長文集  4月1週  ○脳の研究をしていて  ma-04-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2017/03/14 10:47:53
【長文が二つある場合、音読の練習はどちら
か一つで可。】
 【1】白いラブラドール・レトリバーが横
断歩道のところで、おとなしくおすわりをし
ていた。信号が青になると、すっと立ち上が
り、急ぐでもなく遅れるでもなく、横にいる
人と同じペースで静かに歩き出した。【2】
若い盲導犬の訓練風景を見たとき、こういう
犬がいることによって外出が可能になる人も
多いのだろうと感心した。盲導犬の訓練は、
人間に忠実な犬の性格があるからこそでき 
る。その証拠に、ペットとして猫を飼ってい
る人は多いが、盲導猫というのは聞いたこと
がない。【3】獰猛猫ならたまにいるが。頼
れる動物という点では、犬の右に出るものは
いない。私たちは、この「頼る」ということ
をもっと生活に生かしていく必要がある。
 その理由は第一に、頼ることで自分の本当
にしたいことの能率が上がるからだ。【4】
コンピュータ・プログラミングの世界では、
「車輪を作るな」ということが言われる。人
類の歴史で最初に車輪を発明した人は、最初
に文字を発明した人と同じように、その後の
人類の歴史に大きな貢献をした。車輪は、現
在の交通手段のほとんどに欠かせないものだ
。【5】しかし、荷車を作る人が、自分のオ
リジナルなものを作りたいからといって車輪
を作ることから始めたら、人間の歴史は進歩
しなかっただろう。先人が既に発明した車輪
を前提にして、その土台の上に仕事をするこ
とが能率のよい発展につながったのだ。
 【6】頼ることを生かすという第二の理由
は、頼りたがらないときの心理が往々にして
、消極的な気持ちから来ているからだ。自信
のない人ほど人に聞くのを恥ずかしがるとい
うことがある。よくわからないことは素直に
聞くということが自分の向上にもつながる。
【7】アウト・ソーシングという手法は、自
分の苦手なことは他人に任せるという考えに
基づいている。サッカーのようなチーム・プ
レーでも、自分ひとりでゴールをねらうので
はなくチーム全体として勝つという発想が必
要だ。∵
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 確かに、自分の力でやりぬくという気迫も
人生には必要だ。【8】小さい子供は、失敗
を恐れずに何でも自分の手でやりたがる。し
かし、それは、自分の手でやることが本人の
成長に結びついているから必要なのだ。私た
ちは、自分の手でやりとげるためにこそ、他
人の手を生かすという考え方をする必要があ
る。【9】盲導犬が必要な人も確かにいる。
しかし、それは、その人が自分の目的を達成
するために頼る方法なのであって、決してラ
ブラドールが主人なのではない。最後の一歩
を自分の足で歩くために、途中の行程はさま
ざまな手段に頼るということなのである。【
0】

(言葉の森長文作成委員会 Σ)∵
 【1】脳の研究をしていてしばしば尋ねら
れることの一つが、頭の良さは遺伝で決まる
のか、それとも環境で決まるのか、というい
わゆる「氏か育ちか」の問題である。
 一卵性双生児を対象とした研究などによれ
ば、知能指数といった指標で測られる知性に
与える遺伝子の影響は大体半分くらいらし 
い。【2】しばしば、保守的な人は遺伝子の
、リベラルな人は環境の影響を重視する傾向
があるが、そう簡単に政治的立場だけで決め
つけられる問題でもない。遺伝子の影響が全
くないはずはないし、育てられ方で変わらな
いはずもない。【3】天才科学者の子どもが
必ず天才になるわけではないし、親が勉強嫌
いでも、子どもは向学心に燃える、というこ
とはある。氏と育ちは、半々くらい、という
のは、私たちの常識的なセンスに照らしてみ
ても、妥当な線であ る。【4】別の言い方
をすれば、今の科学の水準では、そのような
「常識的なセンス」を越えるような結論は得
られないということになる。
 それにしても、「頭の良さは、遺伝か、そ
れとも育てられ方  か?」と質問されて、
「氏と育ちは半々である」と答えるだけで 
は、あまりにも芸がない。【5】何よりも、
学問としての深みがない。何かもっとうまい
答え方はないものか、と折に触れて考えてい
た。
 先日、漫画家の萩尾望都さんと対談した時
のことである。打ち合わせの時に、萩尾さん
が、「今日は茂木さんに、遺伝子と環境、ど
っちが重要なのか、お尋ねしたいと思ってい
ます」と言われた。【6】さて、これは困っ
た、と思った。何時ものように、「半々なの
ですよ」と答えるのでは、あまりにも芸がな
い。萩尾さんのようなカリスマ漫画家には、
もう少し気の利いたことを言いたい。何とか
しなければ、と思いながら廊下を歩いている
うちに思いついた。【7】人間、追いつめら
れると何とかなるものである。
 人間の知性の本質は、その「終末開放性」
(open ended ness)にある
。そのことが、「氏か育ちか」ということを
考える上で、本質的な意味を持つと直覚した
。【8】このアイデア一つの向こうに、様々
な問題群が広がっていることもすぐにわか 
り、私∵はほっとすると同時に嬉しかった。
「半ばは遺伝で、半ばは環境である」といっ
た回りくどく「政治的に正しい」言い方の不
自由さにはない、学問的広がりがそこにある
ように感じたからである。
 【9】人間の脳は、心臓と同じで、休むこ
とがない。それに伴って、脳内の回路は一生
学習をし続ける。大人になっても、脳の組織
が完成して固定化してしまうことなどなく、
神経細胞のシナプス結合のパターンは生涯の
間変化する。ここまで回路ができあがった 
ら、それで完成ということはないのである。
【0】
 従って、人間の脳の回路が、遺伝子によっ
て決まっていたとしても、その「完成形」は
原理的に存在しないことになる。たとえその
最終的な「落ち着きどころ」(物理的に言え
ば、「熱力学的準安定状態」)が存在したと
しても、せいぜい百年の寿命しかない人間の
生涯では、そのような最終形を取るには至ら
ない。人間の才能が、仮に遺伝子によって完
全に決定づけられていたとしても、私たちは
その最終的帰結を見ないままに、死んでいっ
てしまう。内なるポテンシャルを十全に発揮
しないうちに人生が終わってしまう無念は、
アインシュタインやモーツァルトのような天
才も、凡夫も変わることがないのである。
 人間の知性は、いつまで経っても完成形を
迎えることのない「終末開放性」をその特徴
としています。だから、たとえ、遺伝子によ
ってかなりの部分が決まっていたとしても、
実際的な意味では決まっていないのと同じな
のです。遺伝子によって決まっているという
運命論など気にすることなく、前向きに生き
れば良いのです。
 対談中、そのように萩尾さんに申し上げた
ら、「ああそうです か」とおっしゃる。そ
れから、「じゃあ、茂木さんのクローンを百
代続けて作れば、遺伝子に書き込まれていた
帰結が見えるのかし ら」と畳みかける。そ
れはそうかもしれないが、単純にクローンを
作成するだけでは、脳回路はリセットされて
しまうから、最初からやり直さなければなら
ない。本格的にやろうとすれば、クローンを
つくる時に百歳の私の脳回路を「コピー」し
なければならないが、そんな技術はもちろん
存在しません。そう申し上げて、対談を切り
抜けた。
 (茂木健一郎『欲望する脳』)