長文集  2月4週  ○保吉の海を知ったのは  he-02-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2015/02/06 11:36:12
 保吉の海を知ったのは五歳か六歳の頃であ
る。もっとも海とはいうものの、万里の大洋
を知ったのではない。ただ大森の海岸に狭苦
しい東京湾を知ったのである。しかし狭苦し
い東京湾も当時の保吉には驚異だった。奈良
朝の歌人は海に寄せる恋を「大船の香取の海
に碇おろしいかなる人かもの思わざらん」と
歌った。保吉はもちろん恋も知らず、万葉集
の歌などというものはなおさら一つも知らな
かった。が、日の光に煙った海の何か妙にも
の悲しい神秘を感じさせたのは事実である。
彼は海へ張り出した葭簾張りの茶屋の手すり
にいつまでも海を眺めつづけた。海は白じろ
と赫(かがや)いた帆かけ船を何艘も浮かべ
ている。長い煙を空へ引いた二本のマストの
汽船も浮かべている。翼の長い一群の鴎はち
ょうど猫のように啼きかわしながら、海面を
斜めに飛んで行った。あの船や鴎はどこから
来、どこへ行ってしまうのであろう? 海は
ただ幾重かの海苔粗朶の向こうに青あおと煙
っているばかりである。……
 けれども海の不可思議をいっそう鮮やかに
感じたのは裸になった父や叔父と遠浅の渚へ
下りた時である。保吉は初め砂の上へ静かに
寄せてくるさざ波を怖(おそ)れた。が、そ
れは父や叔父と海の中へはいりかけたほんの
二、三分の感情だった。その後の彼はさざ波
はもちろん、あらゆる海の幸を享楽した。茶
屋の手すりに眺めていた海はどこか見知らぬ
顔のように、珍しいと同時に無気味だった。
――しかし干潟に立って見る海は大きい玩具
箱と同じことである。玩具箱! 彼は実際神
のように海という世界を玩具にした。蟹や寄
生貝は眩い干潟を右往左往に歩いている。浪
は今彼の前へ一ふさの海草を運んできた。あ
の喇叭に似ているのもやはり法螺貝というの
であろうか? この砂の中に隠れているのは
浅蜊という貝に違いない。……
 保吉の享楽は壮大だった。けれどもこうい
う享楽の中にも多少∵の寂しさのなかった訳
ではない。彼は従来海の色を青いものと信じ
ていた。両国の「大平」に売っている月耕や
年方の錦絵をはじめ、当時流行の石版画の海
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はいずれも同じようにまっ青だった。殊に縁
日の「からくり」の見せる黄海の海戦の光景
などは黄海というのにも関わらず、毒々しい
ほど青い浪に白い浪がしらを躍らせていた。
しかし目前の海の色は――なるほど目前の海
の色も沖だけは青あおと煙っている。が、渚
に近い海は少しも青い色を帯びていない。正
にぬかるみのたまり水と選ぶところのない泥
色をしている。いや、ぬかるみのたまり水よ
りもいっそう鮮やかな代赭色(たいしゃい 
ろ)をしている。彼はこの代赭色(たいしゃ
いろ)の海に予期を裏切られた寂しさを感じ
た。しかしまた同時に勇敢にも残酷な現実を
承認した。海を青いと考えるのは沖だけ見た
大人の誤りである。これは誰でも彼のように
海水浴をしさえすれば、異存のない真理に違
いない。海は実は代赭色(たいしゃいろ)を
している。バケツの錆に似た代赭色(たいし
ゃいろ)をしている。
 三十年前の保吉の態度は三十年後の保吉に
もそのまま当て嵌まる態度である。代赭色(
たいしゃいろ)の海を承認するのは一刻も早
いのに越したことはない。かつまたこの代赭
色(たいしゃいろ)の海を青い海に変えよう
とするのは所詮徒労に畢るだけである。それ
よりも代赭色(たいしゃいろ)の海の渚に美
しい貝を発見しよう。海もそのうちには沖の
ように一面に青あおとなるかも知れない。 
が、将来に憧れるよりもむしろ現在に安住し
よう。――保吉は預言者的精神に富んだ二、
三の友人を尊敬しながら、しかもなお心の一
番底にはあいかわらずひとりこう思っている

 大森の海から帰った後、母はどこかへ行っ
た帰りに「日本昔噺」の中にある「浦島太郎
」を買ってきてくれた。こういうお伽噺を読
んで貰うことの楽しみだったのはもちろんで
ある。が、彼はその外にももう一つ楽しみを
持ち合わせていた。それはあり合わせの水絵
の具に一々挿絵を彩ることだった。彼はこの
「浦島∵太郎」にもさっそく彩色を加えるこ
とにした。「浦島太郎」は一冊の中に十ばか
りの挿絵を含んでいる。彼はまず浦島太郎の
籠宮(りゅうぐう)を去るの図を彩りはじめ
た。籠(りゅう)宮は緑の屋根亙(がわら)
に赤い柱のある宮殿である。乙姫は――彼は
ちょっと考えた後、乙姫もやはり衣裳だけは
一面に赤い色を塗ることにした。浦島太郎は
考えずとも好い。漁夫の着物は濃い藍色、腰
蓑は薄い黄色である。ただ細い釣り竿にずっ
と黄色をなするのは存外彼にはむずかしかっ
た。蓑亀も毛だけを緑に塗るのはなかなかな
まやさしい仕事ではない。最後に海は代赭色
(たいしゃいろ)である。バケツの錆に似た
代赭色(たいしゃいろ)である。――保吉は
こういう色彩の調和に芸術家らしい満足を感
じた。殊に乙姫や浦島太郎の顔へ薄赤い色を
加えたのは頗る生動の趣でも伝えたもののよ
うに信じていた。
 保吉はそうそう母のところへ彼の作品を見
せに行った。何か縫いものをしていた母は老
眼鏡の額越しに挿絵の彩色へ目を移した。彼
は当然母の口から褒め言葉の出るのを予期し
ていた。しかし母はこの彩色にも彼ほど感心
しないらしかった。
「海の色はおかしいねえ。なぜ青い色に塗ら
なかったの?」
「だって海はこういう色なんだもの。」
「代赭色(たいしゃいろ)の海なんぞあるも
のかね。」
「大森の海は代赭色(たいしゃいろ)じゃな
いの?」
「大森の海だってまっ青だあね。」
「ううん、ちょうどこんな色をしていた。」
 母は彼の強情さ加減に驚嘆を交えた微笑を
洩らした。が、どんなに説明しても、――い
や、癇癪を起こして彼の「浦島太郎」を引き
裂いた後でさえ、この疑う余地のない代赭色
(たいしゃいろ)の海だけは信じなかった。
……

(芥川龍之介「少年」)