1. 【1】「一を聞いて十を知る」
2. 十のうちの一を聞いただけで全体を知る。つまり、
賢いことを意味している。まるで日本の格言のようになってしまっているが、じつは「
論語」に記された言葉である。弟子である顔回の
聡明さを、師の
孔子がそう評したのだ。
3. 【2】だが、ぼくはこの言葉こそ、日本文化の性格を
端的に言い当てた表現とみなす。と言っても、日本人が無条件に
賢い、というわけではない。日本人の発想形式を、この言葉が見事に言い当てている、というのである。どのように?
4. 【3】日本人は多弁や説明を
嫌う。日本の詩を代表する
俳句をみれば、それがよくわかろう。たった十七文字で詩的世界を表現しよう、などという文学の形は、世界のどこを
探してもない。このような形式が成立するところに、「一を聞いて十を知る」日本的性格が
遺憾なく示されているではないか。
5. 【4】日本的風土からもっとも遠いのは、おそらく
砂漠地帯だろう。
湿潤で四季に
恵まれた日本とは正反対の
乾ききった広大な
砂の世界。ぼくは、その
砂漠へ何度となく足を
踏み入れた。そして、その都度、あらためて日本的風土を強く意識することになった。
6. 【5】ある夏。オアシスでの午後のこと。真昼の、
悪魔のような太陽を
避けて、わずかなナツメ
椰子の
木陰に身を寄せて横になった。 ぼくは
退屈しのぎに、日本から持ってきた文庫本のページを
繰っていた。そんなぼくの
姿をめざとく見つけて、トゥアレグ人がやってきた。【6】
彼らも時間をもてあましていたのである。
7.「それは何だ? コーランか」と、そのうちの一人が聞いた。
8.「いや、日本の、有名な詩人の詩集だよ」と、ぼくは答えた。ぼくが手にしていたのは「
芭蕉俳句集」だったのである。【7】日本とまったくちがった風土で、日本を感じさせるものを読むのが、ぼく流の旅の仕方なのだ。
9.「ほう、どんな詩かね」と、もう一人が聞いた。
10.
彼らはフランス語と
片言の英語をしゃべる。ぼくは弱った。【8】が、無理をして「古池や
蛙飛びこむ水のおと」を、なんとか
訳し∵てやった。みな、うなずいた。どうやら通じたのだ。
11. しかし、そのあとがいけなかった。というのは、「それで?」と目を
輝かせて、
彼らはつづきを待っていたからである。
12.【9】「それだけさ」と、ぼくは言った。だが、
彼らは
納得しない。
蛙が水に
飛び込んで水音がした、ということは
了解したのだが、
彼らにしてみれば、それはたんなる事実にすぎず、詩などとは、とうてい受けとれないからである。【0】(中略)
13. なにも、サハラの
奥だけではあるまい。たぶん、世界中どこへいっても、こうした
芭蕉の句は同じような反応を引き起こすことだろう。なぜなら、ほとんどの民族は、十の説明から一つのものを導き出す、というのが
普通なのだから。(中略)
14. これは
俳句にかぎったことではない。日本的会話、日本的
論議、すべてにわたって言えることだ。そこで、日本人は一を言って、相手に十の理解を求めることになる。
15. だが、世界は、こうした日本的な直感的思考とは、ほど遠いところにある。それなのに、グローバル・コミュニケーション時代のいまに
至ってもなお、日本人は直感形式のコミュニケーションですませようとしてしまう。
16. 重ねて言うが、
西欧はじめ、日本以外の文化
圏では、「一を聞いて十を知る」ではなく、「十を聞いて一を知る」のである。それは、理解力が足りない、ということではない。人間同士の関係において、それだけ「十分な説明」が重要
視されている、ということなのだ。
17. 言葉をつくして、自分の考えを相手に理解させ、相手からも十分な言葉によって情報を得る。それが日本以外の、世界のルールである。この点で、日本はたしかに「
異質」だと言える。では、どうすべきか。
18. 日本人が説明上手になるしかない。いままで一ですませてきたものを、十の言葉で説明して相手に理解させることだ。言葉の
壁は、こうした文化的
背景の
違いにある。だから、ぼくたちがどれだけそうした
差異を自覚して相手に接するか、ということにつきよう。
19.(森本
哲郎『この言葉!』)