長文集  3月1週  ○本について  he2-03-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2010/10/18 17:22:28
 【1】本について語られる言葉のおおくに
は、少なからぬうそがあります。だれもが本
についてはずいぶんとうそをつきます。忘れ
られない本があるというようなことを言いま
す。一度読んだら忘れられない、一生心にの
こる、というほめ言葉をつかいます。【2】
こんないんちきな話はありません。人間は忘
れます。だれだろう と、読んだ本をかたっ
ぱしから忘れてゆく。中身をぜんぶ忘れる。
読んでしばらく経ってから、これは読んだっ
けかなあというような本のほうがずっとたく
さんあるはずです。
 【3】本の文化をなりたたせてきたのは、
じつは、この忘れるちからです。忘れられな
い本というものはありません。読んだら忘れ
てしまえるというのが、本のもっているもっ
とも優れたちからで す。べつに人間が呆け
るからではないのです。【4】読んでも忘れ
る。忘れるがゆえにもう一回読むことができ
る。そのように再読できるというのが本のも
っているちからです。
 ですから、再読することができる、本は読
んでも忘れることができる、忘れたらもう一
回読めばいいという文化なのです。【5】ま
た忘れたらさらにもう一回読めばいい。本と
いうのは読み終わったら終わりではないので
す。図書館という大きな建物があって、図書
館には本があるのは、一回読んだらあとは捨
てるためにあるわけではありません。【6】
読んでも読んでも忘れる人間のために取って
おくしかないから、図書館は必要なのです。
 そうすると、本の文化というものを自分の
なかに新鮮にたもってゆくために、つねに必
要なことは、そういう再読のチャンスを自分
で自分にあたえてやる、ということです。【
7】あの本をまた読もうかなと思いだしたと
きに、読む。読んで忘れた本に再読のチャン
スを自分であたえることで、読書という経験
を、自分のなかで、絶えず新しい経験にして
ゆくことができる。
 正月がくるたび、ある本を読むと決める。
【8】それだけでも、心の置きどころができ
るのが、本です。たとえば、教会というの 
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は、聖書という本のある場所のことです。教
会に行って、聖書を開いて、読む。毎回読む
。何度もまた読む。毎日曜日、教会に行っ 
て、何度も何度も読んだ聖書をまた開いて読
んでゆく。【9】再読という習∵慣がもっと
も大切な行為として、信仰のなかにたもたれ
ています。
 再読は、忘却とのたたかい方でもあれば、
必要な言葉を自分にとりもどす方法でもある
のです。【0】本の文化を自分のものにでき
るかどうかの重要な分かれ目は、その再読の
チャンスを自分のなかに、生活のなかに、日
常のなかに、自分の習慣として、人生の習慣
としてそれをつくってゆくことができるかど
うかだと思うのです。
 生まれたところから離れて暮らして、その
あと過ごしたところの方がずっと長くなって
も、生まれたところに対して、ずっと故郷と
いう愛着をもちつづけるように、親しんだ本
を再読するときには、そこに帰郷したような
感覚をもちます。たとえまったく覚えていな
くても、しかしこれは自分が呼吸した空気で
あるということを、よみがえらせてくれる本
があります。そういう本の記憶をどれだけ自
分のなかにもっているかいないかで、自分の
時間のゆたかさはまるで変わってきます。
 本の文化は、技術の文化のように、新しさ
や最先端がすべてではありません。今ある時
間にむきあえるもう一つの言葉をもつことが
できなければ、そのもう一つの言葉の側から
今という時間を新しく読みなおしてゆくとい
うことはむずかしいし、そのためにたずねら
れなければならないのは、もう一つの言葉を
もつ、自分にとっての友人としての本という
、本のあり方です。どの本がよい、というの
ではなく、本が自分の友人としてそこにある
というあり方を、自分たちの時間のなかにつ
くってゆく方法を育んでゆくということが、
今、わたしたちにはとても大事ではないでし
ょうか。

(長田弘『読書からはじまる』)