長文集  8月2週  ★みなさんには、まだ字を(感)  hi-08-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:22
 【1】みなさんには、まだ字を読めないこ
ろの読書体験がありますか。いや、これは矛
盾していますね。字を知らなければ、読書は
できない。言い直しましょう。【2】字が読
めないことを意識しつつページをめくり、「
ここには何が書いてあるのだろう」と思い、
もどかしい興奮をおぼえたことがありますか
――ちょうど開(あ)かずの間(ま)の戸を
見るように。
 わたしにはあります。【3】雑誌だったか
、その付録だったか、とにかく兄の本です。
そこに「漫画の描き方」のようなものがのっ
ていました。しかし、字は読めない。だから
こそ、想像を絶するほどおもしろかったので
す。で、また矛盾したことを申し上げましょ
う。【4】そのおもしろさを、想像してみて
ください。そこにあったのは、実に不可思議
な世界です。技法説明のため、さまざまな表
情や姿がならんでいました。かと思うと、そ
れらを生み出す、裏方のペンやインクの絵が
描いてあったりします。
 【5】わたしが一番強烈におぼえているの
は、こういう場面で す。古い漫画の手法で
は、人が歩いた後に、マッシュルームを横に
したような印が、次々についていきます。砂
ぼこりの象徴なのでしょう。【6】さて、そ
の本の中の人物は、ほこりマークを現実にあ
るもののように扱っていたのです。手に持っ
ていたのかもしれません。拾い集めていたか
、あるいは、歩く人物の後ろに置いていった
のかもしれません。【7】そうやって、描き
方を説明していたのです。なんとも奇妙な絵
でした。「ここに書いてある字が読めたらな
あ」と、強く思いました。どういう部屋のど
のあたりにすわっていたかも含めて、その時
の記憶が鮮やかにあるのです。【8】小学生
になってからも、時々、あの漫画にもう一度
会いたいと思いまし た。
 さて、「漫画の描き方」は、本来の目的か
らいえば、鑑賞のためにあるのではなく、実
用のためにあるものです。【9】しかし、わ
たしにとって、それは謎に満ちた物語、通常
の音階を持たぬ歌だったのです。これこそ、
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本というものの持つ力ではないでしょうか。
た∵とえば、夏目漱石の読み方に、これとい
う絶対の正解があるのなら、われわれは、そ
の答えを人から聞けばいい。【0】しかし、
漱石への対し方は読者の数だけあります。
 下手な手品は一方からしか見られないとい
います。しかし、魔法は、上から下から斜め
から見ても、人の後ろに立って見ても、遠く
離れて望遠鏡で見ても魔法でしょう。ある人
には、胸のポケットから取り出したものが蝶
と見え、また、ある人には蜂鳥と見える。し
かし、どちらも真実なのです。
 つまり、本を読むというのは、そこにある
ものをこちらに運ぶような機械的な作業では
ない。場合によっては、作者の意図をもこえ
て、我々の内になにかを作り上げて行くこと
なのだと思います。
 しかし、仮にあげた例は、あくまでも例な
ので、今あの時の「漫画の描き方」が手に入
ったとしても、それは昔のかがやきをもった
ものではないでしょう。幼い日に読んで血を
わかした本が、後年(こうねん)読み返して
みると、思いの外(ほか)につまらなかった
りすることは、間々あるものです。けれども
、砂時計を手に取りひっくり返すように、あ
るときからは、また新しい砂が積もりだすも
のです。中学生の時、読んで少しもおもしろ
くなかった本の妙味 が、年を重ねることに
よってわかるようになったりもします。
 そういう読みにたえられる、厚みを持った
ものが、古典です。
 手ごわい相手、理解できない書に行きあた
ると、文字の読めない幼児のように、その昔
に帰ったようにもどかしく、「この本が読め
たら」と足ずりしたくなります。歯の立たな
いものをかんだようなつもりになって、見当
違いの解釈をすることも多い。だが、わたし
にとっては、それこそが読書の楽しみなので
す。

 (女子学院中)