長文 4.1週
1.【長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。】
2. 【1】白いラブラドール・レトリバーが横断歩道のところで、おとなしくおすわりをしていた。信号が青になると、すっと立ち上がり、急ぐでもなく
遅れるでもなく、横にいる人と同じペースで静かに歩き出した。【2】若い
盲導犬の訓練風景を見たとき、こういう犬がいることによって外出が可能になる人も多いのだろうと感心した。
盲導犬の訓練は、人間に忠実な犬の性格があるからこそできる。その
証拠に、ペットとして
猫を飼っている人は多いが、
盲導猫というのは聞いたことがない。【3】
獰猛猫ならたまにいるが。
頼れる動物という点では、犬の右に出るものはいない。私たちは、この「
頼る」ということをもっと生活に生かしていく必要がある。
3. その理由は第一に、
頼ることで自分の本当にしたいことの能率が上がるからだ。【4】コンピュータ・プログラミングの世界では、「車輪を作るな」ということが言われる。人類の歴史で最初に車輪を発明した人は、最初に文字を発明した人と同じように、その後の人類の歴史に大きな
貢献をした。車輪は、現在の交通手段のほとんどに欠かせないものだ。【5】しかし、荷車を作る人が、自分のオリジナルなものを作りたいからといって車輪を作ることから始めたら、人間の歴史は進歩しなかっただろう。先人が
既に発明した車輪を前提にして、その土台の上に仕事をすることが能率のよい発展につながったのだ。
4. 【6】
頼ることを生かすという第二の理由は、
頼りたがらないときの心理が往々にして、消極的な気持ちから来ているからだ。自信のない人ほど人に聞くのを
恥ずかしがるということがある。よくわからないことは素直に聞くということが自分の向上にもつながる。【7】アウト・ソーシングという手法は、自分の苦手なことは他人に任せるという考えに基づいている。サッカーのようなチーム・プレーでも、自分ひとりでゴールをねらうのではなくチーム全体として勝つという発想が必要だ。∵
5. 確かに、自分の力でやりぬくという
気迫も人生には必要だ。【8】小さい子供は、失敗を
恐れずに何でも自分の手でやりたがる。しかし、それは、自分の手でやることが本人の成長に結びついているから必要なのだ。私たちは、自分の手でやりとげるためにこそ、他人の手を生かすという考え方をする必要がある。【9】
盲導犬が必要な人も確かにいる。しかし、それは、その人が自分の目的を達成するために
頼る方法なのであって、決してラブラドールが主人なのではない。最後の一歩を自分の足で歩くために、
途中の行程はさまざまな手段に
頼るということなのである。【0】
6.(言葉の森長文作成委員会 Σ)∵
7. 【1】脳の研究をしていてしばしば
尋ねられることの一つが、頭の良さは遺伝で決まるのか、それとも
環境で決まるのか、といういわゆる「氏か育ちか」の問題である。
8.
一卵性双生児を対象とした研究などによれば、知能指数といった指標で測られる知性に
与える遺伝子の
影響は大体半分くらいらしい。【2】しばしば、保守的な人は遺伝子の、リベラルな人は
環境の
影響を重視する
傾向があるが、そう簡単に政治的立場だけで決めつけられる問題でもない。遺伝子の
影響が全くないはずはないし、育てられ方で変わらないはずもない。【3】天才科学者の子どもが必ず天才になるわけではないし、親が勉強
嫌いでも、子どもは向学心に燃える、ということはある。氏と育ちは、半々くらい、というのは、私たちの常識的なセンスに照らしてみても、
妥当な線である。【4】別の言い方をすれば、今の科学の水準では、そのような「常識的なセンス」を
越えるような結論は得られないということになる。
9. それにしても、「頭の良さは、遺伝か、それとも育てられ方か?」と質問されて、「氏と育ちは半々である」と答えるだけでは、あまりにも芸がない。【5】何よりも、学問としての深みがない。何かもっとうまい答え方はないものか、と折に
触れて考えていた。
10. 先日、
漫画家の
萩尾望都さんと対談した時のことである。打ち合わせの時に、
萩尾さんが、「今日は
茂木さんに、遺伝子と
環境、どっちが重要なのか、
お尋ねしたいと思っています」と言われた。【6】さて、これは困った、と思った。何時ものように、「半々なのですよ」と答えるのでは、あまりにも芸がない。
萩尾さんのようなカリスマ
漫画家には、もう少し気の利いたことを言いたい。何とかしなければ、と思いながら
廊下を歩いているうちに思いついた。【7】人間、追いつめられると何とかなるものである。
11. 人間の知性の本質は、その「終末開放性」(open ended ness)にある。そのことが、「氏か育ちか」ということを考える上で、本質的な意味を持つと直覚した。【8】このアイデア一つの向こうに、様々な問題群が広がっていることもすぐにわかり、私∵はほっとすると同時に
嬉しかった。「半ばは遺伝で、半ばは
環境である」といった回りくどく「政治的に正しい」言い方の不自由さにはない、学問的広がりがそこにあるように感じたからである。
12. 【9】人間の脳は、心臓と同じで、休むことがない。それに
伴って、脳内の回路は一生学習をし続ける。大人になっても、脳の組織が完成して固定化してしまうことなどなく、神経
細胞のシナプス結合のパターンは
生涯の間変化する。ここまで回路ができあがったら、それで完成ということはないのである。【0】
13. 従って、人間の脳の回路が、遺伝子によって決まっていたとしても、その「完成形」は原理的に存在しないことになる。たとえその最終的な「落ち着きどころ」(物理的に言えば、「熱力学的準安定状態」)が存在したとしても、せいぜい百年の
寿命しかない人間の
生涯では、そのような最終形を取るには至らない。人間の才能が、仮に遺伝子によって完全に決定づけられていたとしても、私たちはその最終的帰結を見ないままに、死んでいってしまう。内なるポテンシャルを十全に発揮しないうちに人生が終わってしまう無念は、アインシュタインやモーツァルトのような天才も、
凡夫も変わることがないのである。
14. 人間の知性は、いつまで経っても完成形を
迎えることのない「終末開放性」をその
特徴としています。だから、たとえ、遺伝子によってかなりの部分が決まっていたとしても、実際的な意味では決まっていないのと同じなのです。遺伝子によって決まっているという運命論など気にすることなく、前向きに生きれば良いのです。
15. 対談中、そのように
萩尾さんに申し上げたら、「ああそうですか」とおっしゃる。それから、「じゃあ、
茂木さんのクローンを百代続けて作れば、遺伝子に
書き込まれていた帰結が見えるのかしら」と
畳みかける。それはそうかもしれないが、単純にクローンを作成するだけでは、脳回路はリセットされてしまうから、最初からやり直さなければならない。本格的にやろうとすれば、クローンをつくる時に百
歳の私の脳回路を「コピー」しなければならないが、そんな技術はもちろん存在しません。そう申し上げて、対談を
切り抜けた。
16. (
茂木健一郎『欲望する脳』)
長文 4.2週
1. 【1】ふだん私たちは、コインを丸いものと見なしている。そして、百円玉、十円玉などと言う。もちろん、「丸い」とか「玉」と言っても、それは決してビー玉のような球形ではなく、つまり、正確には
円盤形のことだと、
誰でも承知している。【2】コインをテーブルなどの上に置いたとき、あるいは
床や地面に落としたとき、見おろすと丸く見えるということだ。コインが自然に安定しやすい姿勢で置かれているとき、人間の視線の自然な角度から見ると、丸い。そこで、私たちは、「コインは円形だ。」という文を承認する。
2. 【3】けれども、もちろんコインは、年じゅう円形に見えるわけではない。水平方向から
眺めれば、あきらかに、
薄い長方形に見えるはずだ。短い棒状に見えるはずだ。そして私たちには、そんなことはわかりきっているように思われる。【4】しかし、ものはためしに「コインは長方形だ。」という文を口に出して言ってみると、なぜか、まことに異様な発言をしているような気がする。
3. 私たちは日常において、いつもある視点からある光景を見る。【5】視点だけではなく、人間の認識
一般は、ある立場からの有限のアプローチである。その有限性は、たいてい、言語表現に反映してあらわれる。ある位置にあぐらをかいたまま、
腕を組んで
眺めているだけでは、ものの真相はよく見えない。【6】自分の認識が――したがって自分のことばが――有限で一面的だと、いつも承知している人は、やがて、実験的に自分の視点を変え、多様なアプローチをこころみることになる。
4. 文学作品などにおいても、おなじひとつの事実を、きわめてことなることばで言いあらわすことがある。【7】視点がちがう。そのちがいは、おなじひとつのコインに対して「円形である」および「長方形である」という、まるで別の見かたが成立した事情と似ている。そして、そういった表現は、ヨーロッパに古くから伝えられた、たくみに表現する技術体系であるレトリックと深い関係にある。
5. 【8】レトリックは、私たちの認識と言語表現の
避けがたい一面性を自覚し、それゆえに、もっと別の視点に立てばもっと別の展望がありうるのではないか……と探求する努力のことでもある。創造力と想像力のいとなみである。
6. 【9】たとえば、枝からはなれた果実が地面へ落ちるという事態を
目撃したとき、たんに「りんごが地面へ落ちた」と考えるだけでは満足しないことである。【0】ことによると、「りんごに向かって地面が
突進してきた」とも考えられはしないか、あるいは「りんごと地∵面はたがいに引きつけ合った」と考えるべきではないか……と、さまざまな想像力を働かせることであろう。レトリックとはそのように多角的に考え、かつ多角的なことばによって表現してみることである。レトリックは発見的な認識への努力に近い。
7. こんにち、価値の多様化ということがしばしば問題になる。それは、ものの見かたの多様性という問題でもある。ひとつの事実を
眺め、表現するにあたって、すべての人が、まるで統制を受けたかのように、おなじ視点からおなじことばで語る、という時代ではあるまい。人と人とが理解し合うことも、容易ではない。自分の視点と自分のことばづかいだけが正しいと信じきっている人は、想像力ないし創造力を欠いているために、自分とはことなる立場から見える景色を思いえがくことができない。
肝心なのは、相手の立場、別の視点に立ってみればどんなぐあいにものが見えるか、ということを思いえがいてみる能力である。
8. このように考えてみると、レトリック感覚は、発見的な認識には欠くことができない上に、人をできるだけよく理解するためにこそ必要なのだ、ということになる。新しい視野を
獲得するためにも、また、
相互理解のためにも、こんにちほどレトリック感覚の必要とされるときは、かつてなかったように思う。
9.(
佐藤信夫「レトリックの記号論」による。)
10.(注)アプローチ=接近すること。
長文 4.3週
1. 【1】いつから世の中が
矛盾を
恐れるようになったのか知らないが、頭から悪いものと決めてかかっている人が多い。白が黒であって、空腹のときはものを食わない、などという話が横行しても
はた迷惑であろうが、雨が降れば天気が悪いといった理に合いすぎた命題でいっぱいになってもことである。
2. 【2】どうも、
矛盾には、良いものと悪いものがあって、
嫌われる、いわゆる
矛盾は、良いものを除外して考えているようである。劇薬には病気を治すものがたくさんあるが、不用意に使えば命とりになりかねない。【3】どれもこれも毒として敬遠した方が安全である、というのにいくらか似たところがある。
3. 同じ平面の上を、反対方向から進んで来た二つの同じ力がぶつかれば、両者は
互いに相殺し合って、運動のエネルギーは
消滅してしまう。
避けなくてはならない
矛盾とはこの相殺の論理のことであろう。【4】数学的に言えば、プラスとマイナスの和である。プラス5とマイナス5を加えるとゼロになる。
無為無能の状態である。こういう結果を招くような対立と
矛盾がつまらぬものであるのははっきりしている。
4. 【5】こうして、一度、
矛盾が不毛だと知れると、われもわれもと論理性へ走る。かくして、論理はかくれた
信仰の一つにすらなっていると言えそうである。
5. 論理が前提としているのは、同一次元での
一貫性のある連続である。【6】
飛躍はいけない。テーマの
錯乱もこまる。一筋に論理の糸がつながっているのが
純粋で、美しいと感じられる。これなら、対立や
撞着もしのびこむ余地がなくて安心である。
6. 【7】しかし、このように
戦々恐々として一筋を守らなくては乱れてしまうのであるとしたら、いわゆる論理とは何と貧寒なものだろう。論理的
一貫性とは、裏返してみれば、同類同質的なものが
猫の子一
匹も通さぬような近接状態で
数珠つなぎに並んでいることにすぎないではないか。
7. 【8】人々は、しかし、いわゆる論理なるものが塩の入らぬしるこのように間の
抜けたものであることを直観で感じてはいる。口に出し∵て言うのをはばかっているにすぎない。芸術では、この単純な合理にいろいろと仮名をつけて、そっとお引き取り願っている。【9】この平面論理という暴れん
坊に
踏み込まれたら、いかなる芸術の花も台なしになってしまうからである。詩における
理屈はその一例であるにすぎない。月並みの句などということばは、かすかな平面的連続を
敏感にかぎつけて、それを
嫌ったものと見ることができる。【0】
8.(
外山滋比古「省略の文学」から)
9.
撞着…前後が
食い違ってつじつまが合わないこと
長文 4.4週
1.【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
2. 妹が
隆に、あんなのほしかったなあ……と、小さな声で言ったのは、夏も終わりのころのことであった。
隣の屋根でのんびり
寝そべっている
野良猫を見てのことばである。「母さんの
猫嫌いは知ってんだろ」。「ううん、
違うの。お祭りのときお店で見かけた
招き猫なの」。「どの店だよ? 」。「七味とうがらしの出店」。「……そりゃ、今さら無理だよ」。「だからもういいの」。これだから困るのである。
隆は
招き猫探しにでかけることにした。
3.
招き猫を
飾ってある店は見かけても、売っている店はたいそう少なかった。土産物店で見つけても、いやに小さくて貧相なのである。やっぱり秋祭りまで待つしかないか・・・・・と、
隆は思った。しかし、
珍しく妹がほしがったことを考えると、
隆は何とか早いとこ見つけて持ち帰り、妹を
驚かせてやりたかった。自分も気に入り、妹も一目で気にいるやつを早いとこ見つけたかった。
4. それが、ないのである。
招き猫にも、実にいろんな人相(?)のものがあることに、
隆は初めて気がついた。大きさ、姿、表情、色……と
四拍子そろって、一目ぼれできる
招き猫となると、売り物どころか、見かけるのだってむずかしいことに、
隆はやっと気がついた。
5. 思いあぐねて
明のやつに相談することにした。話を聞いた明は、
隆の顔をまじまじと見つめた。「
招き猫だなんてお前、どういう
趣味なんだ。おれの親友だとは思えん。ほしがるにこと欠いて、そんなおじんくさいもの、目をつけやがるなんて」。「すまん、じつはほしがっているのは妹なんだ」。そう打ち明けると、明の態度はがらりと変わった。
6. 妹の
趣味まで何か言われそうだとかまえていた
隆は
肩すかしをくらった感じだった。同時にもう一つの何かも感じていた。「いっしょに探してやるよ」。明のやつは急に親切になった。
7.(
今江祥智『今日も
猫日和』)∵
8. 【1】じつは私は二〇代前半まで、旅行好きというには程遠かった。身体を動かすことは
大嫌いで、部屋にこもって音楽を
聴いたり本を読んだりするのを好む人間だった。旅らしいことといえば、東京から大分までの帰省を毎年三回ほどするくらいだった。
9. 【2】ところが、大学院でフランス文学を勉強しはじめたころから、フランスに行ったことがないのでは話にならないという気になりはじめた。そこで、
奨学金を貯め、親にも
援助してもらって、一九七七年の三月、初めてフランスを訪れた。【3】まだ成田空港は開港しておらず、パリもまだオルリー空港を使っていたころだ。格安料金の
大韓航空機を利用して、ソウル、アンカレジ周りで二四時間以上かけてパリに行った。ついでに、ドイツ、オーストリア、イタリアにも足を
伸ばすことにした。
10. 【4】そして、ヨーロッパでしばらく過ごすうち、フランスという国に関心を持つという以上に、旅行そのものに目覚めてしまったのだ。
11. 旅行の最大の楽しみ、それは「
驚き」と「うろたえ」だ。
12. 外国の観光地を見る。生活を見る。そこで行動して、人間に
触れる。【5】これまでと
違った価値観に
遭遇する。日本にいて予想していたのとまったく
違う光景、まったく
違う反応に出会う。そして、
驚き、うろたえる。
13. 日本人としては、それでもなお日本式の生活をしようとすることもある。だが、そうすればするほど、困った事態に
陥る。【6】だが、それがまた楽しい。それまで絶対的に真実と思っていたことが
揺らぎ、これまでの価値観が
揺り動かされる。
14. 最初の旅行でまず
驚いたのは、道を歩くのは、きれいに
着飾った白人のパリジャンやパリジェンヌばかりではないということだった。【7】そもそもパリは白人だけの都市ではなかった。私はモンパルナスの一つ星の安ホテルを基点にしてパリ見物をはじめたが、歩く場所によっては、目に入る人間の一〇〇パーセントが有色人種だということも
珍しくなかった。【8】地下鉄に乗っても、有色人種のほうが多いということがしばしばあった。しかも
着飾っている人は少ない。ジーンズに革ジャン姿が
圧倒的に多い。日本で予想していたような上品な白人はめったに見かけない。∵
15. 数日後、フォブール・サントノレを歩いた。【9】日本でいえば銀座のようなところだ。そこで初めて頭の中で想像していたパリの光景に出会えた。エレガントなパリジェンヌがいた。
16. そこで気がついた。
貧乏学生である私がほっつき歩いていたのは、貧しい地域だったのだ。【0】そこには、貧しい白人や有色人種が多かった。フランスは階層社会だったというわけだ。しかも、すでにフランスにはアラブ系、アフリカ系の移住者が
押し寄せ、その人たちが新たな下層社会を作り上げていた。(中略)
17. 最初のヨーロッパ旅行で、私はこのような光景を見るうち、旅というものの楽しさを知ったのだ。そして、それが病みつきになり、その後、時間とお金に少し
余裕ができてからは毎年のように海外旅行に出かけた。
18.(中略)
19. ときには異文化のなかにかつての日本と同じような光景を見かけて、人間の
普遍性を痛感することもある。日本とまったく文化の異なるフランスでも、日本人と同じような反応にしばしば出会った。一九九四年には友人とラオスに行って、メコン川の川原で
凧揚げをして遊ぶ子供たちを見て、四〇年前、九州の片田舎の川原で遊んだ自分の姿が重なった。
20. 私は、旅行での様々な
驚きやうろたえや失敗の経験を書き
綴ってきた。
21. もちろん、この程度の旅で大旅行家などとはいえない。私はたかだか三〇
ヵ国を旅行したに過ぎない。私よりもたくさんの旅行をし、たくさんの経験をした人は多いだろう。
22. だが、私は幸い、ほかの人よりも自由な仕事についていたため、勝手気ままにあちこちを動き回ることができた。冷戦時代の
東欧六
ヵ国を
含む六〇日間の
新婚旅行、
朝鮮民主主義人民共和国(
北朝鮮)旅行、カンボジア旅行などにも出かけることができた。しかも、
好奇心
旺盛で、なおかつおっちょこちょいときているので、あちこちで少々危険な目にあった。そして、そのおかげで、自分の目でその時代その時代の社会を見て、様々な経験をし、
驚き、うろたえることができた。今となっては、これは私の財産といえるものだ。
23. (
樋口裕一『旅のハプニングから思考力をつける!』)
長文 5.1週
1.【一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。】
2. 【1】体育の先生のどなり声が飛んだ。集合するときの集まり方がだらしなかったということで、私たちは全員正座をして先生の説教を聞くことになった。【2】目をつぶって聞くようにと言われたが、私は
途中からそっと
薄目をあけてみんなの様子をうかがった。すると、話をしている先生の顔が見えた。先生は、意外と
穏やかな顔で、声の調子だけは厳しいまま話を続けていた。
3. 【3】私がこの
怖い先生の気持ちがわかったのは、自分が
先輩という立場になり、
後輩を
叱る場面を経験するようになってからだ。
叱るということは、
叱る側に
気迫がないとできない。【4】その
気迫は、相手に対する思いやりから来ている。よく子供を
叱れるのは親だけだというが、それは親が心から子供のことを考えているからだろう。【5】その点で、他人の子供を自分のことのように
叱れる怖い先生は、貴重な存在だということができるだろう。
4.
吉田松陰は、
獄中から門下生に激を飛ばす激しい一面があるとともに、どのような人にも優しい態度を
貫いた教育者だった。【6】
松陰の
捕らえられた
獄舎には、世間から見捨てられた犯罪人ばかりがいたが、それらの人々がやがてみんなで
松陰の講義を
聴くようになった。
5. 【7】優しい先生ということでは、ヘレン・ケラーを教えたサリバン先生も挙げられる。障害を持って生まれたために
甘やかされ、わがままに成長したヘレン・ケラーを、サリバンは心を
込めて導いた。
6. 【8】このように考えると、
怖い先生、優しい先生といっても、それが何のための
怖さであり、何のための優しさであるかと考えることが重要だ。
怖さと優しさは表面的には正反対のように見えるが、その底にあるのは相手に対する思いやりだ。【9】その思いやりの根本には、その人の確かな人生観がある。問われるのは、相手が
怖いか優しいかということではなく、それを受け止める自分自身の生き方である。どなり声の向こうにある本当の心を見ていくことが大切なのだ。【0】
7.(言葉の森長文作成委員会 Σ)∵
8. 【1】数年前、森林関係の研究所に勤務している研究員のところに、ある村の村長が訪ねてきた。その村の森には、それほど多くはないけれど、いまでは希少価値になった天然のヒノキが大きく育っているのだという。【2】そのヒノキをいちばん高く売るにはどうするのがよいのかが村長の問いだった。研究員はいろいろしらべたうえで、後日その方法を教えた。それは
玄関の表札にして売るのが有利だというものだった。
9. ところがそう話したら、村長はきわめて
不愉快そうな顔をした。【3】
樹齢二百年を
超えた大木が、柱になった後も堂々と建物を支えつづけ、生きつづける姿を
思い描いていた村長には、それが細切れにされることなど、容認できることではなかったのである。商品価値を高めることが、木を
侮辱することであってはならないと思った。
10. 【4】「それがあの
頃いちばん高く売る方法だったのに」
11. 研究員は私にその話をしてから、「しかし、村長の気持ちもわかるし」と言って楽しそうにわらった。自分の提案が
拒否されたことは、
彼にとっても
愉快な出来事だったのである。
12. 【5】木が本来もっている価値を生かすことと、商品として木を高く売ることは、必ずしも
一致しない。いまでは天然のスギの
銘木は、紙のような
薄い板にされ合板に張りつけられて、
天井板などになることが多い。【6】それが天然スギをいちばん高く売る方法でもあるし、そのことによって天然スギのもっている木目を
比較的安い価格で、だれもが楽しめるようになったと評価する意見もある。しかし、それでもなお私は、
山奥の路上で合板にされるために
乾かされている天然スギをみかけると、私は村長と同じような気持ちをいだくのである。
13. 【7】今日では山の木が建築物に変わるまでの間には、次元の異なる二つの過程が重なりあっているのであろう。それは使用価値と商品価値の
違いによって生ずるズレ、といってもよいのだけれど、木自体がもっている価値を生かすか、商品としての木の価値を優先するかをめぐって、木にたずさわる者たちもまた
動揺してきた。【8】そしてそのことは、ときに力強く木の育った美しい森と経営効率を優先させた森の
違いとなってあらわれ、製材や建築の過程では、職人的な仕事と商品をつくるだけの労働の
違いとなってくる。∵【9】たとえば、製材工場を訪ねても、スギやヒノキなどの国産材をひく工場と、輸入材をひく工場とでは、
雰囲気がずいぶん
違う。国産材は、どこにノコギリの
刃をあてるかで木目の出方も変わり、木の価値も商品価値も変わってくるから、木目の出具合を読む職人の経験やカン、コツが工場を支えている。【0】ところが、輸入材は木目も一定のものが多く、しかも
大壁工法などの柱のない家の部材になることが多いから、部品をつくる自動化工場のようである。最近では労働力不足に対応して、コンピュータ製材が関心を高めているけれど、それも職人の
腕を必要としなくなった輸入材専門工場での話にすぎない。国産材の工場はいまも職人の世界である。
14. 山の木を単なる商品にしてしまわないためには、職人的な
腕が生きていなければいけない。確かに、山の木は、林業家から製材業者へ、工務店から消費者へと、商品として流れていく。ところが、この流れのなかに、美しく、大きく森を育てていこうとする村人の
腕や、製材職人の
腕、木の特性を生かしていこうとする大工の
腕などが健在である間は、木と人間は一体化して、木の文化をもつくりつづけることができる。
15. 木の文化は、天然のヒノキが細切れの板にされるのをかわいそうだと感じる、あの村長の気持ちに支えられてきた。そして、その気持ちを仕事のなかで実現させる職人たちの
腕とともにあったのである。
16.(内山
節「森にかよう道」より。一部省略等がある。)
17.(注)
大壁工法=断熱材等でできている
壁板を、柱をおおうように張っていく建築法。
長文 5.2週
1. 【1】生物界の中でヒトという種を
特徴づけてみると、優れた学習能力がほぼ一生にわたって
維持される、ということが第一に挙げられるであろう。
2. 【2】例えば、クジラやライオンのような大型
哺乳類について言えば、クジラは水中生活に便利なように体型が変化しており、またライオンやトラは、筋肉が発達し、
敏捷で、しかも
鋭い牙や
爪を備えている。したがって、ある
環境条件下では
餌を手に入れ、種族を
維持していくことが容易である。【3】反面、これらの大型
哺乳類は、限られた
環境下においてのみ
繁栄しうる。クジラはもはや陸上で生活することはできないし、ライオンやトラは
比較的大きな草食
獣が手に入らなくなったらおしまいである。
3. これに対して、サルの仲間は、そういった身体上の
特徴を持っていない。【4】さらにまた、生まれつきの行動の仕組みが
比較的少なく、加えて雑食性でもあるところから、様々な
環境に適応しうる。いわば、他の大型
哺乳類が
特殊化するという方向で進化してきたのに対し、サルの仲間はむしろ、
環境に対する
柔軟性において進化してきた、ということができるであろう。
4. 【5】したがって、サルの仲間では、経験に基づいて外界についての知識を身に付けることが、個体の生存にとっても、また種の
維持にとってもそれだけ重要になってくる。つまり、サルはもともと学習する種である、と
言い換えることができる。【6】外界についての知識を得ること――それによって、どこが安全か、どのようにしたら食物が手に入るか、などを的確に判断できることが生存のために不可欠なのである。
5. しかし、このような事情は、ヒトにおいてより一層
顕著に認められる。【7】ヒトは他の
類人猿と比べてさえ、生まれつきの行動の仕組みが少ない。このために、チンパンジーの子供とヒトの子供とを
双生児のように育ててみると、初めの数か月間は、むしろヒトの子供の方が知的にも
劣っているという印象を
与えるほどなのである。∵
6. 【8】さらにヒトの場合には、それぞれの個体が自らの直接の経験に基づいて知識を集積するばかりでなく、他の個体の経験を言語などを
媒介とすることによって利用することもできる。つまり、学習が社会的な性格を持つに至っている。【9】ヒトの個体の生存や種族
維持は、それぞれの個体ごとの経験に基づく知識にばかりでなく、文化という形において集積された他の個体の経験を
摂取しうる(自分のものとしうる)ことにも
依存している、とさえ言ってよいであろう。こうして集積された知識がなければ、ヒトはいかにも無力な動物なのである。【0】
7. ここで、学習とか知識とかいう用語が、必ずしも日常的用語と、意味において
一致していないことを注意しておこう。ここでの学習とは、単に学校などでする学習というだけの意味ではなく、様々な経験に基づいて外界についての知識を
獲得することとほぼ同義である。また知識というのも、個別的な事実についての知識(いわゆる断片的な知識に近い)や、判断・実行の手続きについての知識ばかりではない。ここでいう知識は、外界の事物、自分自身、
及びその関係についてのある程度体系だった情報も
含む。ヒトは、このような情報の体系を持つことによって生きのびてきたのだし、また、現在の社会でもこうすることによって初めて有能に行動しうるのである。
長文 5.3週
1. 【1】話し上手の人がいます。しかし、その人をおしゃべりとは呼ばないでしょう。そのことを私なりに考えてみますと、
饒舌の人は、とかく「
間」をとることに気が回らなかったり、「間」の必要を感じていない場合が多いのに対して、話し上手とよばれる人は、意識して、あるいは無意識のうちに、うまく「間」をとり入れている
違いがあるように思います。
2. 【2】「旅は道づれ」と言いながら、おしゃべりの人といっしょの長旅には
疲れるという人は少なくないでしょう。
3. また、相手とのあいだの
沈黙の時間に
耐えがたくて、「
サーヴィス」の気持ちから何とかおしゃべりして「間を持たせる」というときも確かにあります。
4. 【3】相手が何と思おうとわたしゃ知らぬとばかり構えて口を閉じていられる人はいいのですけれど、
心遣いがこまやかであると、とかくこういう場合、口数が多くなります。
5. 【4】しかし、困るのは、「
サーヴィス」のつもりがいつのまにか自己弁護や自己
顕示になり、果ては自己
陶酔になっているのにも気づかずという場合です。
6. 【5】いかなる名言、名文句も、同類のものがただすきまもなく積み重ねられるだけでは効果
乏しく、文章の力みも、ただそればかりでは弱みに転じてしまうのは苦い教えです。
7. 【6】
適宜、風を
吹かせながらの
饒舌であれば、聞き
逃されることも少なく、風のあいだに相手が連想し想像し思考する
余裕を
与えておいて、
更にたたみかけるのもいいでしょう。【7】風も通さない
饒舌は、聞いているほうも苦しくなり、終わった時には、さて、何を聞いたのかということにもなりかねません。
8. 【8】
余韻とか余情、ふくみ、それらはすべて、「間」のいかし方にかかわっているように思われます。思わせぶりな「間」は、いい
余韻にも余情にもならないでしょう。とすると、自然に「間」を必要とするのは、必要とするだけの実質をそなえているもの、ということになるのでしょうか。
9. 【9】
荻須高徳のパリの風景画で、忘れられない
油彩があります。号数を正確には言えません。
畳三分の一
帖くらいと思ってくださ∵い。空も建物も道もうす暗いパリの町角。ただ一点、遠景の
塔らしきものに
朱が入っていて、そこに向かって画面が
収斂されていくのです。
10. 「間」のことを思う時に、私はよくこの
朱色を見ています。【0】
11.(竹西
寛子『国語の時間』による)
12.
饒舌…多弁なこと。おしゃべり。
13.自己
陶酔…自分自身にうっとりすること。
14.
適宜…その場合・
状況にぴったり合っていること。
15.
荻須高徳(一九〇一〜一九八六)…洋画家。
16.号数…絵画作品の大きさを示すのに用いる番号。
17.
収斂…一点に集まること。
長文 5.4週
1.【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
2. 働きはじめた記念に、
腕時計を買ってくれたのは、兄であった。それに
寿命がきて、自分のふところから次の時計を
購った。そのころ流行らなかったアラビア数字の文字
盤のを選んだのは、父の古い
懐中時計に対するあこがれが、心の底に残っていたからだろうと思う。安価なものだったが、
寿命は長かった。いまのは四代目になるが、例の
液晶時計である。毎日ネジを巻いてもやらないのに、健気にも正確に動いている。何だか、自分自身、そして、この世に在る働き好きの男や女に似ているようで、つらくなる。
3. 働いて働いて、その行くさきが、働く同士のしあわせならいうことはないが、その逆になるのだったら、これは困る。
4. そんな、時計の針を逆まわりさせるようなことに、私の時間を使いたくないし、使われたくない。
5. 村の駅にあったあの
振子時計は、戦場に送られるたくさんの若者と、白木の箱になって帰ってきたたくさんの若者をしっかりと見ていた。その時計は、いまははずされて、電気時計にかわっている。けれども、そのあたらしい元気ものの駅の時計に、古い
振子時計が見たものと同じものを見せたくない。
6. 私たちの時計、目に
触れるあらゆるまちの時計に、かつて犯した人間にそむく歴史の時間をふたたびきざませていいものか。
7. 時計は
何故、時をきざむか。
8. 私たちは、何故に時間を
恵まれるのか。つまり私たちは、何故こうして生きて、暮らしているのだろうか。よくはわからないけれどもただひとつ言えることは、人の命を
奪ったり
奪われたりする戦争なんかのためではない、ということである。私たちが、これからどう生きるか、それを時は見守っている、と思う。私たちのあらゆる時計に、あやまった歴史をきざませてはなるまい。
9.(増田れい子『インク
壺』)∵
10. 【1】昔の人の脳と、いまの人の脳は、どう
違うか。
11. 昔の人の骨と、いまの人の骨、これはどう
違うか。私が現物について、いくらか知っているのは、骨のことでしかない。その骨から考えるなら、四、五万年前このかたの人類は、根本的にはいまの人と同じ骨をしている。【2】だから、
その頃から現代まで、人は同じような脳をしていたに
違いない。そういう結論になる。
12. それ以前の人は、どうか。それなら、人類学でいう旧人、すなわちネアンデルタール人のことになる。これはもう、いまの人とは、骨がはっきり
違っている。【3】実際に旧人は、われわれとは、脳がかなり
違っていたのではないか。私はそう疑っている。
13. では、旧人と、いまのわれわれ、すなわち新人は、どこが
違うか。最大の
違いは、新人におけるシンボル体系の存在と、その豊富さであろう。【4】要するに、お金とかお守りとか、
賭け事とかバクチとか、科学とか宗教とか、芸術とか演劇とか、それ自体は実用に役に立たず、約束事で成立するもの、そういうものが、旧人にはあまりなかったと思われる。
14. 【5】われわれが常識としているような種類の言語、これも旧人では欠けていたか、不十分だった可能性が高い。そう私は考えている。ことばは、シンボル体系の典型だからである。
15. 見てきたわけでもないのに、そんなことが、なぜわかるか。【6】それは、それに関する遺物が、旧人の
遺跡からは出てこないからである。クロマニョン人、すなわち新人になると、
突然、
洞窟の
壁画が出てきたりする。あんな見事な絵は、私にはとうてい
描けない。あるいはお守りらしい、わけのわからぬ細工ものが出る。【7】それが旧人だと、石で作った
刃物の類ばかり。これは実用性が高い。道具を見るかぎり、ある程度以上古い時代の人たちは、たいへん実用的だったということになる。
16. それでは面白くない。昔の人には、いまの人にない
超能力でもなかったのか。【8】それは、さまざまなマンガに
描かれているから、そういうものを見てくださればいい。いまの人が
超なんとかを好むのは、いつも思うのだが、自然への感受性を失ったからであろう。自然を見ていれば、それ自体がほとんど
超能力に見える。【9】∵よく考えてみれば、不思議なことばかりなのである。もしその具体例を、自分の経験から思いつけないとすれば、あなたはすでに自然への感覚をほとんど失っている。自然がもはや不思議とは思えなくなっているからである。【0】
17. さてそれが、同じ新人のなかでの昔の人といまの人、そのいちばん大きな
違いであろう。自然の実在と、自然の不在。いまの人はおおかた人工
環境に住む。これはなんでもないようだが、人間の思考をすっかり変えてしまうはずである。そこには自然がない。あるのは、人の作ったものばかり。まわりがすべてそれなら、人はそれだけを考えるようになる。それしか、ない。
18. そうなると、脳はどうなるか。わが世の春であろう。人工
環境とは、脳が作ったものだからである。脳は脳のなかに住む。それ以外のものは、
邪魔だ。こうして、われわれ現代人の持つ脳は、脳のなかに置かれた脳、それだけになった。
19. じつはそれは、脳だけではない。同じ新人でも、古い骨を見ると、ずいぶんと
使い込んであることがわかる。たとえば
噛むことに関係する部分は、昔の人では、たいへんよく発達している。それに比べて、現代人はほとんど「
家畜」といってもいいであろう。固いものなど、子どもの
頃から
噛まない。
20. 現代人は、水や食物を探しに行く必要はない。ただ冷蔵庫をのぞけばいい。したがって、そういうものの、自然の「ありか」に対する感覚はない。気温は調節されてしまう。だから身体が調節する必要はない。そうした生活でできあがるのが、われわれの脳である。それはきまりきった生活に慣れた、
家畜の脳であろう。
21. 人は多くの動物を
家畜化した。次はもちろん人間の番である。私は頭骨を二つ、机の上にいつも置いている。一つは
野蛮人のもので、もう一つは、
家畜人のものである。長いあいだ置いておくと、どうしても
野蛮人の骨のほうが、骨として見事だという気がしてくる。だから、私が
贔屓するのは、
野蛮な脳である。私の感覚が、おそらく
野蛮なのであろう。
22. (養老
孟司『脳のシワ』)
長文 6.1週
1.【一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。】
2. 【1】机の横にコピーに使った紙が積んである。裏の白いところを生かしてメモ用紙にしているのだ。何か用事を思い出すと、さっとメモをとる。計算用紙のかわりにもなるし、作文の構成用紙のかわりにもなる。【2】折りたたんで暗唱用紙のかわりにすることもできる。一枚の
薄い紙が、いろいろな形で役に立つ。この紙にひとまとまりの文字を
載せると、文章の書かれた紙となる。手紙やレポートは、だれかに自分の考えを伝える道具だ。【3】その道具をいちばんの土台で支えているのが、この紙とペンである。私は、この紙のように、さまざまな情報を
載せることのできる教養の大きな受け皿になりたい。
3. そのためには第一に、白紙のように、何でも素直に受け入れる心を持つことだ。【4】日本の昔話に「わらしべ長者」がある。一本のわらにアブをつけて持っていた男が、そのわらしべをミカンと
交換する。やがて、そのミカンを反物と
交換し、反物を馬と
交換し、馬と
交換に家をもらう、という話だ。自分自身の教養を高めるためには、このように何でも素直に受け入れる心が欠かせない。【5】世の中には、相反する意見や情報も多い。それらを先入観なく受け止める心の広さが必要なのだ。
4. 第二の方法は、逆に、素直に受け入れたものの中から、自分に必要なものを
選択する勇気だ。【6】日
露戦争は、日本の命運を決める戦争だったが、この戦争を
遂行した日本のリーダーたちが共通して持っていたものは、困難な
選択を
敢えてする勇気だった。日本が立ち上がることによって初めて東アジアはロシアの支配をはねのけ自立することができた。【7】また、日本の勝利は世界の有色人種の自覚を
促し、その後の世界史の流れを変えた。何でも受け入れる素直な心は、
選択し決断する勇気と組み合わされることによって初めて価値あるものとなる。∵
5. 確かに、自分の得意な特定の専門分野を持つことも必要だ。【8】それは、紙で言えば、自由に
書き込める白紙ではなく
既に印刷された紙だろう。情報が印刷された紙には、それなりの価値がある。しかし、それは、その特定の目的以外に使うことができない。【9】新聞紙の場合は、印刷されていても、弁当の包み紙に使うこともできるが、それは本来の
用途とは言えない。私たちに必要なのは、たくさんの古新聞ではなく、たくさんの白紙だ。机の横に積まれたメモ用紙を生かして、自分らしい広い教養を育てていきたい。【0】
6.(言葉の森長文作成委員会 Σ)∵
7. 【1】人間の
生涯は物事を学び続ける果てしない旅である。この世に生まれた
瞬間から、人間は学び始める。いや、それ以前、母親の
胎内ですでに学習は始まっているらしい。そして、人生八十余年を
迎えても、何事かを学ぼうとする。
8. 【2】ある学者は、研究報告書のなかで、人間が最もすばらしい学習能力を発揮するのは生まれてからの数年間であるとのべている。なにしろ、子供は、言葉という、ホモ=サピエンスがつくりあげたもののうちで最も複雑なものを、わずかな期間で習得してしまう。【3】言うまでもなく、
赤ん坊は決して本能によって言葉をしゃべるのではなく、学習して覚えていくのであり、置かれた
状況しだいで、世界中のどの言語でも覚えてしまうのである。このような幼児期における言語の習得を出発点として、幼年期から青年期へ、中年期から老年期へと、
生涯にわたって学習は続く。
9. 【4】何事かを学ぶことができるというのは、生物として優れた能力をもっているしるしである。
猫や犬もものを学ぶという優れた能力をもった動物ではあるが、
彼らは、
生涯の早い時期に学ぶことをやめてしまっているように思われる。【5】人間が他の動物と
比較して異なることの一つは、いつまでも学び続けるという点にある。
10. ものを学ぶとは、何か新しいことを知ったり、何か新しい能力を身につけたりすること、そして、それらをさらに深めたり高めたりすることである。【6】人間が
生涯にわたって学び続けていくには、エネルギーとなる何かがなければ、それは容易なことではない。では、そのエネルギーとなるものは何か。たとえば、花の名前を一つ知ったとする。すると、野原一面に
咲き乱れる花の中から、その花を探す楽しみが生まれ、見つける喜びが生まれる。【7】もっと多くの花の名前を知れば、探す楽しみや見つける喜びは増大することになる。つまり、このような楽しみや喜びが、エネルギーとなるのである。
11. 【8】それぞれ、学び方や学びとるものの
違いはあれ、このエネルギーが、さらに学習意欲をかきたてる。学校や家庭での勉強だけが勉強ではない。人生のさまざまな場面で、さまざまな
状況のなかでいつも勉強がある。【9】学ぶエネルギーを実感するためにも、人間は、いつまでも学び続ける人生を送るのである。人間が味わう∵
充足感や感動の大半は、ものを学ぶことから生まれるのではなかろうか。【0】
12.(注)ホモ=サピエンス…人間の動物学上の
名称
長文 6.2週
1. 【1】見テ 知リソ
2. 知リテ ナ見ソ
3. 見てから知るべきである、知ったのちに見ようとしないほうがいい、という意味でしょうが、じつはもっと深い意味があるような気がする。つまり、われわれは「知る」ということをとても大事なこととして考えています。【2】しかし、ものごとを判断したり、それを味わったりするときには、その予備知識や固定観念がかえって
邪魔になることがある。だから、まず見ること、それに
触れること、体験すること、そしてそこから得る直感を大事にすること、それが大切なのだ、と言っているのではないでしょうか。
4. 【3】ひとつの美術作品にむかいあうときに、その作家の経歴や、その作品の意図するものや、そして世間でその作品がどのように評価されているか、また有名な評論家たちがどんなふうにその作品を批評しているか、【4】などという知識が頭の中にたくさんあればあるほど、一点の美術品をすなおに、自分の心のおもむくままに、見ることが困難になってくる。それが人間というものなのです。
5. 【5】実際にものを見たり接したりするときには、これまでの知識をいったん横へ置いておき、そして
裸の心で自然にまた無心にそのものと接し、そこからうけた直感を大切にし、そのあとであらためて、横においていた知識をふたたび引きもどして、それと照らしあわせる、こんなことができれば素晴らしいことです。【6】そうできれば、私たちのうる感動というものは、知識の光をうけてより深く、より遠近感を持った、豊かなものになることはまちがいありません。しかし、実はこれはなかなかできないことです。
6. 【7】では、われわれは知る必要がないのか、勉強する必要もなく、知識をうる必要もないのか、というふうに問われそうですが、これもまたちがいます。そのへんが非常に
微妙なのですが、
柳宗悦が
戒めているのは、知識にがんじがらめにされてしまって自由で
柔軟な感覚を失うな、ということでしょう。【8】おのれの直感を信じて感動しよう、というのです。どんなに
偉い人が、どんなに有名な評論家が、自分とまったく正反対の意見をのべていたり解説をしていたとしても、その言葉に
惑わされるなということです。
7. 【9】作品と対するのは、この世界でただひとりの自分です。自分には自分流の感じかたがあり、見かたがあります。たとえ、百万人の人が正反対のことを言っていたとしても、自分が感じたことは絶対なのです。【0】しかし、また、その絶対に安易によりかかってしまう∵と人間は単なる独断と
偏見におちいってしまう。
8. 自分の感性を信じつつ、なお
一般的な知識や、他の人びとの声に耳をかたむける
余裕、このきわどいバランスの上に私たちの感受性というものは成り立たねばなりません。それは難しいことですが、少なくとも
柳宗悦の言葉は、私たちに「知」の危険性というものを教えてくれます。
9.(五木
寛之「生きるヒント」)
10.(注)見テ 知リソ 知リテ ナ見ソ…
柳宗悦の言葉。
長文 6.3週
1. 【1】落ちて来たら
2. 今度は
3. もっと高く
4. もっともっと高く
5. 何度でも
6. 打ち上げよう
7. 美しい願いごとのように
8.
9. この詩は、作者がある雑誌の
依頼で、子どもが紙風船で遊んでいる一枚の写真につけたものだそうです。【2】紙風船は打ち上げてもまたふわりふわりと落ちてきます。宇宙船の船内なら上がったままでしょうが。願いごとも多くの場合、すーっと落ちてきます。
10. この詩のいのちは、
11. 美しい願いごとのように
12.というすばらしい「
比喩」にあると言えるでしょう。
13. 【3】作者は、この詩について「風船はどんなに高く打ち上げても、それは地に落ちる」「願いごとの多くはむなしい」というニュアンスから、どうしたら
抜け出すことができるかに努力したと述べています。【4】この詩を読むと、いつも光さす空を見ていよう、紙風船が落ちてくるのに目をとめるより、何度も打ち上げるそのことに生きる証を見つけよう、というような
祈りに似た詩の心が伝わってきて、
励ましさえ感じます。
14. 【5】いつだったかテレビの料理番組で、料理の先生が「なるべく(産地が)遠くの
味噌をあわせて(まぜて)使うと、おいしい
味噌汁ができる」と話しているのを聞いて、言葉も同じだなと思いました。
15. 「月とスッポン」ということわざがあります。【6】二つの物があまりに
違いすぎる、不相応だという意味ですが、このことわざ自体、月とスッポンという非常に遠い物を結びつけて、「月とスッポンのようだ」としているために、長くわたしたちの印象に残ることとなったとわたしは思います。
16. 【7】
比喩を、日常の会話でも効果的に使うと、表現が生きてきます。「
赤ん坊が激しく泣く」というより「
赤ん坊が火がついたように泣く」、といったほうが印象の強い表現になります。また、
比喩は詩歌で古来重要な働きをしてきました。∵
17. 【8】ところでいつだったか、これもテレビで見たのですが、スポーツ評論家のSさんが、こんな話をしていました。
18.「フォークボールの投げ方を選手に教えるのに、球をこう
握ってこうして投げるんだよと、動作で見せるばかりでなく、カーテンのヒモを下へ引っ張るように――という例えで話してやると、印象強く、よりよく伝えることができる」
19. 【9】
驚きました。フォークボールを投げるというような肉体的な技術は、その動きをやってみせることが最上の、それ以外にない教え方だと思っていましたが、そこに
比喩が大きな働きをするなんて!【0】
20.(
川崎洋「教科書の詩を読みかえす」から)
長文 6.4週
1.【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
2.
近頃、いろいろな分野で「二世」が目立つ。スポーツ界をはじめ、芸能界や政界にまで、二世の
活躍する場は
及んでいる。人間のさまざまな能力について、「遺伝」と「
環境」のどちらが
影響を
与えるのかというテーマは、古くから議論されてきたものである。二世の
活躍などを見ると、人間の容姿や才能、性格などを決めるのに、やはり遺伝のほうが育った
環境より重要と言っていいのだろうか。
3. いや、必ずしもそうとはいえない。ここでは、生まれてすぐに人間の手を
離れて育った「野生児」の例を取り上げてみよう。一九二〇年にインドの森で見つかり、カマラ(八
歳半)とアマラ(一
歳半)と後に名付けられた二人の少女は、オオカミに育てられた子供として知られている。発見当時、二人ともオオカミの住んでいる穴から出てきて、オオカミと同じように行動した。
4. もしくは、四足歩行をおこない、舌を垂らしたままで何度もくり返し
吠えるのである。また、光を
怖がる一方で、夜は活動的になり、毎日四時間ほどしか
眠らなかった。飲み物はペチャペチャなめ、食べ物は肉食に
偏っていて、うずくまった姿勢で食べた。行動ばかりか、体の形にまで野生生活の
影響が現れていた。手のひらや
肘、
膝、足の裏の
皮膚が、厚く
硬いかたまりになっていたのである。
5. 二人は見つかってから
孤児院で育てられたが、二足歩行するまでに六年もかかるなど、ゆっくりとしか個性は現れなかった。
6. この野生児の例をみると、容姿には遺伝が深く関わっているが、行動や性格の発達に関しては、生後まもなくからの、子供の置かれた
環境がきわめて重要なことがわかる。
7.(大石正道『遺伝子
組み換えとクローン』)∵
8. 【1】ところが、そのキツネザルにすら、「ことば」もどきは存在する。例えば
彼らの天敵にあたるような
捕食動物が近づいてきた場面を
思い描いてみよう。そういうとき
彼らは独特の声を出す。この声を耳にすると、周辺にいる仲間(同種個体)はただちに自らの身を守る
防御反応を行う。【2】結果として群れに危険の接近を周知する機能を実行しているところから、
警戒音と命名されている。
9. ただし、天敵の種類はさまざまである。大別しても、空からやって来るものと、地表から来るものとがある。それによって
防御の手段の講じ方も、おのずと異なってくる。【3】空からの場合は、地表近くへ身を
伏せた方がよい。だが、もし地表から危険が
迫ってきているのに、空からのときのように
逃避を
企てると、とんでもないことになる。
10. そこで
淘汰圧が働き、キツネザルは複数のタイプの
警戒音を出すにいたったのだった。【4】例えばAとBという二種類の声が存在するとしよう。空から
捕食動物がやってくるとAの声を出す。すると、聞いた仲間は地表へ
逃げる。他方、地表から敵が来るとBの声を出す。その際は、仲間は木の上へと
逃れる。
11. 【5】AもBも、
警戒警報である。ただしAは空からの危険、Bは下からの危険を意味している。これは、ほとんど単語による表現に近い。そういう観点では、
彼らも記号的コミュニケーションを行っていることになる。
12. 【6】それどころか、
彼らの方が人間よりも、厳密に仲間の発する音声を記号的にとらえているのである。ヨーロッパの昔話で、いつもいつも「
狼が来た」とウソを村人に伝えて
驚かせては喜んでいた少年の物語というのをご存知だろう。【7】村人たちは、はじめは信じこんでびっくりしていたが、そのうち
誰も信じなくなった。あげくのはてに、本当に
狼が来ても
誰にも助けてもらえず、羊を食べられてしまった少年のエピソードである。
13. ああいうことは、キツネザルでは起こらない。【8】
彼らだったら
極端なケースとして、一〇〇万回「
狼が来た」といわれても、やはり
逃げることだろう。
警戒音の認識に、音以外の手がかりは∵
介入しない。ともかく身の危険にかかわることだから、少々いかがわしい情報であっても、とりあえず信じた方が安全、という発想が働く。【9】サルの理解の仕方は、
柔軟性に欠けるのだ。
14. 「
柔軟性を欠く」と書くと、
融通がきかず頭が悪いみたいに聞こえるかも知れない。しかしシグナルの記号としての意味作用に忠実であるという意味では、人間より
抽象度の高い認識を行っていると
言い換えることもできなくはないのではないだろうか。【0】
15. 人間は、過去の経験にもとづいて、ことばの意味理解を変えていく。反対にこのことは、発話を行う側も、常に相手に聞き入れてもらえるよう
配慮して話をすることを意味している。そして、聞き手は相手がこちらを意識して話をしていることに気づいている以上、その意図を
把握しつつ、発話内容を
吟味する。
16. 考えてもみよう。「君は、よく勉強するね」といわれたにせよ、それが字面通りの
誉めことばなのか、「勉強しない」ことへの皮肉なのかは、文字の配列から判断することは不可能に近い。相手の顔色を読み、
状況を
斟酌し、あるいは話し手の
普段の言行を参照しなくてはならない。
17. つまり言語理解というのは、意外なほど記号的でなくて、反対に相手の心を読む(発話を手がかりに心理を推測する)過程であることがわかる。むしろサルの方がよっぽど厳密に記号類別に
依拠して情報伝達を行っているのだ。
18. ところが、最近の日本人を観察してみると、そのコミュニケーションはこの言語進化の進んできた方向を逆行しているように思えてならない。つまり、ことばのメッセージを常に記号として
把握する
傾向が高まっている。そして、そういう認識の仕方をサルが実行している以上、サル的な方向へとコミュニケーションのスタイルを変えてきたという結論にたどりつくのだ。(中略)
19. こうみてくると、昨今の日本人のコミュニケーションの
特徴である「サル化」とは、すなわち語用論能力の
衰退と表現することができる。そして、その
傾向の背景としては、社会のIT化、人間同士の情報伝達がケータイのような代物への
依存度を大きく増したことが考えられるのだ。
20. (正高信男『考えないヒト』)