長文集  3月3週  ★(感)考えることが  he2-03-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:22
 【1】考えることが得意でない風に見える
人々がいる。たとえばほとんど口をきかず、
毎日にこにこと店でトンカツばかり揚げてい
るようなおやじは、そう見えるかもしれない
。しかし、このおやじのトンカツがとびきり
うまいとしたら、この人ほどものを考えてい
る人間は少ないかも知れない。【2】とりあ
えずは、そう仮定しておく必要がある。私た
ちは、こういう人の存在に実に鈍感になっ 
た。鈍感になって、いつもひりひりとした自
負心、嫉妬、焦燥、退屈にさいなまれるよう
になった。【3】誰もかれもが、得体の知れ
ないこの時代にともかくも遅れまいとし、遅
れていない外見を作ることに忙しくなった。
それで私たちは、一体何を考えているのだろ
う。
 トンカツ屋のおやじは、豚肉の性質につい
て、油の温度やパン粉の付き具合についてず
いぶん考えているに違いない。【4】いや、
この人のトンカツが、こうまでうまいからに
は、その考えは常人の及ばない驚くべき地点
に達している可能性が大いにある。このこと
を怖(おそ)れよ。この怖(おそ)れこそ、
大事なものである。
 むろん、私はうまいトンカツの重要性につ
いて述べているのではない。【5】では、何
の重要性について述べているのか。それを簡
単に言うことは、どうも大変難しい。けれど
も、大事なことはみ な、このように難しい
のである。だから、トンカツ屋のおやじは黙
ってトンカツを揚げている。【6】彼は学問
を軽んじているので も、思想を軽蔑してい
るのでもない。ただ、彼は自分の仕事が出会
ういろいろなものの抵抗で、それらの抵抗を
克服する工夫で、いつも心をいっぱいに満た
しているから、余計なことを考える暇も必要
もないのである。【7】こういう男のトンカ
ツが、いつのまにか万人の舌を説得している
、このことにこそ人間の大事があると、私は
思っているに過ぎない。
 ここに中学生の男の子がいるとしよう。こ
の子は、学校の勉強以外、学ぶということを
一切したことがない。【8】したがって、ト
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ンカツ屋のおやじを怖(おそ)れるだけの知
恵がない。だから、怖(おそ)れ気もなくこ
∵う尋ねる。おじさん、なぜ人を殺してはい
けないの? おやじは、まずこんな質問には
耳を貸さないだろう。じゃまだから、あっち
に行ってろと言うだけだろう。【9】それで
おしまいである。何の騒ぎも起こらない。こ
の子が中学を出て、高校などには行かず、ト
ンカツ屋のおやじのところに見習いに入った
としよう。そこで、同じ質問をする。お前は
見込みがないから、ほかで仕事を探せと言わ
れるだろう。【0】しかし、このおやじがも
っと親切なら、見習い坊主は張り倒される。
それでおしまいであ る。
 怖(おそ)れのないところに、学ぶという
行為は成り立たない。遊びながら楽しく学ぶ
やり方は、元来幼稚園の発明だが、今の日本
の学校はそれが大学まで普及し尽くしてしま
った。日本だけではなかろう。二十歳を過ぎ
てもまだ遊んでいる人間が数えきれずいる国
では、やがてそういうことになる。遊ぶこと
と学ぶこととが、どう違うのかわからない。
子供たちは何も怖くないから、勝手に教室を
歩き回るようになる。
 怖(おそ)れることができるには、自分よ
りけた外れに大きなものを察知する知恵がい
る。ところが、このけた外れに大きなもの 
は、けたが外れているが故に、寝そべってい
る人間の眼には見えにくい。見習い坊主もま
た、パン粉を付けてみるしかない。それは、
初めちっとも面白い仕事ではないだろう。怖
(おそ)れる知恵がまだ育っていない者に、
心底面白い仕事などあるわけがない。だが、
知恵は育つのだ。豚肉やパン粉があり、怖い
おやじがいる限りは。

(前田英樹『倫理という力』)