長文 7.1週
1. 【1】カニクイザルの道具使用行動が、本書の
趣旨である人類進化にどんな意味を持っているか考えてみよう。
2. カキやカニはタンパク質に富む、非常に高品質な食物だ。【2】カキは多くの岩やマングローブの根に成育するので、大量にある食物
資源でもある。しかし、その一方で、カキは固い
殻に
覆われていて、
霊長類にとっては
獲得し
難い食物である。【3】カニクイザルは、それを道具によって効率よく
獲得・
処理して食べている。「
脳=高度な知能=道具使用=得がたいが高品質・大量の食物の
獲得」というヒト進化の原型がここにある。
3. 【4】カニクイザルはうまく
叩けば、三回ほどの
打撃でカキの身を食べている。この行動は、手ごろな石を
握ること、それを三〇〜五〇センチメートルの
振り幅で
振り下ろすこと、の二つの動作で構成されている。【5】そのどちらも日常的に行っている動作であり、それらの組み合わせである。ビデオ画像を見ると、強力な
拇指が
関与するヒトの
握りに比べると、
把握のしっかり感にいくらか欠けるものの、こういった
打撃には十分だ。【6】また、
彼らが使っているハンマーは
楕円形をした平たい石が多く、
握りやすいとともに、
打撃部分が点に近いため、カキやカニ
割りには効率がよい。
脳の発達に効果器が重要であることが、ここでも証明されている。
4. 【7】
宮崎県、
日向灘に
浮かぶ幸島のニホンザルたちも、海産物を食べることが知られている。
彼らの場合、岩に付着しているヨメガカサなどのアワビの小型版の一
枚貝を、道具を使わず、下あごの前歯で
剥がして食べる。【8】このため、
彼らの前歯は
磨耗が
激しく、オトナの中には歯肉から出た部分がほとんどなくなった個体も多い。したがって、カニクイザルの道具の効果は絶大と言ってよい。
5. 道具使用行動は、
遺伝によって子孫に伝えられる行動パターンではない。【9】他の個体が行っているところを観察して、学習する必要がある。群れを作って生活し、他の個体のやっていることを見て、真似ることは、文化
伝播・伝承の必要条件である。【0】
私たちは、カニクイザルの
子供たちが学習しているところを観察した。カキ∵
割りの手順とメカニズムを十分に理解できていない子ザルが、
獲物もないのに台石をハンマーで
叩き、
叩いたところに口をもっていっていた。もうしばらくすれば、カキの
殻を
叩き割ることや
獲物をその道具セットの場に持っていくことを覚えるだろう。こう考えると、
子供の期間が非常に重要で、
霊長類における成長期間の
延長は、複雑・高度な行動パターンの学習には必要条件である。
6. 知能というものが、新しい行動パターンを思いつくという最初の過程だけでなく、学び取ること「学習」を
含むということを、特に強調したい。
7.(中略)
8. 小島の子ザルが、食物を置かずにハンマー石を台石に無心に
叩きつけている様子は
微笑ましい。しかし、その行動をビデオで何度も見ているうちに、真似るということが、ヒト以外の動物にとってどれほど
困難なものであるのかを実感する。そして、子ザルがそのメカニズムを体得しようと取り組んでいる
真剣さに感動してしまう。それまで、カキ
割りをしていなかったオトナなら、とっくにあきらめてしまうのだろうが、子ザルはそれを
執拗に行う。生きる上で、この行動の習得が
必須だと思いこませるような
遺伝的指令があるのかとさえ感じてしまう。この指令が発達過程に
織り込まれているのは、ヒトにもあてはまるだろう。それゆえに親や社会のメンバーは、
子供たちのモデルである。
9.
脳はあっても適切な学習過程と学習
環境が
与えられなければ、十分な機能を発達させられない。「あるがまま」「自然にまかせて」の教育の
恐ろしさは、そこにある。
10.(
濱田穣『なぜヒトの
脳だけが大きくなったのか』(講談社ブルーバックス))
長文 7.2週
1. 【1】だれにすがるわけにもいかない。だれかにしかられたいと思っても、しかってもらうわけにはいかない。
先輩も、
同僚もいない。親もいなければ、きょうだいもいない。しかも、生きるか死ぬかというときです。【2】全部自分で引き受けるしかない。自分の判断に基づく行動のほか何にもない、こういう状態が自由です。だから、自由というのはこわい。ぞっとするほどおそろしい。
2. 【3】われわれは、つね日ごろは、
先輩なり、
後輩なり、友だちなり、親があり、先生があり、そのほかいろいろあります。しかし、ほんとうの自由というのは、全部
取り払って、自分一人きり、それが全責任を負う。【4】自分の判断に全部をまかせる。この状態が自由です。人間というものは、本質的には自由の続きですが、さいわい、そんなこわいことばかりでなしに、あれこれとたよるべきものがある。しかし、ほんとうの自由というものは、そういうものだということを、はっきり知っていないと、こまるのです。【5】ぼくは自由ということばをきょうはだいぶしゃべりましたが、めったに口にしません。こわいことばですから。ぼくは自分の文章に、自由ということばをそんなに無造作に書きません。自由なんてことばを聞くと、どきっとします。
3. 【6】しかし、ぼくのように自由を受け取っている人は、そんなに大勢いないでしょう。それどころか、自由と聞けば、とたんにダンスのステップでも
踏み出しかねないかっこうをする人が多くて、まったく
閉口です。
4. 【7】ことばだけを口先でしゃべりまくって、何か事が
済んでいるみたいなところに、教育の
普及国でありながら、日本はひどく変なところ、ひどく不幸なところがあると思います。【8】くりかえしになりますが、自由ということは、たった一人の人間、たった一人の自分というものの責任においてはじめて可能になるということです。
5. 【9】では、たった一人の自分だけでいいか、ということになると、そうはいきません。次は、たった一人の人間が、別のたった一人の人間とどう結びつくかという問題です。【0】ほんとうに、自分というものをしっかり
握って──オウムのように何だかわけのわからぬことを口ばしって
疑いも持たないような人間でなくて、うっかりすると、人ごみにまぎれこんでしまいがちな自分というものに、いつも目をくばって、自分で自分を
監督する。めいめいの人間が自分にブ∵レーキをかけることを
忘れない。そんな社会を文明社会といいます。めいめいがそれぞれ、ブレーキを持って、まさかのときは、自分でブレーキをかけることを
忘れない。こういう人間の集まっている所が文明社会です。そういう、ひとりひとりが自分をしっかり
握って、行くえ不明にならないように、自分が自分を
監督する。こういう人間と、もう一人のそういう人間との結びつき、これが社会というものの根本です。
6.(
臼井吉見の文章による)
長文 7.3週
1. 【1】わたしは四
歳のときに小児マヒにかかった。幸い
重症ではなかったが、それでも左足にマヒが残っているのでびっこを引いている。わたしを形成した最大の先生はこの足だと思っている。
2. 【2】そのため、さまざまなことを味わってきたが、わたしに限らず、
身障者にとっていちばんの願いはできるなら自分が不具(身体が不自由なこと)であることを、相手が心の底から
忘れてくれることである。ごくふつうの人間として
扱ってくれることである。
3. 【3】いつだったか、わたしは電車のなかで青年から席を
譲られたことがあった。かれは立上がるとわたしの顔を見ながら、はっきりした声で「おすわりなさい。あなた足が悪いんでしょう」といったのである。【4】かれの
善意、親切はわかったが、わたしはその時、いささか
憂うつであった。
4. 反対に一つの席をねらって
お互いにダッシュする時がある。これは勝っても負けてもうれしいのである。相手はわたしを一人前の相手と
認めているのだから。
5. 【5】群馬県の
高崎に心身
障害者のための国立コロニーができるということである。コロニーとは、いわば、
障害のために、社会的・職業的に一人だちできない、そういう人間が日々を生きていくための村とでもいうべきものである。
6. 【6】今の社会の現状では、実際問題として、このようなコロニーはなくてはならないだろう。
7. そのことは
認めた上でのことなのだが、わたしにはひとつの気がかりがある。【7】それは、この種の構想が社会にとってあまり有用でないものをまとめて「
隔離」する、というような気持とどこかで関係がなければいいが、ということである。
8. それは、おそらくひねくれた見方であろう。【8】しかし、実際の生活のなかでそのような差別意識が生きていることもまた事実である。精神に
障害のない
肢体(手足または身体)不自由な者などの場合、そのような
厄介者意識・差別意識と出会うことの
苦悩はひとしお大きい。
9. 【9】たとえば社会復帰の不可能なもの、ということであるが、これ∵は要するにおカネを自分でかせいで自活できないもの、という意味であろう。そして確かに、現状では自分で働けないものは、家庭の世話になって生きるか、このような
施設にはいるよりないのである。
10. 【0】しかし、では人間の
価値というものは何であろう。今のわたしたちが生きている社会の基準では、それは、働いておかねがかせげるかどうか、役立つかどうかということにかかっているように思われる。だから、かりに、
身障者のある人が非常にすぐれた知力を持っていたとしても、かれが、労働能力を持っていなければやはり
厄介者であろう。
11. わたしは正直いって、そういう事実を悲しく思う。人間として
立派に一人前のものを持っているのに、これらの人々の場合には、それを
認めるだけの
余裕が社会の側にないのである。だから社会はかれらを
施設へ
収容しなければならない、またかれらも
施設を
避難港として考える、ということになるのであろう。
12. 労働能力や外見が事実上人間の
価値をきめる――これは、この社会が物質的・精神的に貧しいことにほかならない。そして真に豊かな社会が来、あらゆる問題が解決するまで、ほんとうの解決はこないであろう。
13.(三木
卓の文章より)
長文 7.4週
1. 【1】サルは集団で
暮らしている。ストレスが
溜まる。そこで
彼らが編み出した方法というのが、グルーミングというものだ。
お互いの毛づくろいをする。
2. 【2】衛生的な目的であれば、グルーミングしている時間と身体の大きさが正比例するはずなのだが、そうではなく、社会的なグループの大きさと時間とが比例するという。つまり、複雑で大きな集団になればなるほど、グルーミングの時間が増える。
3. 【3】しかもグルーミングの相手は無差別ではない。特定の相手とのみ、おこなわれる。グルーミングは社会的に仲良くなろうとする
行為であるのだ。親子同士はもちろんだが、仲間内の、特定の相手が選ばれて、グルーミングをする。【4】いわば親しい友人である。そして近くにこの友人がいるときほど、特に仲間のために
警戒音を発したり、
餌を見つけたよという合図をおこなうことが多いという。つまり、利他的な
行為は、ふだんのグルーミングによる付き合いの結果なのだ。
4. 【5】グルーミングによって親しい友人が増やせるし、生きていくのも
簡単になるのなら、なるべく多くのグルーミング相手がいたほうがいい。しかし、このグルーミングの相手になる数は限られている。グルーミングは一対一でしかおこなわれない。【6】しかも一日のうち、四十パーセントの時間をグルーミングに費やすということも観察されている。小さな集団であれば、それで
充分なのだが、より強大になろうとし、より大きな集団を作ろうとしたとき、グルーミングでは間に合わなくなってくる。【7】そこで、音声による友人作り、つまり言語が始まったのだ、というのがダンバーの説である。言語によって、グルーミングと同じように、友だちを増やしている。【8】つまり、ことばが、情報のやり取りではなく、仲良くなるという目的で使われている。
5. 小田は、コンタクト・コールという特定の相手との音声の
呼び交わしが、かなり原始的なサルにも見られると報告している。【9】コンタクト・コールは、移動中などに
お互いの位置を教えあうためにおこなわれると考えられているものだが、特定の相手と
頻繁におこなわれることから、やはり、集団を
維持するためにおこなわれると考えられる。【0】グルーミングの
補助的
役割を果たしていると考えられ、これが
私たちの日常会話の原型なのではないかという。∵
6. グルーミングにせよ、コンタクト・コールにせよ、
お互いが仲良くなるための
手段として使われている。
異性間に限られない。また家族間にも限られない。そこで伝えられているものは、たぶん、
隣人愛と
呼ばれるものの最も原初的なものなのではなかろうか。
7. 人間以前のことばが
隣人愛を伝えているとすれば、これは、ファティックであると言える。
繁殖期になって、オスがメスを
呼ぶ。それが、愛であるのならば、
お互いの共同生活を作るものならば、ファティックと言える。
8. 外敵から身を守るために集団で
暮らすことを選んだ人間の先祖たちは、その集団のまとまりを
維持するために、ことばを使い始め、そうして社会を形成した、という考えなのだ。
9. 今まで、ことばの
起源は、動物の発する相手に対する
威嚇の声や
逃げるときの悲鳴などが初めにあって、それらが、今あることばの働きかけの機能、
自己表出の機能になったと考えられてきた。働きかけは、相手に何かを
頼んだりすること、
自己表出は、自分の気持ちを表現すること。これらがことばの最も原初的な働きであり、それがすなわちコミュニケーションであると考えられてきたフシがある。しかし、そうした働きは、ことばの一面を言っているにすぎない。
10. ことばはコミュニケーションの道具である、とよく言う。しかし、ことばは情報伝達の道具というだけではすまされない。ことばの
起源の現場を見た人はどこにもいないのだから、あくまでも仮説にすぎないけれど、ことばが
お互いが仲良くするという目的のために生まれたのだという考えは、ちょっと
魅力的だと思う。
11.(金田一
秀穂『新しい日本語の予習法』(角川oneテーマ二十一))
長文 8.1週
1. 【1】二、三年前、小学高学年の子どもたち三〇〇人に、どんな公園、どんなあそび場が
欲しいかという絵を
描いてもらったことがある。その時子どもだけしか入れない公園が
欲しいというのがかなりあった。
2. 【2】児童公園など、あそんでいるのは子どもがほとんどなのに、と思うのだが、子どもたちに言わせれば、児童公園には大人もたくさん来て、野球をしちゃあいけない、木に登ってもいけないなど、いろいろ言う。
3. 【3】そのくせ、自分たちはゲートボールとかゴルフの練習とかして、
危ないから向こうであそべという。そういうのでなく、子どもだけで自由に勝手にあそべる公園が
欲しいというわけである。
4. 【4】なるほど、いま子どもたちにとって、大人から全く
干渉されない空間はほとんどない。子どものための
施設、子ども用の
施設というのはある。しかし多くの場合、大人が管理している子どもの
施設である。子どもが大人から
離れて、自立的に持っている空間はない。
5. 【5】
私の子どものころは、何をどうしようと大人たちからあれこれ言われないあそび場がたくさんあった。
防空壕や空き地や
裏山や、さまざまな所に子どもたちだけの
秘密の場所を持っていた。大人も子どもに
干渉するほど
暇ではなく、
忙しかった。
6. 【6】かつて、子どものころの
秘密の場所とか
秘密の小屋とか子どもだけの場所をアジトスペースと名づけて調査をしたことがある。ほとんどの大人は子どものころそういうものを持っていたし、集団でよくあそんだと答えた。【7】一五年ほど前、子どもたちに同じ質問をしたところ、一〇人に一人しか持っていなかった。特に、都市部の子どもたちは少なかった。
横浜で一九八九年に調査したところ、子どもたちは全員そういう場所を持っていなかった。
7. 【8】かつては子どもだけの場所、言うなれば子どもの独立国が町や村のそこここにあったのである。昔、
私たちはそこで自立心を学んだのだろう。ところが今、それらは大人たちによって
滅ぼされ、植民地のようになっているのかもしれない。∵
8. 【9】今の子どもたちは自立心がない、独立心がない、と大人はよく言う。その心を育てる空間を自分たちが
奪ってしまっていることを
忘れている。子どもたちが自由な独立国をつくれるような、都市や
環境のゆとりのある改造が必要だろう。
9. 【0】昔も今も、子どもたちは大人から
干渉されない自由なあそび場を求めているはずだ。
10.(
仙田 満「子どもとあそび」より)
長文 8.2週
1. 【1】いやいやがまんするのではなくて、進んで行なう、これが心地よさの
基礎である。ところが、
砂糖菓子は口のなかで
溶かしさえすれば、ほかに何もしなくともけっこううまいものだから、多くの人々は幸福を同じやり方で味わおうとして、みごとに失敗する。【2】音楽は聞くことだけしかせず、自分では全然歌わないのなら、たいして楽しくはない。だから、ある頭のいい人は、音楽を耳で
鑑賞するのではなく、
喉で味わうのだ、と言った。【3】美しい絵からうける楽しみでさえ、下手でもいいから自分で
描いてみるとか自分で
収集するとかしなければ、休息の楽しみであって、熱中の楽しさは味わえない。大切なのは、判断するだけにとどまらず、
探究し、
征服することである。【4】人々は
芝居を見に行き、自分でいやになるくらい
退屈する。自分でつくり出すことが必要なのだ。少なくとも自分で演ずることが必要なのだ。演ずることもまたつくり出すことなのだ。わたしは人形しばいのことばかり考えてすごした幸福な数週間のことを思い出す。【5】だが、ことわっておくが、わたしは小刀で木の根に、高利貸だの、兵隊だの、むすめだの、
老婆だのを
刻んでいたのである。ほかの連中がそれらの人形に
衣装を着せた。わたしは観客のことなど眼中になかった。【6】
批評などというとるに足らぬ楽しみは観客どもにまかせておいた。いくらかでも自分で考え出したという点では、
批判もまた楽しみではあるのだが。【7】トランプをやっている連中は、たえずなにかを考え出し、勝負の機械的な進行に手を加える。だが、それにしても、ゲームを学ばなければならない。なにごとにおいてもそうだ。幸福になるには、幸福になるなり方を学ばなければならない。
2. 【8】幸福はいつもわれわれから
逃げてゆくものだ、といわれる。人から
与えられた幸福を言うのなら、それは正しい。
与えられた幸福などというものはおよそ
存在しないからである。しかし、自分でつくる幸福は、決して
裏切らない。【9】それは学ぶことであり、そして人はたえず学ぶものだ。知れば知るほど学ぶことができるようになる。ラテン語学者の楽しみもそういうものだ。そこにはきりというものがなく、むしろ進んだだけ楽しみが増える。【0】音楽家であることの楽しみも同様である。だからこそ、アリストテレスはつぎのよ∵うな
驚くべきことを言う。真の音楽家とは音楽を楽しむ人であり、真の政治家とは政治を楽しむ人である、と。
3.「楽しみとは能力のあらわれである」と、
彼は言っている。その
理論など
忘れさせてしまう用語の
完璧さをもつ素晴らしいことばだ。いかなる行動においても、真の進歩のしるしは、人がそこに感じうる楽しみにほかならない。したがって、仕事こそが心を楽しませる
唯一のものであり、しかもそれだけでじゅうぶんなのだ。わたしの言う仕事とは、力のあらわれであると同時に、力を生み出す
源泉でもある自由な仕事のことだ。くりかえしていうが、大切なのはがまんすることではなく、行動することである。
4. だれでも見たことがあるように、石工たちはゆっくり時間をかけて小さな家をつくる。かれらが一つ一つの石を選んでいる様子を見て
欲しい。この楽しみはどんな手仕事にもある。職人はいつでも考え出しては学んでいるからである。ところが、職人が自分のつくった物となんらの関係ももたず、自分の物を所有することもなく、さらに学ぶために使用することもなく、たえず同じことをはじめからくりかえす場合には、きわめていい加減なことになる。機械的な完全さが
退屈をうむことは、もちろん言うには
及ぶまい。これに反して、仕事の
継続、作物が次の作物を約束すること、それが農夫を幸福にする。もちろん自由で自立している農夫のことだ。ところが、たいへんな労苦によってあがなわれるこういう幸福に対してだれもがみんなさわがしく反対する。人から
与えられた幸福を味わいたいなどというけしからぬ考えがはびこっているからだ。ディオゲネスがいうとおり、苦しみの方がいいのだ。だが、精神はこの
矛盾を
背負って行きたがらない。この
矛盾にうちかつことこそ大切なのだ。
5.(アラン『幸福
論』
宗左近
訳より)
長文 8.3週
1. 【1】
私が考えてみたところでは、自分には生きがいがあるかどうか、とか、生きがいとは何か、などと人が考えるのは、青年期にいろいろな人生問題を
悩むときか、【2】またはすっかり年とって心身ともにおとろえ、自分でも生きているのがつらくなり、他人にも
迷惑でないか、さりとて、どうしたらいいか、などと
悩むときが多いような気がします。【3】そうでなければ、人生の
途上、何かたいへんつらい目にあったりして、生きて行く望みを失ったときに、ああ、もう自分は生きがいがない、などと
思い悩むものだろうと思います。【4】つまり、生きがいということばが、ふつうの人の頭に
浮かびあがってくるのは、まさに生きがいが
奪われそうになったり、ある生きがいが失われたりしたときなのだろうと考えられるのです。
2. 【5】そもそも生きがいということばの意味は何でしょうか。辞書をひいてみると、「生きているだけのねうち」とか「生きている幸福・利益」などと書いてあります。【6】この二つの定義がならべてあるところをみると、この二つはたがいに無関係ではなく、幸福とか利益とかいっても、それは「ああ生きていてよかったなァ」「生きているだけのことがあったなァ」と感じるよろこびの心を内容としているものだろうと思われてきます。【7】ですから生きているだけのねうちといっても、それは自分で自分に向かってみとめるものであって、他人がみとめるものとは限らないといえましょう。
3. 【8】ここが生きがいについてのたいせつなところだと思います。万人がうらやむような高い地位にのぼっても、ありあまる富を所有しても、スター的
存在になれるほどの
美貌や才能を持っても、本人の心の中で生きるよろこびが感じられなければ、生きがいを持っているとはいえないわけです。
4. 【9】こうみてくると、生きがいある
生涯を送るためには、何かしら生きがいを感じやすい心を育て、生きがいの感じられるような生きかたをする必要があるのではないか、と思われてきます。【0】もちろん、人間の心はたえず生きがいを感じるようにはできていないので、一生のうち何べんか、「ああ、生きていてよかったなァ」と感じられるような
瞬間があればありがたいとすべきでしょう。たえず生きがいを感じて喜んでいるというのは、むしろふつうでないのではないかと考えられます。
5. さて、こういうことを承知のうえで、生きがいを感じる心とはど∵んな心かと考えてみますと、それは結局、感受性のこまやかな
謙虚な心、何よりも、「感謝を知る心」だろうと思われます。
欲深い、勝気な心の正反対です。感謝を知るというのは、何か特に他人が自分によくしてくれた場合だけでなく、自分の生というものを深くみつめて、どれだけの要素がかさなりあって自分の
存在が可能になったのかを思い、大自然にむかい、ありがとう、と思うことをいっているのです。
6. 次に、生きがいが感じられるような生きかたとはどんなものかを考えてみましょう。生きがいとは生きているだけのねうちということでしたが、この「ねうち」が、自分にもっともはっきり感じられるときのひとつは、自分の
存在が何かのために、だれかのために必要とされていると自覚されるときでしょう。それも、ただ
飾りのようなぐあいに必要とされるのではなく、他人では代用できない任務や責任を負った者として必要とされるときに、一ばん強く意識されるでしょう。
長文 8.4週
1. 【1】理解できなくても、理解者になることができる――この発想がとても大切です。
2. では、どうしたら
私たちは、苦しんでいる人から見て「理解者」になることができるのでしょうか?
3. 【2】理解者になることは、面白い話をしてくれる人になることではありません。がんばってねと
励ましてくれる人になることでもありません。知らんぷりをする人になることでもありません。
4. そばにいて、ただじっと
聴いてくれる人が、わかってくれる人になるのです。
5. 【3】
私は、この場合の「きく」には「
聴く」という漢字をあてて、「聞く」とはあえて区別して用いるようにしています。
6.
一般的に、聞くということは、自分が何かを知るために行なうことです。【4】つまり、「自分の知りたいこと」を知るために聞くのです。
7. 苦しむ人を前にすると、医師は「いつから具合が悪いのか」「何か良くないものを食べたか」「ほかに具合の悪いところはないか」など、病気を
疑って問いかけます。【5】
皆さんであれば、「どうしたの? 何かつらいことがあったの?」など、いろいろ質問をするかもしれませんね。
8. しかし、ここで
紹介したい「
聴くこと」は、自分が理解するための「聞くこと」とは
違います。【6】相手から見て、わかってくれたと思えるための「
聴くこと」です。自分が知りたいことを聞くのではなく、相手から見て、わかってもらえたと思えるように「
聴く」ことがとても大切になってきます。
9.(中略)
10. 【7】苦しんでいる人は、いろいろなサインを出します。言葉であったり、言葉ではなかったりします。そして、
聴き手である「
私」は、そのサインを何か意味があるメッセージとして受け取ろうとします。【8】何か伝えたいことがあるのだと意識して
聴いていく時、相手のメッセージが見えてくることでしょう。
11. そして、そのメッセージを、言葉にします。「あなたのいいたいことは、こういうことですね」という具合に、メッセージを受け取ったことを、相手に伝えます。∵【9】具体的には「反復」という技法を用います。相手の話した大切なカギとなる言葉を、ていねいに反復するのです。
12. 大切なことは、話をした人が、「いいたいことが伝わった」という感覚を持てるかどうかにあるのです。【0】
聴いてもらえたけれど、本当に
聴いてくれた相手に自分の思いが伝わったかどうかわからなければ、
聴くということの意味が半分以下になってしまうことでしょう。
13. たとえば、相手にメールを送ったのに返事がないと、本当に伝わったか心配になる人もいるでしょう。一言、「メール
届いたよ」でも、返事があるとうれしいですね。これと同じです。話した人に対して、あなたのいいたいことは、こういうことなんですね、と返してあげることが、大切になります。
14. これだけでも、苦しんでいる人の気持ちは楽になると思います。わかってくれたとの思いは、満足につながります。そして、安心した気持ちになっていきます。
15. その人は、
聴いてくれた人のことを「わかってくれる人」として
認めてくれるでしょう。そして、
聴いてくれた人を
信頼するようになっていくのです。
16.(中略)
17. 人は、
誰かに「わかってもらえた」と思えた時に初めて、苦しみの中にあっても生きようとする力がわいてくるのだと思います。
18.
聴くことは、とても大切な
援助の方法です。
聴いてもらえるだけで、気持ちが楽になる人もいるはずです。このように
聴くことができたならば、
皆さんは、大切な人の苦しみをやわらげることのできる、素晴らしい
援助者になれるでしょう。
19.(
小澤竹俊『一三
歳からの「いのちの授業」』(大和出版)による)
長文 9.1週
1. 【1】『学校の
怪談』という本がかくれたベストセラーと言っていいほど、よく売れているそうである。どこかの教室に
幽霊が居た、というようなよくある話が書かれているようだが、これが意外と子どもたちに人気があり、おどろくほどの売れゆきを示していると言う。
2. 【2】ある
幼稚園の先生に次のような相談をされたことがある。子どもたちが話をしてくれ、とよくせがむので、むかし話など自分が覚えている話をしてやると、子どもたちは非常に喜ぶ。【3】テレビのアニメなどで、もっとおもしろい話を見ていると思うのだが、先生の話を予想外に喜んで聞く。そして、そのなかで
魔女が出てきたりするところなど、こわいところがあると、「こわい」とさけんで耳を手でふさいだり、となりの子どもにしがみついたりしている。【4】これはよくなかったかな、と思っていると、子どもたちが、「先生、あのこわい話をして」とせがむのである。
3. 先生が
疑問に思われるのは、「どうして、子どもは『こわい、こわい』とさわぎながら、何度も聞きたがるのでしょう」ということである。【5】そして、そもそも子どもにそれほどこわい話をしていいものだろうか、ということである。子どもたちは何度も同じ話を聞いて、こわいところはもうすでに知っている。そして、それを心待ちしているようにさえ見えるが、そこに話がくると、「キャー」とさけんだりする。【6】何とも不思議な現象だ、と先生はいぶかしがられるのである。
4. 人間にはいろいろな感情がある。
喜怒哀楽などというが、それはもっとこまかく分けられる。【7】その感情を体験し、自分がそのような感情のなかにいるということを意識するのは、六
歳くらいまでの子どもでも可能であり、それを体験することは子どもの
情緒の発達にとって非常に大切なことである。
5. 【8】ただ、悲しみや
怒りなどの感情があまりに強いときは、子どもがそれにたえられず、
情緒の発達というより、むしろ
破壊的な結果になってしまう。【9】その上、親としては、子どもに悲しみや
恐怖などはなるべく味わわせたくない気持ちがあるので、そのような体験をさせないようにする。しかし、このあたりが
難しいところで、子どもが十分に育ってゆくためには、そのような
否定的な感情を体験することも必要なのである。∵
6. 【0】子どもの心が自然に流れるかぎり、「こわい」感情体験もしたくなるのは当然である。そのようなマイナスの感情を体験してこそ感情が豊かになってゆくのだ。しかし、マイナスの感情が強くなりすぎると
危険性が高くなる。そこで、子どもたちの
信頼する大人にこわい話をしてもらうことは、
信頼関係によってマイナスの感情を消しながら、「こわい」体験ができる──時にはそれを楽しめる──というわけで、これは子どもにとって非常に好都合の
状況なのである。したがって、子どもは自分の好きな大人にこわい話をせがむことになる。
7. このように考えると、子どもたちにこわい話をしてとせがまれるのは自分が子どもたちに
信頼されていることの
証拠だとわかるし、喜んでそれに応じてやればよい。こんな話は「教訓的」ではないとか、こわい話ならもっとすごいのがテレビでも
映画でもあるのに、などと余計なことを考える必要はないのである。これは特に、おじいさん、おばあさんなどが、自分のような「古くさい」話はだめだと勝手にきめてかかっているのに対しても言えることである。古くてもいいから思い切って「おはなし」してみることである。
8. 子どもたちはこんなわけで「こわい話」を自分たちの好きな大人にしてほしいのだが、そんな機会は
急激に少なくなってしまった。そこで、『学校の
怪談』などという本を読んで楽しむより仕方なくなってきたものと思われる。心細い思いで子どもたちに一人で「こわい」体験をさせるのではなく、この際、大人たちはもう少し子どもに「おはなし」する機会をつくるようにしてはどうだろうか。
9.(河合
隼雄「おはなし おはなし」による)
長文 9.2週
1. 【1】この数年、おりおりに森を歩いている。
2. 日本列島で森といえば山のことだが、
私のは登山ではなくて森あるきだ。
頂上をめざしてひたすら登るという
年齢ではなく、そんな体力もないのだが、山のすそや
中腹の森をゆっくり歩いていると気が安まり心が満ちてくる。
3. 【2】谷川の石河原で
寝そべってみたら
若葉のざわめきと水の音と鳥の声につつまれている心地よさに、半日を過ごしてしまい、
日暮れどきになってそのまま帰って来たこともある。【3】
紅葉のブナの森を歩いていたら、その前から立ち去りがたい大きな木があちらにもこちらにもあって、そのときも気がつくと半日が過ぎていた。その日予定していた別の森には行かずじまいだった。なにも数多くの森をせっせと歩きまわることはない。【4】
訪ねた森の数や歩いた
距離をだれかと競うわけではないのだから、森の豊かな時間のなかに身を置いて、森の大きないのちの
鼓動を静かに
聴きつづける。時を
忘れさせる森では足はおのずとゆっくりになり、しばしば立ちどまってしまう。
4. 【5】そういう森で見かけるのが、
倒木だ。三人
抱え四人
抱えという大きな木が
倒れている。何百年かを生きてきて、半ば
朽ちて立っていた木が、ある日強い風に
倒されたのだろう。太い幹の
途中から折れて上部が地上に横たわっている。【6】
倒れたときの
衝撃でいくつかに分かれて
縦に
並んでいる
倒木もある。
5. 古くなった
倒木には
苔が生えている。
倒木の
割れ目にたまった土に
若木が育っていたりする。【7】
倒れた木そのものがもう半ば土のようになって、そこに育った木が
倒木同様に太くなり、
倒木をかかえて天にそびえているのも見かける。森はそういう生と死をはらんで大きないのちを生きつづけている。
6. 【8】
私の知るかぎり、時を
忘れさせるほどに豊かな森は、
倒木のある森だ。人工林には
倒木がない。
伐採されて
搬出を待っている木が
寝かされているだけで、自然の
倒木が次の世代の木を育てているということはない。【9】日本庭園にも
倒木を見かけることはまれで∵ある。自然の森を
模してあり、半ばは自然の森になっている庭園もあるのだが、ほんとうの森とちがうのはそこに
倒木のないことだ。
若木を育てたり虫たちが巣くっている
倒木がない。【0】まして、公園には
倒木がない。台風で
倒れることもあるだろうが、何日かしたらクレーン車などがやって来て
取り除いてゆくだろう。人工林にも日本庭園にも公園にも、自然の森に流れているあの豊かな時間はない。
7. ある森で、三人
抱えでは足りないほどの大きなブナの木が、上半分が折れ
倒れて、下半分ばかりが立ち
枯れているのに出会った。立っている幹は大きく
割れていた。近づいてみると
割れ目の上下に黒く
焦げた線が走っていた。
落雷でやられたのだろう。
巨木のこういう死もあるのだなと思いながら太い幹の
裏にまわってみると、おどろいたことに一本の太枝が張り出して豊かな葉を
茂らせていた。
8. 生と死がさまざまなかたちを見せているのが森というものだ。生と死を
精妙に織りなして、森という大きないのちが息づいている。
9.──高田
宏 東京新聞(3・1・13)「生命 はぐくむもの」のらんによる──
長文 9.3週
1. 【1】実は
私にもまったく同じ経験があったのである。それは四国の山々をヘリコプターで
視察したときのことであった。四国は日本有数の地すべり地帯である。【2】
吉野川の上流や
仁淀川の
流域など、近寄ることもむつかしいような
山崩れ地帯が
至るところにあって、しばしば大水害を起こしている。【3】そうした自然の
脅威とたたかいながら
過疎の山村の人たちが、治山、
砂防にとり組んでいる様子を空から調査する、二日間のフライトであったが、その帰りのことであった。【4】四月末であった。ヘリコプターが山の
斜面にそって高度を下げ、高知の空港へ向かっている。そのとき眼下に広がって見えたのは、山の
斜面も平野も波打ちぎわに
至るまで、一面の水、水、水。折から午前の太陽を
反射して、大地はことごとく鏡を張ったようであった。【5】
土佐特有のこの美しい風景は空からでなくとも望めるので、
是非皆さんにもおすすめしたいが、以来
私は以前にも増して、「水田はダム」との確信をもつようになった。以前にも増してお米の大切さを
訴えるようになった。【6】テレビのそのディレクターも
私も、「水」という一点に
視点をあわせてみれば、はたと思い当る風景は、同じだったのである。
2. 【7】ところでその水田地帯を歩くばあい、
私は次のような見かたをする。まず用水の
施設を見る。かつてのあの「ふるさとの小川」ののどかな風景は、いまではなくなってしまったけれど、ともかくも用水の水路や
堰など水の
施設を見る。【8】水路が放置され、雑草が
茂っていたり、ふちが欠けていたり、水面がゴミだらけだったりすると、「ああ、ここの農民はやる気がないな」と悲しくなり、逆に水路の手入れが行きとどいていれば、「この
困難な時代に、がんばってるなあ」と、うれしくなる。【9】日本の農業と水とはまさにそうした関係にある。
3. 同じようにして山を見るばあいには、つぎのように見る。金色の
稲穂波うつその水田風景が、平野から山すそへ、
沢あいの
段々畑へとはい上がっているようなばあいには、ひょいと上を見れば山もまた、まがりなりにも森林が守られている。【0】その逆に、昔の谷地田∵が放置され、雑草におおわれているようなばあいには、ひょいと山を見上げれば、山もまた放置され、
荒れている。日本の山は米が作っているからである。
4. その理由はこうである。日本列島の森林を支えている林業。その林業は独立しては成り立ちにくい産業である。自分の植えた木は自分の生きている間は
伐れず、孫子の代でなければ
収入にならないからだ。山村の人たちは、
沢あいの
段々畑の、その農作業の合間を見て山に入った。炭焼きも植林も農業と一体であった。山村で農業がやって行けないようで、どうして林業がやって行けるだろう。それゆえ
私は常にこういいつづけてきたものであった。日本の森林は米のもと、水も土も作ってきた。でもその森林を作ったのは米であった、と。
5. いま、緑、緑と世間も
専門家もかけ声ばかりはにぎやかである。けれども日本の農業をどの方向にもっていくべきかという、そんなところにまで眼をすえて、緑を語ろうとする者は残念ながら、いない。せめて読者の
皆さんだけは、風景を見る眼が変わってきて下さると、
私は思っている。
長文 9.4週
1. 【1】茶道や武道の世界には、「守・破・
離」という教えがあります。これはその人のレベルに応じて、それぞれの
段階でどのようなことを
実践すべきかを示したものです。【2】三つの
段階を
簡単に説明しておくと、「守」は決まった作法や型を守る
段階、次の「破」はその状態を破って作法や型を自分なりに改良する
段階、そして、最後の「
離」は作法や型を
離れて独自の世界を開く
段階です。
2. 【3】
一般的には、すべての学習は真似から始まります。手本
に従ってそれと同じようにすることを求められるのです。これがまさに「守」です。
3. 決められていることを生真面目に守るこの
段階は、
繰り返しも多く非常に
面倒だし、なによりもやっているほうは面白くもなんともありません。【4】そのためそこで
我を通して
自己流でいきたがる人がいます。しかし、自分の土台をつくるためには、素直に手本を真似るほうが結果として早く進歩することができます。
4. 【5】実際、初期の
段階で
我慢して手本の真似を
徹底的に
繰り返していると、そのうちに手本と同じようにやることの意義や、手本から外れたときに生じるデメリットが理解できるようになります。【6】ここまでくると「強制されて仕方なく守っている」というより、「自ら望んで守っている」という状態になります。やっていることの内容や
価値を自分なりに理解しているので、自分の意思で率先して手本を守るようになるのです。
5. 【7】ところで、世の中にはこの状態で満足してしまう人がたくさんいます。そのような人は、当然のことながらそれ以上の進歩はありません。
6. 本当に楽しいのはここからです。【8】この
段階まで来た人は、自分で
創意工夫をしながらいろいろなことが試せるようになります。内容を理解しているため、
従来の方法よりもっといい方法はないかと自分で
探すことができるからで、そのような能力があるのに何もしないのはもったいないことです。
7. 【9】そして、この状態がまさに作法や型を破る「破」の
段階です。基本的には、作法や型を手に入れて、そこからさらに出ようと意識して行動した人だけが進歩を続けられるのです。【0】もちろん、この∵ときの
試行錯誤はしっかりとした経験と
根拠に基づくものなので、初心者があてずっぽうで行動するのとはまったく
違います。決められた道から外れても、それによって
致命的な失敗を犯す
危険性は極めて低いし、むしろこのときの行動はより効率的で合理的な方法の
創出につながる可能性も大です。
8.
従来の作法や型を破るというのは、悪いことのように思えます。しかし、変化のあまりない業界ではともかく、現実の世界ではそのようにしなければいけない場合は意外にたくさんあります。
9. それは時代の変化とともに、周囲の条件の変化も必ず起こっているからです。こうした場合は
従来の作法や型をそのまま使うことに無理が生じるわけですから、それに合わせて作法や型を変えていくのはむしろ当然といってもいいでしょう。何より条件が変わっているのに
従来の作法や型をそのまま使い続けていることのほうが、問題であり
危険なことなのです。
10. いずれにしても、このような
試行錯誤を何度も
繰り返した人は、理解と経験に基づいてこれまでとはまったく別のものを自分の力で新たに生み出すことができます。これが最後の「
離」の意味です。このレベルにある人は、
従来の技術やシステムを常に効率よく運用できるだけでなく、制約条件の変化や外部からの新たな要求に合わせて全体をつくり変えることもできます。それゆえ「
離」に
到達した人は「
優れた
創造力の持ち主」とされているのです。
11.(畑村
洋太郎『組織を強くする 技術の伝え方』(講談社)より)