メギ の山 1 月 4 週
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○自由な題名
○規則のよい点悪い点
★清書(せいしょ)

○エーレンベルグは、
 エーレンベルグは、植物が生育するためにもっとも適した環境には二つの場合があるのではないか、と考えた。
 その一つは、単植栽培の実験で最大の生長量を示す場所で、もし競争相手がいなければ、適度の水分と養分を自由にとり入れて、のびのびと生育できる地域だ。彼はこのような地域を生理的最適域と名づけた。
 もう一つは、混植栽培の実験で最大の生長量を示したような場所だ。つまり自然に近い状態で、ある植物が自分よりも競争力の強い植物によって生理的に最適の場所をうばわれているため、心ならずもその場所から押し出され、もっと悪い条件のもとで生育しているような地域である。そんな地域を、彼は生態的最適域と名づけた。
 私は感心したが、ぜんぜん疑問がなかったわけではない。
 生理的最適域という言葉は全面的に納得できる。だが生態的最適域のほうはどうだろう? 自分にとってもっともよい環境条件からややはずれて、湿った場所や乾いた場所に追いやられることが最適域という言葉で言いあらわされてよいのだろうか?
 だが、いまになって考えれば、エーレンベルグの言った最適域という意味の深さが、私にもわかるような気がする。ある生物社会が健全で長いあいだ繁栄してゆくためには、すべての欲望がほんの短時日のあいだ満足できる本来の最適生育域から多少ずれていて、なんでも思いどおりになるとは限らない環境のほうが、よいかもしれないからだ。そのほうが、かえってバランスのとれた社会を保ってゆくのにはよい状態だろう。もし、あまり強くなりすぎ、すべての競争相手にうちかってあらゆる欲望がかなえられたなら、その個体も種族も社会も滅亡してゆくのが生物界の鉄則なのだから。生態的最適域とは、生物社会の本来の意味から言って、まさに長つづきのする最適の地域だったのだ。
 すべての生物には、生理的最適域と生態的最適域とがある。それを人間の社会にあてはめてみるとき、私にはちかごろの人間の生き方に、ある種の恐ろしさを感じないわけにはいかない。
 私たちの日常生活は、いろいろな欲望を満足させる方向に進んでいる。熱いときは、冷房、寒いときには暖房。衣料、食物、自動車など、人間の欲望を満たすために、工場はあたらしい製品をこれでもか、これでもかと生産して提供する。∵
 人間のかずかずのせつな的欲望がすべて満足させられるような社会が生まれようとしている半面、人間生命の持続的な存続がおびやかされるような画一的な社会化、文明化も進んでいる。矛盾した世の中だと、君たちは考えるだろう。だが、この現象はかならずしも矛盾ではない。
 自然の山野に生きるもの言わぬ植物たちは、きわめてきびしい条件のところで、生理的に最適とはいえない場所でがまんをかさねながらも、力強く生きているではないか。そして何代たっても、そこから消滅しいないで生きている。この姿に、私たち人間が学ぶところはないだろうか?
 ことわっておきたいことがある。私はなにも人間の文明が進歩することに反対しているわけではない。便利なことは、不便なことよりもよいにきまっている。ただ、目先の欲望をすこしでも早く満足させるために、現在のように遠い将来までを見ようとしないで環境をこわしつづけてゆく。すると、これが人間にとって最高の環境だと胸を張ったときに、そこがじつは人間にとって最適地でもなんでもなく、人類の墓場だったということがあると言いたいのだ。
 目的を達するためには多少の犠牲もしかたない、というような考えをすてて、まわり道でも時間をかけて目的に進むのだ。そのために環境をみずから破壊するような愚かなことは避けようではないか。まわり道をするのもまた、がまんの一つだ。そして、ある程度がまんのあるような状態こそ、生物社会にとってもっとも健全で、長つづきする状態なのだ。
(宮脇昭「人類最後の日」)