1. 【1】まず第一に必要な「自由化」は「完全主義からの自由」である。いうまでもなく、コミュニケーションにとっていちばん大事なのは、相手を理解しようとする努力である。【2】相手の話し言葉が不十分であることを責めていたのでは、コミュニケーションは成立しない。とりわけ、母国語以外の言語を話すときに、その言語を完全に
操ることなど、常識的に考えてみても、
誰にもできるはずはない。【3】事実、一つの言語が多くの人々によって使用される条件、あるいは一つの言語が「世界語」になりうる条件は、その言語がどれだけ
柔軟性を持っているか、そして不完全な部分を許容し、
補完することができるか、にかかっているのである。
2. 【4】実際「英語」がこれだけ世界的に
普及したのも、この言語が一つの民族の「
専用語」としての
閉鎖性をいつのまにか開放して、かなり
怪しげな「英語」をも許容し、意味が通じればよい、という実用主義に
徹したからなのではないか。【5】国際会議などでさまざまな
国籍の人々が使っている「英語」がいかに多様で
奇怪なものであるかを思い出すだけでもそのことは明らかだ。
3. そんなことを考えながら、たまたま在日外国人のために発行されている日本語の
雑誌を読んでいたら、「日本語の失敗」という特集があって、こんな事例が
紹介されていた。【6】その外国人は「
私は母親にいつもおそわっています」というべきところを、「
私は母親にいつもおそわれています」と言い
間違えて、
聴衆から笑われた、というのである。確かに、「おそわる」と「おそわれる」との間には大きな意味の
違いがある。【7】物事は
間違わないにこしたことはない。しかし、話を聞いていれば、その言語的文脈と社会的文脈から、
彼が本当は「おそわる」と言いたかったに
違いない、ということは
誰にでも
推測できるはずである。【8】この場合、コミュニケーション上の問題を生んだのは、話し手であるこの外国人の責任というよりは、文脈上
簡単に
推測できる言葉に、
厳密な正確さを求めた日本人の側にあるのではないか、と
私は思った。【9】このような少しの
間違いを問題にして、相手を笑うというのでは「日本語」が「世界性」を持つ言語になることはかなりむずかしいのではないのだろうか。「国際化」の進行にともなって、このような「さまざま∵な日本語」がわれわれの周辺でしばしば発生するようになってきている。【0】とりわけ東京の都心部などでは、電車に乗っても、街を歩いていても、多くの外国人がそれぞれに「日本語」を
操っている風景を見かける。そこでは、かなりたどたどしい「日本語」が使用されているけれども、
別段日常的な生活にはこと欠かない。十分意志は通じるのである。コミュニケーションというのは、おおむねこんな性質のものなのであって、
お互いに常識的な
推論によって、およその見当がつけばそれでよいのである。
4. (
加藤英俊監修・国際交流基金日本語国際センター編『日本語の開国』(TBSブリタニカ))