1. 【1】話し上手の人がいます。しかし、その人をおしゃべりとは呼ばないでしょう。そのことを私なりに考えてみますと、
饒舌の人は、とかく「
間」をとることに気が回らなかったり、「間」の必要を感じていない場合が多いのに対して、話し上手とよばれる人は、意識して、あるいは無意識のうちに、うまく「間」をとり入れている
違いがあるように思います。
2. 【2】「旅は道づれ」と言いながら、おしゃべりの人といっしょの長旅には
疲れるという人は少なくないでしょう。
3. また、相手とのあいだの
沈黙の時間に
耐えがたくて、「
サーヴィス」の気持ちから何とかおしゃべりして「間を持たせる」というときも確かにあります。
4. 【3】相手が何と思おうとわたしゃ知らぬとばかり構えて口を閉じていられる人はいいのですけれど、
心遣いがこまやかであると、とかくこういう場合、口数が多くなります。
5. 【4】しかし、困るのは、「
サーヴィス」のつもりがいつのまにか自己弁護や自己
顕示になり、果ては自己
陶酔になっているのにも気づかずという場合です。
6. 【5】いかなる名言、名文句も、同類のものがただすきまもなく積み重ねられるだけでは効果
乏しく、文章の力みも、ただそればかりでは弱みに転じてしまうのは苦い教えです。
7. 【6】
適宜、風を
吹かせながらの
饒舌であれば、聞き
逃されることも少なく、風のあいだに相手が連想し想像し思考する
余裕を
与えておいて、
更にたたみかけるのもいいでしょう。【7】風も通さない
饒舌は、聞いているほうも苦しくなり、終わった時には、さて、何を聞いたのかということにもなりかねません。
8. 【8】
余韻とか余情、ふくみ、それらはすべて、「間」のいかし方にかかわっているように思われます。思わせぶりな「間」は、いい
余韻にも余情にもならないでしょう。とすると、自然に「間」を必要とするのは、必要とするだけの実質をそなえているもの、ということになるのでしょうか。
9. 【9】
荻須高徳のパリの風景画で、忘れられない
油彩があります。号数を正確には言えません。
畳三分の一
帖くらいと思ってくださ∵い。空も建物も道もうす暗いパリの町角。ただ一点、遠景の
塔らしきものに
朱が入っていて、そこに向かって画面が
収斂されていくのです。
10. 「間」のことを思う時に、私はよくこの
朱色を見ています。【0】
11.(竹西
寛子『国語の時間』による)
12.
饒舌…多弁なこと。おしゃべり。
13.自己
陶酔…自分自身にうっとりすること。
14.
適宜…その場合・
状況にぴったり合っていること。
15.
荻須高徳(一九〇一〜一九八六)…洋画家。
16.号数…絵画作品の大きさを示すのに用いる番号。
17.
収斂…一点に集まること。