長文 1.1週
1. 【1】まず第一に必要な「自由化」は「完全主義からの自由」である。いうまでもなく、コミュニケーションにとっていちばん大事なのは、相手を理解しようとする努力である。【2】相手の話し言葉が不十分であることを責めていたのでは、コミュニケーションは成立しない。とりわけ、母国語以外の言語を話すときに、その言語を完全に
操ることなど、常識的に考えてみても、
誰にもできるはずはない。【3】事実、一つの言語が多くの人々によって使用される条件、あるいは一つの言語が「世界語」になりうる条件は、その言語がどれだけ
柔軟性を持っているか、そして不完全な部分を許容し、
補完することができるか、にかかっているのである。
2. 【4】実際「英語」がこれだけ世界的に
普及したのも、この言語が一つの民族の「
専用語」としての
閉鎖性をいつのまにか開放して、かなり
怪しげな「英語」をも許容し、意味が通じればよい、という実用主義に
徹したからなのではないか。【5】国際会議などでさまざまな
国籍の人々が使っている「英語」がいかに多様で
奇怪なものであるかを思い出すだけでもそのことは明らかだ。
3. そんなことを考えながら、たまたま在日外国人のために発行されている日本語の
雑誌を読んでいたら、「日本語の失敗」という特集があって、こんな事例が
紹介されていた。【6】その外国人は「
私は母親にいつもおそわっています」というべきところを、「
私は母親にいつもおそわれています」と言い
間違えて、
聴衆から笑われた、というのである。確かに、「おそわる」と「おそわれる」との間には大きな意味の
違いがある。【7】物事は
間違わないにこしたことはない。しかし、話を聞いていれば、その言語的文脈と社会的文脈から、
彼が本当は「おそわる」と言いたかったに
違いない、ということは
誰にでも
推測できるはずである。【8】この場合、コミュニケーション上の問題を生んだのは、話し手であるこの外国人の責任というよりは、文脈上
簡単に
推測できる言葉に、
厳密な正確さを求めた日本人の側にあるのではないか、と
私は思った。【9】このような少しの
間違いを問題にして、相手を笑うというのでは「日本語」が「世界性」を持つ言語になることはかなりむずかしいのではないのだろうか。「国際化」の進行にともなって、このような「さまざま∵な日本語」がわれわれの周辺でしばしば発生するようになってきている。【0】とりわけ東京の都心部などでは、電車に乗っても、街を歩いていても、多くの外国人がそれぞれに「日本語」を
操っている風景を見かける。そこでは、かなりたどたどしい「日本語」が使用されているけれども、
別段日常的な生活にはこと欠かない。十分意志は通じるのである。コミュニケーションというのは、おおむねこんな性質のものなのであって、
お互いに常識的な
推論によって、およその見当がつけばそれでよいのである。
4. (
加藤英俊監修・国際交流基金日本語国際センター編『日本語の開国』(TBSブリタニカ))
長文 1.2週
1. 【1】また人に好かれる人は、他人に対してもよいイメージを
抱くことに心がけながら交際していきます。相手に対して悪いイメージを
抱きつづけると、
潜在意識はイメージ通りに反応していくことはご承知のとおりです。【2】それは同時に、自分にとっても悪い現象がおこることをよく知っているからです。
2. わたしたち人間は、
嫌な人に対しては決してよいイメージを
抱いてはいません。それと反対に、好ましい人にはよいイメージを持っていることに気づきます。【3】男女間の
恋人同士を見ればよくわかるでしょう。顔のあばたもえくぼに見えてくるのです。
3. ところが、自分の
抱いている悪いイメージによって、その人が
嫌いになっているということに気づかないのです。【4】そして、いつまでも悪いイメージを持ちつづけて、結局は何一つ得にならないばかりか、損ばかりしていることになるのです。
4. このイメージも、
創造的に活用することが大事です。【5】相手の長所にだけ目をむけるように、イメージ作りをしていけば、好きだった人はますます好きになり、きらいだった人とも次第にうちとけ合うようになります。
5. 人に好かれる大きな
魅力は、
利己的でなく利他的であるということです。【6】自分の利益より他人の利益を先にすることをまず考え、
奉仕の精神で他人に接するように心がけることです。そして
困っている人を見れば、すすんで力を貸してあげるのです。
6. この心得が、
お釈迦さまのいう「功徳」をつむことにつながるものと、わたしは考えています。【7】自分の利益を先にして、相手に恩を売るのは、決して功徳にはなりません。
7. キリストの言葉に「
与えよ、さらば
与えられん」と説いているのも、単に
ギブ・アンド・テークの打算的な考えではなく、功徳と同じ深い内容の意味を持っているものと思います。
8. 【8】人間はとかく打算に走りやすく、自分の利益につながらないことはしたがりません。また、他人に何かをしてやる場合でも、必ずその見返りを期待しています。その見返りが多い少ないで、争いがおこります。【9】このように、目さきの損得ばかりを考えて行動していくと、
優劣を意識する場合と同じように、必ずさまざまな
破壊的現象がおこります。∵
9.
釈迦やキリストのような人類の
聖人と
呼ばれる人は、そんなことは遠の昔にお見通しです。【0】その上でわたしたちに、「
与えること」のほんとうの意味を説いているのです。損や得をぬきにして、
純粋な心で他人にほどこせば、本人は気分がさわやかであるばかりか、相手からも感謝され、その恩はいつかきっと返ってくる。もし仮に相手が
忘れたとしても、よそから必ず何倍にもなって返ってくる。その上功徳をつめば、それだけ人間の徳は高くなるという、高遠な因果の教えを説いているのです。
10. 集団生活をしていて、わたしたちが
生涯に出会うことのできる人の数はかぎられています。それだけ人生における出会い(
縁)というものは大切なものです。特に友だちと名のつく人は、
生涯掛けがえのない
存在です。フランスの作家ロマン=ロラン(一八六六〜一九四四)は、このことを次のようにいっています。
11.「わたしは世界に二つの
宝を持っている。わたしの友とわたしの
魂と」
12. またゲーテは、次のようにいっています。
13.「空気と光と、そして友だちの愛、これだけが残っていれば、気をおとすことはない」
14. わたしたちが一生を通じて得られる友だちの中で、
生涯の友が得られるのは、
若い年代の時といいます。みなさんも、この絶好の黄金の時期を決して無にしないように、今まで述べてきたことをよく理解し、積極的に活用して下さい。
15.(
百瀬昭次 『君たちは
偉大だ』)
長文 1.3週
1. 【1】物の命と人間の心が結び合って一つになる。
我の強い人には友達ができがたいように、おたがいの心が結び合ってこそ友人になるのである。【2】
河井寛次郎先生が、物を自分や友人に見立てて「物を買って来る、自分を買って来る」とか、物を親しい友人として「自分の家に連れて来る」というように表現されていたことを思い出すのである。そのように考えると、美しい物は何か人の心に
与えるものを持っている。【3】したがって、物と心が結び合う時、自分の水準が高められる。それゆえ、美を味得する道は人によって
違うのである。
一般的に、生まれながら
情操的な人と理知的な人があるように、
誰でも同じようにはいかないが、
情操的な人ほど友人が多くできるように、美しい物との出会いは多い。【4】そういう人ほど直感力が強いといえる。
2. さて、この直感力を強くする道は、修業によらなければならないが、
柳先生は参考として役に立つ二つの実際的方法を
示唆して、練習の資に
供したいと言われている。一つは標準法で、他は
擬人法である。【5】物は程度の差はあっても、いろいろな条件によってそれぞれ
異なっているもので、作った人の性質、
境遇、意志、取りあつかい方などが直接できあがった物に
影響してくる。これは人間性の
反映である。それゆえ人間と同じように見ていくことはその理解を早める一つの道である。【6】例えば、工芸品の一つを例として取り上げると、色とか
模様とかデザインなどが
派手にすぎていたら、ぜいたくな人間の性質と同じように見えるだろう。ぜいたくという言葉は道徳の世界から見れば、必ずしも
善ではないし、
華美というものと真の美とはどうしても反発する
傾向がある。
3. 【7】今度は別に
装飾はなくても、落着いた形、確実な材料や機能、おだやかな色調などを見る時、かざり気のない実直な人のほうがどれだけ人に
信頼されるかということに通じる。物としても、そのような人に通じるものがあることを考えないわけにはいかない。物としてもそのような美しさを持っている物があるといえよう。【8】また細々とやせて、きゃしゃな形を見ると、やはりそれは健康体とはいえない。(中略)
4. また例えばそまつな材料や、
粗雑な仕事でありながら、上っ面ば∵かりよく見せかけていても、その仕事やそれを作る人間のようなうそのある物とは、共に
暮す気持にはなれないのが
普通である。【9】どんな人間が信用できるか、また
頼りになるか、友達として長く付き合えるかというように、物にも一様の道徳観がある。一時はだまされても、不道徳な人や物は、はっきりわかってしまえば、どうなるか考えなくてもわかる。【0】これを見ぬく見識は、真に美しい物を常に求めている者が持てるのである。
5. また、気品のある物、品格のある物、着実な物、健康な物、温かみのある物、うるおいのある物、深味のある物、静けさのある物、こういう性質のある物は、美しさに結びつきやすい
縁を持つといえる。ただ注意すべきは人間の世界にごまかしが多過ぎるように、物の場合にもよくあることである。これは
巧みに
技巧をこらした物、器用さで作った物など、その
作為にごまかされて、それを美しさと
誤認する場合が多い。
技巧と美、器用と美の混同される場合も多いが、これらと
一緒に
暮している間には、いつかボロが出て来て必ずいやになるものである。これは、結局はごまかし物ということになる。これに反して不器用でも実直な物、田舎くさくても、
素朴でも着実な物の
価値を
忘れてはいけない。
6. 愛され、
尊敬される人間と同じで、それを早く見ぬくことが大切である。このように、見かけの美しさと真の美しさとはちがうもので、これを人間に例えて考える判定の仕方が
擬人法である。
7.(池田
三四郎『美しさについて』)
長文 1.4週
1. 【1】
釈迦、キリスト、ソクラテス、
孔子等の語録を読んでだれでも気づくことは、その多くが対話の形式をとっているということである。とくにプラトンの
著作はすべて対話編と
呼ばれているように対話が中心になっているが、経文も
論語も、バイブルもその中には対話的要素が少なくない。【2】とくにプラトンの対話編をみると、
宗教、
哲学、文学などと分化しない以前の、そのいっさいが一つの生命において
把握されているそういう一種の原始性がある。現代ではあらゆるものが分化し、細分化されつつあるが、その以前の状態のもつ全人性といったものを
私は
尊重してきた。【3】ここに生ずる対話の精神は現在は
消滅したのではないかと
疑われる。
2.
私はきわめて初歩的な問題として提出したいのだが、読書とは要するに対話の精神の所産ではないかということである。ごく
簡単にいうと、つまり
疑問を持つということだ。【4】それがどんなに
幼稚なものであっても、人間が青春時代に達すると必ず人生や社会や、あるいは自分自身の
生存の仕方についてさまざまの
疑問を
抱く。
疑問を
抱き疑問を表現するということが考えるということの始まりなのであって、当然その
疑問に答える人を求めるわけである。【5】プラトンの対話編や、
孔子でも
釈迦でもソクラテスでも、その語録を読むと、すべて何ものかから
疑問を投げ
与えられ、それに対して答えるという形式をとっている例が多い。あるいは質問した人間に向かって逆に質問する。【6】それによってその人の
抱いている
疑問に明確なかたちを
与える。つまり問題の問題であるゆえんをはっきりさせるのだ。書物が
存在したとしても、まず現に生きている師に出会って、その師の口からの直接的な問答体によって「
自己」を発芽させる方法がとられたわけである。
3. 【7】さきに述べたようにプラトンは書物にあまり重きをおかなかったにもかかわらず多くの書物を書いたが、しかし
彼の本来の仕事はアカデミアにおける研究、あるいは弟子たちとの問答による教育という点に主眼がおかれていたわけで、書物そのものの
占める比重∵は、今日から考えるとかなり小さかったと思われる。【8】この状態を、書物に対してもできるだけ応用してみることを
私はすすめたいのである。もっともプラトンが
指摘したように、こちらで問いかけても書物というものは同じ言葉をくりかえすだけで何も答えてはくれない。【9】
疑問を
抱いて接しても、明確な答えが直ちに得られるとは限らない。
4. たしかに書物の限界にはちがいないが、だから書物は不用だということにはならない。この限界があるからこそ、逆に書物に対する
我々の無限の
探求が始まるわけである。【0】これは、田中
美知太郎氏も
指摘しておられる点で、プラトンの真意を知るためには、あらゆる種類の
解釈、考証、共同研究等が求続的に行われなければならなかったし、そのために読書力が深まった、と。
5. (
亀井勝一郎『読書
論』(
旺文社))
長文 2.1週
1. 【1】日本は、世界の中でもきわめて安全な社会だといわれています。国民一人あたりの犯罪発生率も低いですし、ふだんスリや置き引きの心配をせずに生活できます。ハンドバッグをいすにかけたり、カバンを電車の
網棚にのせたり、わきに置いたまま電話をかけたりといったことはあたりまえになっています。【2】こうしたことができるのは、もちろんたいへんいいことなのですが、ごみの
視点で見たときに、この安全度の高さが
困った問題の原因となっていることがあります。
2. それは自動
販売機の
普及です。安全な社会でなければ自動
販売機をだれも
監視していない所に置いておくことはできません。【3】日本では、ジュースなどの
清涼飲料からはじまって、酒、たばこ、週刊
誌から
乾電池にいたるまで、自動
販売機は、いたるところに見られます。
普及台数は全国で六百万台近く、国民二十人あたり一台の
割合になります。【4】これが安全についての日本の
特殊事情によることはいうまでもありません。
3. ところが問題もあります。自動
販売機はいつでも気軽に買えるために、
清涼飲料の消費が大きくのび、その結果ごみも増えることとなりました。【5】また、屋外で飲まれることが多いため、容器がどうしても
散乱することになります。道路わきや海岸、公園などに
散乱する
空き缶やペットボトルは、ごみ問題の一つの
象徴的
存在です。道徳心にうったえることも大切ですが、野放しの自動
販売機にも一考の余地がありそうです。
4. 【6】日本人は働きすぎだといわれます。しかし、現在は週休二日制などが導入され、また労働時間の
短縮もはかられていますから、これからは
余暇利用はますますさかんになるでしょう。その代表は観光です。そこで観光で生きていこうとする
地域では、どうすれば人が来てくれるか、
知恵をしぼることになります。
5. 【7】先日、
静岡県の
伊東観光協会から、「
伊東の観光のあり方を考える」というテーマで講演をたのまれたのを機会に、観光とはなんだろうか、人はなにを求めて観光地に行くのだろうか、観光客はどうすれば満ち足りた気分になるのだろうかと考えてみました。【8】そ∵の答えは一言でいえば、日常生活からの解放、つまりいつもとまったくちがう世界を楽しむということです。都会のオフィスで、毎日コンピュータとにらめっこしているサラリーマンにとって、人里はなれた
渓流でヤマメを
釣ること、【9】毎日食事のしたくにいそがしい主婦にとって、食事のしたくや後かたづけをせずに過ごせるということは、それだけでなんとなく豊かな気分になれます。
6. 【0】ところでごみですが、これは、
私たちが生活していくうえで、いつでもどこでもかならず出てくるものですから、日常性の
代名詞といってもいいものです。とすると、ごみが一つもない世界は、
私たちの日常生活とはまったくちがった世界だということです。観光地からいっさいのごみをなくせば、そのことがそこを
訪れた人の心をいつもとちがった
新鮮なおどろきで満たし、またそこへ行きたいという気持ちをおこさせることになるでしょう。
7. この原理を適用して大成功した観光地、それが東京ディズニーランドです。ここには自動
販売機は一台もありません。食べもの、飲みものの持ちこみも禁止されています。どこを見わたしても、ごみが一つも落ちていません。もしだれかがごみを
捨てたとすると、目にもとまらぬ速さで係員がちり取りに入れてしまいます。ちょうどウインブルドンのテニス世界
選手権で、ネットにかかったボールがすばやく取り去られるような要領です。
8. ミッキーマウスもシンデレラ
城も、確かに非日常の世界なのですが、ごみが
散乱していたのではたちまち日常の世界に引きもどされてしまいます。ごみはそれほど日常を強く意識させ、
私たちの日々の生活に深く結びついているのです。というわけで、
伊東の海岸にまた行ってみようという気持ちにさせるには、この方法を応用したらどうか、道徳心にうったえる方法とはまったく逆の、つまりごみをすばやく拾い、
砂浜にはごみが一つも落ちていないようにするという方法を考えてみたらどうかということを、お話したのです。
9. このように、ごみは社会を考える切り口をあたえてくれます。ごみから社会を見ていくと、社会の新しい面が見えてきます。ごみは
私たちの生活や社会と
表裏一体の関係にあるからです。
長文 2.2週
1. 【1】サラリーマンが仕事がおもしろくない。上役にしかられた、というようなことがあると、ほかの人のしていることがよさそうに思われる。自分のやっている仕事がいちばんつまらなそうだ。思い切ってやめてしまえ、となる。【2】商売変えしたところで、同じ人間がするのである。急に万事うまく行く道理がない。またおもしろくなくなる。すると、またも、ほかの人の職業がよさそうに見える。こういう人はいつまでたっても
腰が落ちつかない。
2. 【3】こういう例は世の中にごろごろしている。それなのに、相変わらず、同じことをくりかえす人があとからあとからあらわれる。めいめいの人にほかの人の経験が情報として整理されていないからである。整理されていないわけではない。【4】ちゃんと、ことわざという高度の定理化が行われているのにそれを知らないでいるためである。
3. たえず職業を変えるのは、
賢明でない。そのことは古くからはっきりしていた。「石の上にも三年」というのがそれである。【5】イギリスには、これを「ころがる石はコケ(お金)をつけない」と表現した。とにかく、じっと
我慢が必要だ、ということである。
4. 商売をする人、投機をする人は、ものの売り買いのタイミングを見きわめるのに身の細る思いをする。【6】もうよかろうと思って、売買をすると、早すぎる。それにこりて、こんどは満を持していると、好機を失ってしまう。もっと早く決断すればよかったと
後悔する。商売の人は、たえずこういう失敗を経験している。そのひとつひとつは複雑で、それぞれ事情は
違う。【7】ただ、タイミングのとりかたがいかに
難しいか、という点と、自分の判断が絶対的でないというところを法則化すると、「モウはマダなり、マダはモウなり」ということわざが生まれる。
5. 学校教育では、どういうものか、ことわざをバカにする。【8】ことわざを使うと、インテリではないように思われることがある。
6. しかし、実生活で苦労している人たちは、ことわざについての関心が大きい。現実の理解、判断の基準として有益だからである。ものを考えるに当たっても、ことわざをうまく利用すると、
簡単に
処理できる問題も少なくない。
7. 【9】現実に起こっているのは、具体的問題である。これはひとつひとつ
特殊な形をしているから、分類が
困難である。これをパターンにして、
一般化、記号化したのがことわざである。Aというサラリ∵ーマンの
腰が落ちつかず、つぎつぎ
勤めを変えている。【0】これだけでは、サラリーマン
一般、さらには、人間というものにそういう習性があって、その害が古くから
認められていることに思い
至るのは無理だろう。
8. これに「ころがる石はコケをつけない」というパターンをかぶせると、サラリーマンAも人間の習性によって行動していることがわかる。別に
珍しくもない、となる。
9. 具体例を
抽象化し、さらに、これを定型化したのが、ことわざの世界である。
庶民の
知恵である。古くから、どこの国においても、おびただしい数のことわざがあるのは、文字を用いない時代から、人間の思考の整理法は進んでいたことを物語る。
10. 個人の考えをまとめ、整理するに当たっても、人類が歴史の上で行なってきた、ことわざの
創作が参考になる。個々の経験、考えたことをそのままの形で記録、
保存しようとすれば、ごたごたしてわずらわしく、
片端から消えてしまい、後に残らない。
11.
一般化して、なるべく、
普遍性の高い形にまとめておくと、同類のものが、あとあとその形とうまく対応して、その形式を強化してくれる。
12.(
外山滋比古著「思考の整理学」)
長文 2.3週
1. 【1】「一を聞いて十を知る」
2. 十のうちの一を聞いただけで全体を知る。つまり、
賢いことを意味している。まるで日本の格言のようになってしまっているが、じつは「
論語」に記された言葉である。弟子である顔回の
聡明さを、師の
孔子がそう評したのだ。
3. 【2】だが、ぼくはこの言葉こそ、日本文化の性格を
端的に言い当てた表現とみなす。と言っても、日本人が無条件に
賢い、というわけではない。日本人の発想形式を、この言葉が見事に言い当てている、というのである。どのように?
4. 【3】日本人は多弁や説明を
嫌う。日本の詩を代表する
俳句をみれば、それがよくわかろう。たった十七文字で詩的世界を表現しよう、などという文学の形は、世界のどこを
探してもない。このような形式が成立するところに、「一を聞いて十を知る」日本的性格が
遺憾なく示されているではないか。
5. 【4】日本的風土からもっとも遠いのは、おそらく
砂漠地帯だろう。
湿潤で四季に
恵まれた日本とは正反対の
乾ききった広大な
砂の世界。ぼくは、その
砂漠へ何度となく足を
踏み入れた。そして、その都度、あらためて日本的風土を強く意識することになった。
6. 【5】ある夏。オアシスでの午後のこと。真昼の、
悪魔のような太陽を
避けて、わずかなナツメ
椰子の
木陰に身を寄せて横になった。 ぼくは
退屈しのぎに、日本から持ってきた文庫本のページを
繰っていた。そんなぼくの
姿をめざとく見つけて、トゥアレグ人がやってきた。【6】
彼らも時間をもてあましていたのである。
7.「それは何だ? コーランか」と、そのうちの一人が聞いた。
8.「いや、日本の、有名な詩人の詩集だよ」と、ぼくは答えた。ぼくが手にしていたのは「
芭蕉俳句集」だったのである。【7】日本とまったくちがった風土で、日本を感じさせるものを読むのが、ぼく流の旅の仕方なのだ。
9.「ほう、どんな詩かね」と、もう一人が聞いた。
10.
彼らはフランス語と
片言の英語をしゃべる。ぼくは弱った。【8】が、無理をして「古池や
蛙飛びこむ水のおと」を、なんとか
訳し∵てやった。みな、うなずいた。どうやら通じたのだ。
11. しかし、そのあとがいけなかった。というのは、「それで?」と目を
輝かせて、
彼らはつづきを待っていたからである。
12.【9】「それだけさ」と、ぼくは言った。だが、
彼らは
納得しない。
蛙が水に
飛び込んで水音がした、ということは
了解したのだが、
彼らにしてみれば、それはたんなる事実にすぎず、詩などとは、とうてい受けとれないからである。【0】(中略)
13. なにも、サハラの
奥だけではあるまい。たぶん、世界中どこへいっても、こうした
芭蕉の句は同じような反応を引き起こすことだろう。なぜなら、ほとんどの民族は、十の説明から一つのものを導き出す、というのが
普通なのだから。(中略)
14. これは
俳句にかぎったことではない。日本的会話、日本的
論議、すべてにわたって言えることだ。そこで、日本人は一を言って、相手に十の理解を求めることになる。
15. だが、世界は、こうした日本的な直感的思考とは、ほど遠いところにある。それなのに、グローバル・コミュニケーション時代のいまに
至ってもなお、日本人は直感形式のコミュニケーションですませようとしてしまう。
16. 重ねて言うが、
西欧はじめ、日本以外の文化
圏では、「一を聞いて十を知る」ではなく、「十を聞いて一を知る」のである。それは、理解力が足りない、ということではない。人間同士の関係において、それだけ「十分な説明」が重要
視されている、ということなのだ。
17. 言葉をつくして、自分の考えを相手に理解させ、相手からも十分な言葉によって情報を得る。それが日本以外の、世界のルールである。この点で、日本はたしかに「
異質」だと言える。では、どうすべきか。
18. 日本人が説明上手になるしかない。いままで一ですませてきたものを、十の言葉で説明して相手に理解させることだ。言葉の
壁は、こうした文化的
背景の
違いにある。だから、ぼくたちがどれだけそうした
差異を自覚して相手に接するか、ということにつきよう。
19.(森本
哲郎『この言葉!』)
長文 2.4週
1. 【1】
私が作曲家として
携わっているのは西洋音楽です。いわゆるクラシック音楽と
呼ばれ、
皆さんも
ご存知であろうバッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ショパン、ブラームス、ワーグナー、ドビュッシー、と続いてきた伝統があります。【2】
私はその線上に乗って、現代において作曲をしているわけです。クラシック音楽というと今や音楽の一ジャンルになっていますが、そもそもはヨーロッパにおいて、特に教会を中心として発達してきた、ある意味では非常にローカルな音楽なのです。【3】西洋という一
地域における民族音楽とも言えます。
2. とはいえ現在、西洋音楽はグローバルなものとして広まっています。なぜここまで世界的な音楽として成功したかというと、要因の一つには、五線紙というものに機能的に記録する形式を
獲得したことが大きく働いています。【4】「
楽譜を書く」という大原則が根本にあったために、数百年前の作品も残っているのです。これを
楽譜中心主義と言います。
3. たとえばこんな話があります。日本では音楽そのものを「ミュージック」と
訳していますが、西洋においてミュージックと言うと、まず頭の中にイメージするのは
楽譜なのです。【5】辞書を引いてみるとわかると思います。
欧米に行って、オーケストラや室内楽といった
創作する現場へ行くと、
4.「
俺のミュージック、どこかへいってしまったぞ。お前、今日ミュージック貸してよ」
5.といったふうに、日常の会話の中では「
楽譜」という意味でミュージックという言葉が使われています。
6. 【6】つまり、西洋音楽の
存在を
裏づけるもっとも重要な要素として、まず
楽譜(ミュージック)があるということです。
7. 西洋音楽を
楽譜中心主義という大原則のもとに、いくつかの要素に分けて
分析してみましょう。【7】まず
楽譜が中心にあって、それを音(サウンド)に
変換する人がいる。
演奏(パフォーマンス)する、
演奏家です。さらにその
演奏を
聴取(リスニング)する人、∵
聴衆がいます。以上は
楽譜から生み出される要素でした。
8. 【8】一方で、
楽譜からさかのぼるものもあります。いわば上流の部分には、その
楽譜を生み出す過程があります。その
楽譜を書く人の内にある何らかの音楽的要求、まずは
欲求と言ってもいいのかもしれませんが、そこから音楽が始まります。
9. 【9】つまり音楽によって何かを表現したいという
自己表現
欲求があって、それを自分の外部に、
楽譜という形式で、その音楽的要求(リクワィアメント)を固定する過程があるわけです。もうおわかりと思いますが、これが作曲(コンポジション)です。
10. 【0】以上の三つの過程が「作曲→
演奏→
聴取」と連続した図式(スキーマ)によって西洋音楽は成立しています。
私は作曲家ですから、最も上流の部分で自分の表現したいものがあり、それを
楽譜に固定する立場です。
演奏家がそれを音にして、
聴衆がそれを
聴く。このような
創造過程によって音楽が成り立っているわけです。
11. この図式は、建築とよく似ています。家を建てるプロセスを考えてみると分かりやすいかもしれません。建築家がまず設計図面を書く、大工さんがそれを建物にする、そしてそこに住む人がいる、というスキーマです。
12. (
茂木健一郎/
江村哲二『音楽を「考える」』(ちくまプリマー新書))
長文 3.1週
1. 【1】本について語られる言葉のおおくには、少なからぬうそがあります。だれもが本についてはずいぶんとうそをつきます。
忘れられない本があるというようなことを言います。一度読んだら
忘れられない、一生心にのこる、というほめ言葉をつかいます。【2】こんないんちきな話はありません。人間は
忘れます。だれだろうと、読んだ本をかたっぱしから
忘れてゆく。中身をぜんぶ
忘れる。読んでしばらく経ってから、これは読んだっけかなあというような本のほうがずっとたくさんあるはずです。
2. 【3】本の文化をなりたたせてきたのは、じつは、この
忘れるちからです。
忘れられない本というものはありません。読んだら
忘れてしまえるというのが、本のもっているもっとも
優れたちからです。べつに人間が
呆けるからではないのです。【4】読んでも
忘れる。
忘れるがゆえにもう一回読むことができる。そのように再読できるというのが本のもっているちからです。
3. ですから、再読することができる、本は読んでも
忘れることができる、
忘れたらもう一回読めばいいという文化なのです。【5】また
忘れたらさらにもう一回読めばいい。本というのは読み終わったら終わりではないのです。図書館という大きな建物があって、図書館には本があるのは、一回読んだらあとは
捨てるためにあるわけではありません。【6】読んでも読んでも
忘れる人間のために取っておくしかないから、図書館は必要なのです。
4. そうすると、本の文化というものを自分のなかに
新鮮にたもってゆくために、つねに必要なことは、そういう再読のチャンスを自分で自分にあたえてやる、ということです。【7】あの本をまた読もうかなと思いだしたときに、読む。読んで
忘れた本に再読のチャンスを自分であたえることで、読書という経験を、自分のなかで、絶えず新しい経験にしてゆくことができる。
5. 正月がくるたび、ある本を読むと決める。【8】それだけでも、心の置きどころができるのが、本です。たとえば、教会というのは、
聖書という本のある場所のことです。教会に行って、
聖書を開いて、読む。毎回読む。何度もまた読む。毎日曜日、教会に行って、何度も何度も読んだ
聖書をまた開いて読んでゆく。【9】再読という習∵慣がもっとも大切な
行為として、
信仰のなかにたもたれています。
6. 再読は、
忘却とのたたかい方でもあれば、必要な言葉を自分にとりもどす方法でもあるのです。【0】本の文化を自分のものにできるかどうかの重要な分かれ目は、その再読のチャンスを自分のなかに、生活のなかに、日常のなかに、自分の習慣として、人生の習慣としてそれをつくってゆくことができるかどうかだと思うのです。
7. 生まれたところから
離れて
暮らして、そのあと過ごしたところの方がずっと長くなっても、生まれたところに対して、ずっと
故郷という愛着をもちつづけるように、親しんだ本を再読するときには、そこに
帰郷したような感覚をもちます。たとえまったく覚えていなくても、しかしこれは自分が
呼吸した空気であるということを、よみがえらせてくれる本があります。そういう本の
記憶をどれだけ自分のなかにもっているかいないかで、自分の時間のゆたかさはまるで変わってきます。
8. 本の文化は、技術の文化のように、新しさや
最先端がすべてではありません。今ある時間にむきあえるもう一つの言葉をもつことができなければ、そのもう一つの言葉の側から今という時間を新しく読みなおしてゆくということはむずかしいし、そのためにたずねられなければならないのは、もう一つの言葉をもつ、自分にとっての友人としての本という、本のあり方です。どの本がよい、というのではなく、本が自分の友人としてそこにあるというあり方を、自分たちの時間のなかにつくってゆく方法を育んでゆくということが、今、わたしたちにはとても大事ではないでしょうか。
9.(長田
弘『読書からはじまる』)
長文 3.2週
1. 【1】あまのじゃくな人が
嫌われるのは、みんなと歩調を合わせないので、なにかと足手まといになるからです。人間は一人で生きているのではなく、他人とともに生きるようにつくられているのです。ところが、一人ひとりの人間はあらゆる点で
違います。【2】生まれつきの差もありますが、ものの見え方や音の聞こえ方も経験によって
違ってくるように、後天的につくられる
脳機能の差はさらに大きいのです。その
違いがいわば個性ということになります。個性というと、先天的な差を連想する人もいるので、個人差という方が
誤解が少ないでしょう。【3】単なる感覚でさえも一人ひとりが
違うのですから、
価値観やものの考え方が
違うのも当然です。
2. このように、一人ひとりが
違うのですが、その
違いを
お互いに主張し合えば、
誰もがあまのじゃくになってしまいます。そこで、人間同士の間には一種のなれあい現象が必要になってきます。【4】つまり相手と意見が
違っても、すぐに
反論するのではなく、一応は聞いておいて、自分の意見も修正し、相手の考え方もおだやかに改めてもらえるように工夫します。
お互いに
妥協するということにもなります。
3. 【5】たとえば、ある料理を食べたときに、相手が「さすがにホンモノの味だ」といったとしても、自分にはそうも思えないというようなことはよくあります。しかし、それを口にすることはせずに一応は
相槌を打って、味わい直してみるのがふつうでしょう。それでその場はなごやかに過ごせるし、自分の味覚が進歩することにもなります。
4. 【6】このように、他人と歩調をそろえなければならないときには、
誰もがひとりでになれあうのがふつうです。
従って、あまのじゃくになるひとつの原因は、そこにいる人と歩調をそろえるつもりがないために、自分の意見をそのまま主張するということです。【7】
誰に対してもあまのじゃくになるとしたら、その人はできるだけ自分だけで生きてゆこうとする人です。実際はそんなことは無理であっても、そういう
姿勢をとろうとするわけで、どこかで人間
嫌いになる原因があったのでしょう。
5. (中略)∵
6. 【8】動物であれば、
吠えたり、さえずったりして、自分の
存在を周囲に
訴えるところを、なにかと他人と
違う意見を主張することによって
自己顕示するというあまのじゃくもいます。
7. 【9】つまり、あまのじゃくにはいろいろの原因があるわけですが、原因はなにであれ、それが集団の歩調を
乱すという意味では
迷惑なことです。あまのじゃくが
仁王様にふみつけられるはめになるのはそのためでしょう。特に、日本人は自他の一体性が強いので、あまのじゃくを
嫌うようです。
8. 【0】しかし、なれあいや
妥協も度を過ごすと、自分独自の考えがなくなり、個性が
薄れてしまいます。特に、
創造的な活動を必要とする場合は、それではまずいということになります。「逆転の発想」ということばもあるように、天動説が支配的な
状況の中で、地球が動いているのではないか、と考えるような態度が大きな発見につながってゆきます。
創造性の強い人の中には「変人」といわれる人が少なくありません。部分的にはあまのじゃくとされることも多いでしょう。つまり、他人と歩調をそろえる心得も持ちながら、自分の意見をしっかり持っているというバランスが必要なのです。
9.(『ヒトはなぜ夢を見るのか』千葉康則)
長文 3.3週
1. 【1】考えることが得意でない風に見える人々がいる。たとえばほとんど口をきかず、毎日にこにこと店でトンカツばかり
揚げているようなおやじは、そう見えるかもしれない。しかし、このおやじのトンカツがとびきりうまいとしたら、この人ほどものを考えている人間は少ないかも知れない。【2】とりあえずは、そう仮定しておく必要がある。
私たちは、こういう人の
存在に実に
鈍感になった。
鈍感になって、いつもひりひりとした自負心、
嫉妬、
焦燥、
退屈にさいなまれるようになった。【3】
誰もかれもが、得体の知れないこの時代にともかくも
遅れまいとし、
遅れていない外見を作ることに
忙しくなった。それで
私たちは、一体何を考えているのだろう。
2. トンカツ屋のおやじは、
豚肉の性質について、油の温度やパン粉の付き具合についてずいぶん考えているに
違いない。【4】いや、この人のトンカツが、こうまでうまいからには、その考えは常人の
及ばない
驚くべき地点に達している可能性が大いにある。このことを
怖れよ。この
怖れこそ、大事なものである。
3. むろん、
私はうまいトンカツの重要性について述べているのではない。【5】では、何の重要性について述べているのか。それを
簡単に言うことは、どうも大変
難しい。けれども、大事なことはみな、このように
難しいのである。だから、トンカツ屋のおやじは
黙ってトンカツを
揚げている。【6】
彼は学問を軽んじているのでも、思想を
軽蔑しているのでもない。ただ、
彼は自分の仕事が出会ういろいろなものの
抵抗で、それらの
抵抗を
克服する工夫で、いつも心をいっぱいに満たしているから、余計なことを考える
暇も必要もないのである。【7】こういう男のトンカツが、いつのまにか万人の舌を説得している、このことにこそ人間の大事があると、
私は思っているに過ぎない。
4. ここに中学生の男の子がいるとしよう。この子は、学校の勉強以外、学ぶということを一切したことがない。【8】したがって、トンカツ屋のおやじを
怖れるだけの
知恵がない。だから、
怖れ気もなくこ∵う
尋ねる。おじさん、なぜ人を殺してはいけないの? おやじは、まずこんな質問には耳を貸さないだろう。じゃまだから、あっちに行ってろと言うだけだろう。【9】それでおしまいである。何の
騒ぎも起こらない。この子が中学を出て、高校などには行かず、トンカツ屋のおやじのところに見習いに入ったとしよう。そこで、同じ質問をする。お前は
見込みがないから、ほかで仕事を
探せと言われるだろう。【0】しかし、このおやじがもっと親切なら、見習い
坊主は
張り倒される。それでおしまいである。
5.
怖れのないところに、学ぶという
行為は成り立たない。遊びながら楽しく学ぶやり方は、元来
幼稚園の発明だが、今の日本の学校はそれが大学まで
普及し
尽くしてしまった。日本だけではなかろう。
二十歳を過ぎてもまだ遊んでいる人間が数えきれずいる国では、やがてそういうことになる。遊ぶことと学ぶこととが、どう
違うのかわからない。
子供たちは何も
怖くないから、勝手に教室を歩き回るようになる。
6.
怖れることができるには、自分よりけた外れに大きなものを察知する
知恵がいる。ところが、このけた外れに大きなものは、けたが外れているが故に、
寝そべっている人間の眼には見えにくい。見習い
坊主もまた、パン粉を付けてみるしかない。それは、初めちっとも面白い仕事ではないだろう。
怖れる
知恵がまだ育っていない者に、心底面白い仕事などあるわけがない。だが、
知恵は育つのだ。
豚肉やパン粉があり、
怖いおやじがいる限りは。
7.(前田
英樹『
倫理という力』)
長文 3.4週
1. 【1】
私はゲオルク・ジンメルという約百年前ドイツで
活躍した社会学者の研究を
専門にしていて、数年前に『ジンメル・つながりの
哲学』(NHKブックス)という本を書きました。その作業中、まさに百年前にドイツで生きたジンメルという人間と、「どうなの? これどうなの?」という会話をしている実感があったのです。【2】たしかにそこまで
のめり込むには相当な集中力を要します。でも、
真剣にある程度耳を
傾けようとすれば、「いま・ここ」にはいない筆者と、いつのまにか直接対話しているような感覚を味わえることもあるのです。
2. 【3】みなさんでしたら、大好きな小説家、詩人、歴史上の人物でもいいでしょう。本の世界に
没頭していくと、文字を通して、書き手や登場人物の肉声がなんとなく聞こえてくるような感覚、コミュニケーションがだんだん
双方向になっていく感覚が生じてくることがあるのです。
3. 【4】もちろん本を読めばいつでも、というわけにはいきません。でも、
私が『つながりの
哲学』を書いていたときは、「ジンメルだったら今の日本をどういうふうに見るんだろうな」というようなことを、ずっと考えながら
執筆していたので、【5】なんとなく
彼がいつのまにか今の時代にタイムスリップしてきて、今の日本を見ながら
私に語りかけてくれているような気分になっていました。
4. コミュニケーションの本質って、じつはこういうところにあるんじゃないかと思います。
5. 【6】具体的な人との関係でも、
漫然と言葉を交わしているだけではだめなのです。
6. ちょっと心地よくなると、すぐその場を
放棄できてしまう言葉がいくつも準備されていて、自分の感覚的なノリとかリズムとか、【7】そういうものの心地よさだけで親しさを
確認していると、やはり関係は本当の意味で深まっていきません。料理でいうと「苦み」のない、ただ
甘いだけの料理を求めてしまう感じですね。
7. ノリとリズムだけの親しさには、深みも味わいもありません。【8】そればかりか、友だちは多いのに
寂しいとか、いつ
裏切られるかわからないとか、ノリがちょっと合わなくなってきたらもうダメだと∵か、そういう
希薄で不安定な関係しか構築できなくなるのではないかと思います。
8. 【9】読書のよさは、一つには今ここにいない人と対話をして、
情緒の深度を深めていけること。しかも二つ目として、くり返し読み直したりすることによって自分が
納得するまで時間をかけ理解を深めることができること(実際の会話では「えっ、今なんて言ったの。もう一度言ってみて」、なんて何度も聞きなおすことはできませんものね)。【0】あと三つ目としては、多くの本を読むということは、いろんな人が語ってくれるわけですから、小説にしても
評論にしても、「あ、こんな考え方がある」「ナルホド、そういう感じ方があるのか」という発見を自分の中に
取り込めるということ。実際のつき合いではそんなにいろいろなキャラクターの人とコミュニケーションすると「人
疲れ」するころがありますよね。でも本を読む上では作者でも登場人物でも、いろいろな性格の人と
比較的楽に対話することができます。その結果、少しずつ自分の感じ方や考え方を作り変えていくことができるわけです。そういう体験を少しずつ積み重ねることは、多少シンドイ面もありますが、慣れてくると、じつはとても楽しい作業になるのです。
9. (
菅野仁『友だち
幻想 人と人の「つながり」を考える』(ちくまプリマー新書)