長文集  1月4週  ○十年ほど前、ボルドーの近くを  he-01-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/12/14 12:52:12
 十年ほど前、ボルドーの近くを走っていて
、くるまの接触事故をおこしたことがある。
人身には何の影響もなかったし、こちらの日
本製の車体がへこんだくらいで、何と日本の
くるまは弱いんだといまいましいくらいのも
のであったが、――それにこちらにも言い分
があり、相手にも幾分の非があったのだが―
―。
 それでも口をついて出たのは「すみません
」ということばであった。相手は朴訥な農民
夫婦で「はじめてパリへ行って無事故で帰っ
てきたのに……」と愚痴をさんざん並べてい
た。
 しばらくして「しまった」と思った。「す
みません」とは、あやまり文句である。こち
らがあやまってしまえばもうそれでおしま 
い。非はすべて当方がかぶらねばならない。
 そのことは、フランスへ来て、くどく言わ
れていたのだ。問題をおこしたら、ぜったい
にあやまってはいけない。こちらの責任がい
くら明白なときでも、まず「汝(なんじ)ニ
咎(とが)ガアル」 (?ous avez
 tort.)と言うべきである。そうでな
いと、賠償責任はすべてこちらが負わねばな
らぬ。「すみません」とは口が裂けても(―
―はちと大げさだが)言ってはならぬ。自動
車保険の契約の注意書にさえ「事故のときに
あやまってはならぬ」と書いてある。にもか
かわらず、日本人である私はつい「すみませ
ん」と言ってしまった。習慣はおそろしいも
のである。
 リリアーヌ・エルという女性は「あやまる
ということ」(『潮(うしお)』昭和五十三
年四月号)というエッセイの中で、日仏比較
文化のおもしろい観点を出している。日本人
は簡単にあやまる。フランス人はなかなかあ
やまらない。どうしてか、という問題であ 
る。彼女の引いている例は、仲間を裏切った
やくざが、のちに仲間にリンチを受けるとい
うテレビドラマの場面である。彼女は同じ状
況を描いたドラマを日本とフランスで見た。
状況と結果はまったく同じである。どちらも
、見下げた奴として仲間に憐まれ、ゆるされ
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る。ところが、その過程の、憐みを乞う文句
がちがう。日本だと「悪かった! 許してく
れ」と言い、フランスだと「おれが悪いんじ
ゃない! 殺さないでくれ」と言う。まるで
正反対である。∵
 ここで私が言いたいのは、フランスでの「
自分が悪かった」ということばの重みである
。神の前で自己の全人格を否認するというこ
と、それが自分の悪をみとめるということで
ある。これは勇気ある行為である。もし、や
くざがそんな勇気ある行為を示せば、人は彼
を尊敬し、そして簡単に殺してしまうだろう
。憐みを乞うたことにはならないのだ。憐み
を乞う場合は、状況が悪かったとくどくどと
弁解しなければならないのだ。
 日本ではちょうど逆である。弁解すれば、
憐みはかけてもらえ ぬ。弁解は理屈であり
、理屈は卑怯である。ただ一言、悪かったと
あやまる。この頭を下げるというのが、日本
社会でゆるしのえられる唯一の行為である。
 「悪かった」と言っても、日本では勇気あ
る行為とはいえない。みんな、いつでも「悪
かった」とあやまる。つまり社会的定型であ
る。人は、定型によって憐みを求め、定型に
よって憐みを与える。物を言っているのは、
文化の型である。
(中略)
 絶対の罪というものはない。しかし、おた
がいに小さな悪、小さな迷惑をかけあってい
る。それは無意識の領域にちらばっているの
で、いちいちとりたてては言えないくらいで
ある。だから、たえず「すみません」と言う
。「すみませんで済むか」と言われればその
通り、といった重大な場面では、「ではどう
すれば済むのですか、あなたの気持ちの済む
ようになさってください」という「すみませ
ん」の語源に迫るような科白(せりふ)も出
てくる。もっとも「どうすれば済むのか」と
いう反問じたい、あやまる文化の型にそむい
ている。これは日本では反抗であり皮肉であ
る。
 というわけで、もっぱら私たちは腰を低く
している。日本文化の型になじんだ外国人の
なかには、腰を――というより背をかがめて
愛想笑いをふりまく人もいる。いつだったか
、約束をたがえた外国人がおり、その人物、
次に私に会ったとき、彼は「日本ふう」に背
を海老のようにまげ、謝罪したものである。
その極端な姿勢∵におどろいた。私たちは、
外国人という鏡に映った自分たちの文化の姿
におどろくのである。

 エルさんはフランス人の論理好きには、二
つの種類があるとい う。客観的、普遍的な
論理と、もう一つは、自分の立場をあくまで
正当化しようとする論理癖と、である。後者
の、いわばフランス人の癖のようなものが前
者を形づくり、前者が逆に、後者の癖を助長
するということがあるのだろう。
 とりあえずあやまるという日本文化には、
人と人とのつながりをなめらかにするという
普遍的知恵に通じるものがある。同時に、何
でも「すみません」で通そうとするあつかま
しさもある。済むとか済まないとか――そん
なことを意識しないで、ともかく「すみませ
ん」と言っている。感謝でも謝罪でもない。
「すみません」というのは、あやまる文化の
型をつたえることばである。同時に、安直な
ことばでもある。後者はむしろ、伝統をなし
くずしにする面があ る。
 ひとつのことばをめぐって、伝統と、それ
をなしくずしにしようという力と、その双方
がせめぎあっているようである。
 ことばはむずかしいものである。ことばの
解釈もむずかしいものである。外国人は、あ
やまる文化に卑屈さを見いだして感心したり
するが、事は(少なくとも今は)それほど簡
単ではないように思われる。

(多田道太郎『日本語の作法』)