においてもっとも大切なことの一つです。すなわち、自分のわからない本はいっさい読まないということ、そうすれば、絶えず本を読みながら、どの本もよくわかることができます。少しページをめくってみてあるいは少し読みかけてみて、考えてもわかりそうもない本は読まないことにするのが
賢明でしょう。一
冊の本がわからないということ、ただそれだけでは、あなたが悪いということにもならず、またその本が悪いということにもならない。これはよく心得ておくべきことで、そのことさえ十分に心得ていれば無用の努力、無用の
虚栄心、または無用の
劣等感をはぶき、時間のむだをはぶくことができるでしょう。だれにもわかりにくい本というのがあります。
私にはわかりにくいけれども、ほかの人にはわかりやすい本というのがあります。また最後に、だれにもわかりやすい本というものがあるでしょう。
7. (
加藤周一「読書術」より)