1.
僕は一度だけ
塾に通ったことがある。
2. 小学校の六年生から中学の一年生の春までの間で、場所は北海道の帯広だった。
塾の名前は正式の
名称があったはずだが、今や覚えているのは
狸塾という
通称のほうだけだ。(別名ぽんぽこ
塾と
呼ばれていた)何故その
塾に通いだしたのかは
忘れてしまった。多分同級生がそこへ通っていたからだろう。あの
頃、
僕には三人の仲間がいた。
3. ありもり、おのだ、まなべ、の三人である。
僕を
含めて四人は学校が終わると毎日自転車をとばして
塾へ通うのだった。雨の日も風の日も
僕らは自転車でそこへ通っていた。競争するように競って、びゅんびゅん風を切って走っていたのである。
4. そうだ、今思い出した。
僕がそこへ
彼らと通うようになったのには、ちょっとした理由があったのだ。同じクラスのあやべさんという女の子がやはり通っていたからだ。
僕は
彼女のことがきっと好きだったのである。どうもまだ愛とか
恋とかその手の感情に
鈍感な時期だったので、あれがそういう感情のものだったかどうかちょっと自信がないのだが、授業中
彼女のきりりとした横顔を見るのがすきだったことは確かだった。その横顔をもっと見たくて勉強の
嫌いな
僕は
塾通いを決心したのである。あやべさんは帯広の大きな病院の
令嬢で、ゴトウクミコにまさるともおとらない美形(いや、これは信じて
頂くしかないのだが)な才女だったのだ。学校では当然人気者で、
僕などそうやすやすと近づくことさえできなかったのである。だから、
僕は
彼女と同じ
塾へ通うことにしたのだ。(中略)
5.
僕らは
塾帰りに、
途中の国道
沿いの雑貨屋で
肉饅を買って食べる習慣があった。季節が変わり寒くなりはじめると湯気の
昇る肉
饅を食べることが
凄く楽しみになるのだ。北海道の夜空は星が高く、きらきらと散りばめるように灯っていて
吸い込まれそうだった。
僕らは肉
饅を口いっぱいにほおばりながら、その
神秘的な
輝きを見∵つけていた。大きな星空を見ていると、自分たちの
存在の小ささに気を失いそうになった。
6.
僕らは
微妙な
年頃であった。
恋を知り、物事をわきまえ始める
年齢であったのだ。
7.「なあ、ニック。君は
誰か好きな女の子はいるのかい」
8. ジョンは
缶コーヒーを
啜りながらそういった。
9.
僕は思わず食べていた肉
饅が
喉に
詰まりそうになって、一度
咳払いをするのだった。
10.「なんだよジョン、いきなりそんなことききやがって」
11.(帯広はあまり方言らしい方言がなく、
殆ど標準語であった。それから
僕らの
年齢の
子供たちはテレビの
影響もあって、東京風の言葉を使うのがかっこいいとされていたのである。
僕は直ぐに土地の言葉や習慣になれる才能を持っていたのだ。それがないと転校生は
余所の土地では生き残ってはいけないからだ)
12.「お、顔が赤いぞ。さては図星君だな」
13. ジョンがそういって
僕の
肩を
叩くので、
僕は思わず目を
伏せてしまった。
14.「だれだよ、ニックは
誰が好きなんだ」
15. ロバーツが
煽る。
16.「ひゅー、ひゅー」
17. サムはポケットに手を
突っ込んだままマフラーに首を
竦めて
僕を冷やかした。(中略)
18.
僕は夜空を見上げた。星の
瞬きがキャサリンのウインクのようで
胸がときめいていた。
沢山の
初恋を経験していたが、多分あのときの感情が
僕の本当の
恋の第一歩ではなかったかと思うのだ。
胸がときめくということを知ったのはまず
間違いなく(断言はできないが)キャサリンが最初の女性であった。
19.(
辻仁成「キャサリンの横顔」)