1.
保吉の海を知ったのは五
歳か六
歳の
頃である。もっとも海とはいうものの、万里の大洋を知ったのではない。ただ大森の海岸に
狭苦しい東京湾を知ったのである。しかし
狭苦しい東京湾も当時の
保吉には
驚異だった。
奈良朝の歌人は海に寄せる
恋を「大船の
香取の海に
碇おろしいかなる人かもの思わざらん」と歌った。
保吉はもちろん
恋も知らず、万葉集の歌などというものはなおさら一つも知らなかった。が、日の光に
煙った海の何か
妙にもの悲しい
神秘を感じさせたのは事実である。
彼は海へ張り出した
葭簾張りの茶屋の手すりにいつまでも海を
眺めつづけた。海は白じろと
赫いた
帆かけ船を何
艘も
浮かべている。長い
煙を空へ引いた二本のマストの汽船も
浮かべている。
翼の長い一群の
鴎はちょうど
猫のように
啼きかわしながら、海面を
斜めに飛んで行った。あの船や
鴎はどこから来、どこへ行ってしまうのであろう? 海はただ
幾重かの
海苔粗朶の向こうに青あおと
煙っているばかりである。……
2. けれども海の不可思議をいっそう
鮮やかに感じたのは
裸になった父や
叔父と遠浅の
渚へ下りた時である。
保吉は初め
砂の上へ静かに寄せてくるさざ波を
怖れた。が、それは父や
叔父と海の中へはいりかけたほんの二、三分の感情だった。その後の
彼はさざ波はもちろん、あらゆる海の幸を
享楽した。茶屋の手すりに
眺めていた海はどこか見知らぬ顔のように、
珍しいと同時に無気味だった。
――しかし
干潟に立って見る海は大きい
玩具箱と同じことである。
玩具箱!
彼は実際神のように海という世界を
玩具にした。
蟹や寄生貝は
眩い干潟を右往左往に歩いている。
浪は今
彼の前へ一ふさの海草を運んできた。あの
喇叭に似ているのもやはり
法螺貝というのであろうか? この
砂の中に
隠れているのは
浅蜊という貝に
違いない。……
3.
保吉の
享楽は
壮大だった。けれどもこういう
享楽の中にも多少∵の
寂しさのなかった
訳ではない。
彼は
従来海の色を青いものと信じていた。両国の「大平」に売っている月耕や年方の
錦絵をはじめ、当時流行の石版画の海はいずれも同じようにまっ青だった。
殊に縁日の「からくり」の見せる黄海の海戦の光景などは黄海というのにも関わらず、毒々しいほど青い
浪に白い
浪がしらを
躍らせていた。しかし目前の海の色は
――なるほど目前の海の色も
沖だけは青あおと
煙っている。が、
渚に近い海は少しも青い色を帯びていない。正にぬかるみのたまり水と選ぶところのない
泥色をしている。いや、ぬかるみのたまり水よりもいっそう
鮮やかな
代赭色をしている。
彼はこの
代赭色の海に予期を
裏切られた
寂しさを感じた。しかしまた同時に
勇敢にも
残酷な現実を
承認した。海を青いと考えるのは
沖だけ見た大人の
誤りである。これは
誰でも
彼のように海水浴をしさえすれば、
異存のない真理に
違いない。海は実は
代赭色をしている。バケツの
錆に似た
代赭色をしている。
4. 三十年前の
保吉の態度は三十年後の
保吉にもそのまま
当て嵌まる態度である。
代赭色の海を
承認するのは
一刻も早いのに
越したことはない。かつまたこの
代赭色の海を青い海に変えようとするのは
所詮徒労に
畢るだけである。それよりも
代赭色の海の
渚に美しい貝を発見しよう。海もそのうちには
沖のように一面に青あおとなるかも知れない。が、
将来に
憧れるよりもむしろ現在に安住しよう。
――保吉は預言者的精神に富んだ二、三の友人を
尊敬しながら、しかもなお心の一番底にはあいかわらずひとりこう思っている。
5. 大森の海から帰った後、母はどこかへ行った帰りに「日本昔
噺」の中にある「
浦島太郎」を買ってきてくれた。こういう
お伽噺を読んで
貰うことの楽しみだったのはもちろんである。が、
彼はその外にももう一つ楽しみを持ち合わせていた。それはあり合わせの水絵の具に一々
挿絵を
彩ることだった。
彼はこの「
浦島∵
太郎」にもさっそく
彩色を加えることにした。「
浦島太郎」は一
冊の中に十ばかりの
挿絵を
含んでいる。
彼はまず
浦島太郎の
籠宮を去るの図を
彩りはじめた。
籠宮は緑の屋根
亙に赤い柱のある
宮殿である。
乙姫は
――彼はちょっと考えた後、
乙姫もやはり
衣裳だけは一面に赤い色を
塗ることにした。
浦島太郎は考えずとも好い。漁夫の着物は
濃い藍色、
腰蓑は
薄い黄色である。ただ細い
釣り竿にずっと黄色をなするのは
存外彼にはむずかしかった。
蓑亀も毛だけを緑に
塗るのはなかなかなまやさしい仕事ではない。最後に海は
代赭色である。バケツの
錆に似た
代赭色である。
――保吉はこういう
色彩の調和に芸術家らしい満足を感じた。
殊に乙姫や
浦島太郎の顔へ
薄赤い色を加えたのは
頗る生動の
趣でも伝えたもののように信じていた。
6.
保吉はそうそう母のところへ
彼の作品を見せに行った。何か
縫いものをしていた母は老眼鏡の額
越しに
挿絵の
彩色へ目を移した。
彼は当然母の口から
褒め言葉の出るのを予期していた。しかし母はこの
彩色にも
彼ほど感心しないらしかった。
7.「海の色はおかしいねえ。なぜ青い色に
塗らなかったの?」
8.「だって海はこういう色なんだもの。」
9.「
代赭色の海なんぞあるものかね。」
10.「大森の海は
代赭色じゃないの?」
11.「大森の海だってまっ青だあね。」
12.「ううん、ちょうどこんな色をしていた。」
13. 母は
彼の強情さ加減に
驚嘆を交えた
微笑を
洩らした。が、どんなに説明しても、
――いや、
癇癪を起こして
彼の「
浦島太郎」を
引き裂いた後でさえ、この
疑う余地のない
代赭色の海だけは信じなかった。……
14.(
芥川龍之介「少年」)