1. 【1】
僕は、手の中にある小さなカードをにらみつけた。そこには
僕の名前と、「受験番号008」という文字が印刷してある。そう、これは受験票なのだ。といっても、学校で開かれる「受験面接体験会」に使う、練習用のものである。
2. 【2】いよいよ中学受験が
迫っている。勉強はしっかりしてきたつもりだが、面接を受けるのは初めての経験だ。だから練習とはいえ、準備は入念にした。「
尊敬している人は
誰ですか」と聞かれたら「父です」、「日課はありますか」と言われたら「自習として読書と暗唱を続けています」と答えるように決めていた。
3. 【3】体験会の当日。
廊下にたくさんの
椅子が置かれ、顔をこわばらせた同級生たちがずらりと
並んで
座っている。一人一人、部屋に
呼び込まれていき、自分の番が目に見えて近づいてくる。いつも見慣れているはずの教室への入り口が、別世界への
扉か、大きく開いた
怪物の口のように思えてきた。
4. 【4】そして、
僕の番が来た。返事をして、教室の入り口で一礼。「どうぞ」と言われるまで待ってから、静かに
椅子に
腰を下ろし、受験票を提出する……ここまではイメージ通りだ。目の前に面接官役として、三人の先生が
座っている。【5】どんな
難しい質問をされるのか……と身構えていたら、真ん中の先生が
困ったように笑って、こう言った。
5.「これは、逆だねえ。」
6.ハッとして
机の上を見ると、「受験番号008」の文字が、
僕の方を向いている。受験票は当然、それを見る面接官に向けて出すべきものだ。【6】
僕は
緊張のあまり、まるで
漫画のようなミスをしてしまったのだった。
7. 自分のしでかしたことが自分で信じられず、一気に顔が赤くなる。面接でのやりとりは、今でも「逆だねえ」以外には何も覚えていない。【7】結局、あまりにも分かりやすい失敗だったせいか、とくに注意されることはなかった。とても
恥ずかしい思いをしてしまったが、それだけに、本番で同じ
間違いをすることは決してないだろ∵う。【8】
緊張しそうになったら「とりあえず、受験票を逆に出すなよ」と過去の自分に言い聞かせて、リラックスするつもりだ。
8. 人間にとって、身が
縮むような
緊張の体験も、たまには必要だ。そうすることで自分と向き合い、思わぬ発見ができるかもしれないからだ。
9.【9】「初心
忘るべからず」。
10. この時の
緊張を
忘れることなく、
些細な失敗は笑い話にしてしまえるように、本番では良い結果を残したい。
僕は練習用の受験票を、
机の引き出しにそっとしまい
込んだ。【0】
11.(言葉の森長文作成委員会 ι)