長文 1.1週
1. 【1】見かけは科学のようだが実は科学ではない「ニセ科学」が
蔓延している。代表的な例として血液型性格判断やマイナスイオンを挙げれば、なるほどその手の話かと合点がいくかたも多いのではないだろうか。【2】念のため述べておくと、前者は心理学の調査によってとっくに否定されており、また、いわゆるマイナスイオンが体によいという科学的
根拠はほぼ
皆無と言ってよい。
2. もちろん、この手のニセ科学が今に始まったわけではないが、最近の
状況は以前よりはるかに深刻に思える。【3】大手電器メーカーがこぞって参入したマイナスイオン・ブームなど、熱に
浮かされていたとでも表現するしかなかろう。
3. あるいは、水に「ありがとう」と声をかけると雪の
結晶に似たきれいな
結晶ができ、「ばかやろう」と声をかけるときれいな
結晶はできない、という説はどうだろう。【4】そのようにして
撮影したと
称する結晶の写真集はベストセラーになった。
4. 話だけなら単なるオカルトとしか思えないが、写真があまりに印象的なためか、これを「科学的事実」と
信じ込んでしまう人は意外に多いらしい。【5】しかも、これが多くの小学校で言葉の大切さを教えるための道徳教材として使われているのだから、笑ってすますわけにはいかない。言葉づかいは水に教わるようなものではないはずなのだが。
5. こういったニセ科学は、あくまでも「科学」として受け入れられていることを強調しておきたい。【6】いや、それどころか、もしかすると多くの人にとって、ニセ科学のほうが科学よりも「科学らしく」見えているのかもしれない。
6. たとえば、「プラスは体に悪く、マイナスはよい」などという白黒二分法的な考えかたは、本来、科学から最も遠いところにある。【7】科学者に「プラスとマイナスのどちらが体にいいですか」と
尋ねたとしても、返ってくるのは「マイナスといってもいろいろあるし、少量なら体にいいものだとしても、量が多すぎれば悪いだろうし……」といった歯切れの悪い答えであるに
違いない。
7. 【8】一方、パブリックイメージとしての科学は、そのようなあいまいな返事をせず、「さまざまな問題に対してきちんと白黒つけてくれる」ものなのではないだろうか。ところが、実はこれはニセ科学∵の
特徴である。
8. 【9】本当にニセ科学のほうが科学らしく見えてしまうとすれば、ニセ科学が受け入れられるのは、科学に対する
信頼が失われているからではない。むしろ、科学は
信頼されているのである。ただし、それは必ずしも科学的な考え方が
浸透していることを意味しない。
9. 【0】科学の結果だけが求められ、その本質である合理的思考のプロセスは求められていない。水の
結晶の話が道徳教材になってしまうのも、あるいは、テレビゲームが脳を機能的に
壊すというこれまた
根拠薄弱な説が教育現場ではやるのも、結論だけに飛びついた人が多いからだろう。たしかに、しつけや道徳が科学で
根拠づけられるなら、それほど楽なことはないのかもしれない。だが、それは思考停止にすぎない。
10. さて、昨今、
先端科学の成果を
一般市民に「わかりやすく」伝えることが強く求められている。ところが、そこには落とし穴が待ち受けている。科学を「わかりやすく」語ることに慣れていない科学者たちは、
先端科学の成果がいかに不思議であるかを強調すれば「わかりやすい」のだろうと安易に考えがちである。しかし、不思議を語るだけでは、
魔法の話をしているのとなんら変わりがない。
11. SF作家アーサー・C・クラークは「非常に進んだテクノロジーは
魔法と区別できない」と述べた。この言葉は現代科学にもあてはまる。もし科学の成果をあたかも
魔法であるかのように語るなら、それは、
魔法に過ぎないはずのニセ科学を科学であるかのように見せることにもつながる。「こんなことが起こります」という結果だけではなく、その裏にある科学の「考え方」を伝える努力が求められている。
12.(
菊池誠「かがく批評室」による。本文を改めたところがある)
長文 1.2週
1. 【1】
憧れると同時に相手を
侮蔑する。そうすることによって人間は生きていくというような側面があることは事実だと思います。
2. 【2】その
偏見には、政治的な野心とか、経済的な願望とか、そういう利害関係ももちろんからんでくると同時に、政治や経済や軍事において逆に優位にある民族や社会に対して、
劣位におかれていた人が文化的な
優越性をもって相手を見返すということもあるわけです。【3】黒人の文化というのは差別の対象のようにずっと
捉えられていた面があるわけですが、ブラックパワーと言い出して、生命力では白人より黒人のほうが強いという主張を黒人がして白人を見下すこともあるわけです。【4】それは、白人の
優越感の裏がえしでもあります。白人、黒人といったいい方も乱暴ないい方にはちがいありません。日本人などは黄色人といわれますが、これも現実に私たちは黄色ではありません。人間にはさまざまに見えるところがあり、
肌の色も
微妙にちがう面が多いわけです。【5】現にフランスでスペイン人に
間違われたとか、アメリカでメキシコ人として
扱われたとか、日本人と外国でなかなか見てくれないような体験をする人もいるわけです。白人、黒人、黄色人といった区別も文化的な
偏見の面が強いと思います。
3. 【6】異文化に対しては、ささいなことが拡大されて、オリエンタリズム的なアプローチを生み出します。サイードは、学者や小説家の言説だけではなく、一九世紀イギリスの政治家の議会演説なども引用しながらそこに
含まれるオリエンタリズムを
露わにしてゆくのですが、【7】日本人のアジアに対する言説を明治以来拾ってみれば、同じようなことが言えるかもしれません。
福沢諭吉の「
脱亜入欧」は近代日本の国家的スローガンにもなりましたが、
福沢には強い「アジア
蔑視」があったと安川
寿之輔氏は
指摘しています。【8】私も以前そのようなことを述べたことがあります。無意識的に発言された言葉が誤解を拡大させて、それが大きな国際関係まで
脅かす可能性があるということです。
4. 【9】いつも感じることで、日本人はどうも自己完結的というのか、外来文化を日本文化の中で消化しようとしてしまう。外から伝わった文化の要素でもいつのまにか日本文化になってしまっているということが多く、それで、逆に異文化をあまり意識しないのではない∵でしょうか。【0】異文化に対する
憧れも
軽蔑もあるのですが、日常生活の中で異文化に対する無関心というものが、いかに大きな誤解とか差別とか、逆に外国での日本に対する悪感情を生むかということを意識しないで行動している場合が多いと思います。
5. オリエンタリズムは、オリエントに対する近代
西欧の
偏見、
偏向というものを、
西欧のオリエント支配の生み出した言説として、サイードが告発したところからきているわけですが、これまで見てきましたように大きな意味で異文化に対する
偏見を示す
象徴的な言葉として使えると思います。単に
西欧対オリエントという形でなくて、日本対アジアとか、アメリカ対中国や日本というような形でも使えるし、西ヨーロッパ対日本という形でもあてはめられると思います。それはアジアやアフリカのさまざまな地域でも多数派民族から少数派民族を見る場合とか、複雑な異文化間の
状況において使われることでもあるでしょう。
6. なぜオリエンタリズムの問題がそれほど重要かといえば、現代は文化と人間の広い交流の時代だからです。
幾度も
繰り返しますが、異文化は常に身近にあるし、常に他者と
接触しつつ人々は生活をしていかなくてはなりません。そのときに、異文化に対してあまりにも無知であったり、また無知からくる
偏見は大きな困難や
摩擦を生み出します。
7. 異文化理解が重要になった時代に、異文化へのアプローチに対する警告の言葉として、「オリエンタリズム」というのは非常に重要な言葉だということを
指摘しておきたいと思います。
8.(青木保『異文化理解』より 一部改変した)
長文 1.3週
1. 【1】結局のところ、日本語は、質問者の質問のしかたに
即し、その意図にそっていれば「ええ」とこたえ、反していれば「いいえ」とこたえるわけだが、
欧米では、
肯定疑問であろうが否定疑問であろうがそんなことにはおかまいなく、返答する者が知っているか否かによってのみイエス・ノーが決められている。【2】こうしてわが
同胞は、外国に行って否定疑問文を浴びせかけられるたびに、どぎまぎしながら「はい、いやちがった、いいえ」「いいえ、いや、はい」などとやって、ますます「あいまいな日本人」という神話をはびこらせてしまいもするのだろう。
2. 【3】このような否定疑問へのこたえ方にかいま見られるのは、自己中心的な
欧米流の思考法と外部指向的なわが国の思考法とのちがいにほかならない。そのうえ、そもそも私たちは、きっぱりとは「ノーと言えぬ」やさしき日本人なのである。【4】つまり、私たちのあいまいさは、多分に、他人への
配慮からも生じているわけだ。
3. こうした他人への
配慮は、多かれ少なかれ、自己を
抑制することになるだろうし、他人と歩調を合わせようとすることにもなるだろう。【5】私たち旧世代がつねに
指摘されてきた日本的集団主義はもとより、はた目には、かなり自己チュー(自己中心的)と見られる現代の若者たちまでが、学校や職場での友人関係にどれほど気をつかっているかは、見ていて
涙ぐましいほどである。【6】「はい、はい、はい、はい」と、「はい」をいくつも続けてコミカルかつ同調的な司会者のノリを出してみたり、「やっぱし」「ヤッパ」「あんまり」「意外と」を連発して社会通念にこびてみたり、【7】「半疑問」「半クエスチョン」と呼ばれる文の
途中での
語尾のアゲを使うことで相手との
一致をたえず確認してみたり、あげくの果てには、
携帯電話を通してまでもこうした気づかいをくりかえし、
彼らは、ようやく、「だれかとつながっている」という安心感を得るにいたるらしいのだ。
4. 【8】このように、私の見るところ、日本語におけるあいまいさと言われるものは、大別すれば、「
暗黙の
了解」と「他人への
配慮」という二つのものに由来しているように思われる。「
暗黙の
了解」はまさしく
了解されている以上、それを言葉にしないのは当然のことであって、それがあいまいと映るのは外部の目に対して∵だけである。【9】あるいはまた、「他人への
配慮」によって物言いを
微妙に変えるところなど、自己主張ばかりに終始する西洋風の言葉づかいよりも数段すぐれていると考えることもできる。したがって、日本語における「あいまいさ」なるものは、本来の意味においてはあいまいではないのだと、そういうこともできるだろう。
5. 【0】しかしながらこの「
暗黙の
了解」や「他人への
配慮」が、日本語の内部においても次第に
崩れてきているとすればどうだろう。
暗黙の
了解があってこそあいまいさをまぬがれていた私たちも、そうはいかなくなり、他人への
配慮があってこそあいまいも美徳になっていたのが、一転して、単なるあいまいとしての悪徳になってしまうのではないだろうか。
6. たとえば、あるスーパーマーケットで年配の婦人が、若い女店員にこうたずねた。
7. 「あのう、
お嬢さん、このお
豆腐ずいぶんにごりが出ているけれど、まさかヨイゴシ(
宵越し)のお
豆腐じゃないでしょうね」
8. けげんな顔をした女店員は、こう応じたのである。
9. 「いえ、お客様、当店では「絹ごし」と「木綿ごし」しか置いておりません」
10. 思わず私はふき出してしまった。二重の意味においてである。ひとむかし前ならば、この答えは
当意即妙の見事なものであったにちがいない。当店の商品には「
宵越し」などという言葉はないと、ナポレオンのように自信たっぷりの答えとなったはずである。しかしながら、当の女店員さんは大まじめ。ご婦人の苦笑に
一抹の
淋しさを感じたのは、私の深読みにすぎなかったのだろうか。
11.(
加賀野井秀一『日本語の復権』による。)
長文 1.4週
1. 【1】わずか一
粒の種から一万個以上もの実をつけたトマトの
巨木がある。遺伝子
組み換えなどの新しい技術により、このようなトマトができたのかと想像されるかもしれないが、そうではない。
2. このトマトは、一本の根幹から何千もの枝が分かれて、トマトの実を結ぶ。【2】最も多いときで、一万個以上が実るというから確かにすごい。その秘密は、太陽の光と、水と空気の
恵みを
充分に受けて土なしで育てるところにある。水中の養分を補えば、根の部分は水中に
浸しておくだけで
栽培できるのである。
3. 【3】つまり、植物がその成長能力を最大限に発揮する上で、土は不要ということなのだ。
4. むしろ、土に根を生やしているがために、
潜在的な成長能力は一定に
押さえつけられている。一万個も実をつけるトマトは、実際、土とは
無縁である。【4】これが、植物の成長にとって理想的な
環境だというのである。
5. 将来、人類が地球を出て、宇宙で生活するためには、このような
栽培法が、どうしても必要となる。この
巨大なトマトの木は、生き物にはまだまだ私たちの知らない、無限とも言える可能性が秘められていることを、見事に示した。
6. 【5】一方、科学用語のひとつに、「最適規模・最適値」という言葉がある。ある
環境の中の最適な数や量のことで、自然界は、非常にうまくこの最適規模を守っている。(中略)
7. この観点からすると、一
粒の種から一万個も実をつけるのは本当に良いことなのか。
8. 【6】個別にその植物だけを取り出して考えると、問題は解きほぐせない。大地、植物、光、水、大気という自然界全体の成り立ちを視野におさめて、初めてひとつの答えが導き出される。
9. 【7】植物は、大地に根を生やし、成長して実をつける。その樹液や花のみつ、木の実などを食べて生きる虫や小動物がいる。それを食べる動物もいる。死んだ動物は土にもどり、
微生物によって分解され、植物の養分となる。【8】こうして
巧みな
循環がなされているからこそ、自然界は過不足なく成り立つのであって、何処かの
連鎖が断たれると、問題が生じる。
10. 木を切りすぎると動物もいなくなり、大地は
枯渇して
砂漠化す∵る。一
粒の種だけが無際限に
繁殖すると、全体が危機に
瀕する。
11. 【9】このように見てくると、
普通のトマトが、一
粒の種から一万個も実をつけないのは、土によって本来の成長をじゃまされているのではなく、生態系全体の中での適正な成長規模を守っているからだとも考えられよう。【0】
12. 遺伝子情報としては、一万個を実らせる能力を
書き込まれているのだろうが、ぎりぎりまで発現させることは通常ないのである。
13. 複雑な生命体は、私たちの想像を
超える潜在能力を持っているとみてよい。しかし、生物
相互のかかわり合い、生物と自然とのかかわり合いの中で、能力の発現は一定に保たれる。つまり、生態系という高いレベルの有機的な
秩序が保たれていくために、最適値がある。
14. この生物の中に人類も
含まれる。科学・技術を発達させ、際限なく生産の拡大を図るだけでは、人類はいつか
行き詰る。そして、次の世代に大きな負の遺産を残すことになる。
15. 人間は、限度を
超えて物が増えた分だけ、心が貧しくなり、
寂しくなっていくのではないか。それを解決するには、人間の
慎みが必要である。
16. 先ごろ、ノーベル平和賞を受賞したケニアの女性
環境保護活動家ワンガリ・マータイさんが、日本語の「もったいない」をエコロジーの言葉「モッタイナイ」として世界に
紹介したように、「
慎み」も新時代の人間の生き方を表す世界の共通語「ツツシミ」となるよう広く伝えていきたいものである。
17. 「モッタイナイ」は単に物を節約することではないし、「ツツシミ」は欲望を消極的に
抑えることではないだろう。
18. この言葉の背後には、人類を
含めた生物が、大自然の
偉大な力「サムシング・グレート」により生かされているということに対する感謝の気持ちが
込められている。
19.(
村上和雄の文章による)
長文 2.1週
1. 【1】ここで、技術と人間の関係について考えておきたいと思います。科学の技術化の進行とともに、生活は便利で快適になりました。情報の
交換は、コンピューター・ネットワークを通じて、時間的にも(
瞬時につながる)、空間的にも(国際的につながる)、実に効率的に広がっています。【2】グローバルな(地球規模での)人間のつながりが可能になり、これまでの「国家」に
閉じ込められた発想を
越えることができるようになるだろうという予感をもっています。二一世紀には、この流れは、よりいっそう加速されてゆくでしょう。【3】これを「情報革命」あるいは「情報化社会」と呼んでいます。コンピューターだけでなく、これまで思いもつかなかった機械や道具が、マイクロマシンやナノテクノロジーから生み出されてくると思われます。技術の発展が人間の新しい可能性を
拓いていくのです。
2. 【4】確かにそうなのですが、技術の発展と人間の関係について、気をつけるべき二つのポイントがあります。
3. 一つは、いくら素晴らしい性能をもつ製品でも、その能力は使う人間の技術レベルで決まっているということです。【5】私のワープロには実にさまざまな機能が
組み込まれていますが、私はその一部しか使えません。せっかく便利に作られていても使いこなせなければ、その技術は生きないのです。この点は、ワープロだけでなく、あらゆる技術にいえるでしょう。【6】技術の真の価値を利用するには、それを使う人間の技術レベルも上げなければならないのです。そのためには、技術の内容を理解し、論理的な思考や全体のつながりを
把握する力をもっていなければなりません。そうでない限り、技術は、それを有効に使えるエリートだけのものになってしまうでしょう。
4. 【7】しかし一方では、私たちは新しい技術に使われ、追い立てられることにもなります。そのため、じっくり考える
余裕を失うかもしれません。私は、コンピューター社会で落ちこぼれかかっているのですが、考える時間を確保しようとすると、次々と新しいソフトや新しい情報処理方法についてゆけなくなるからです。
5. 【8】今や、パソコンは計算をするだけでなく、ワープロ・表計算・英文タイプ・図表製作にも使え、ネットワークを通じて、手紙・図・写真・音声まで
交換できるようになりました。パソコンは、筆箱・
電卓・コンパスや物差し・電話・タイプライター・写真フィル∵ムなど、さまざまな道具を一つに集めたようなものです。【9】しかし、それらを使いこなすためには、相当な時間が必要になります。その時間を
惜しむと、パソコンはただの電脳箱に過ぎません。むろん、より使いやすくはなるでしょうが、技術を常に追いかけねばならない時代に、真の知が開花するだろうか、というのが私の心配なのです。
6. 【0】もう一つは、「情報革命」の問題点です。情報は、知っていると楽しくもあり、豊かな気分になりますが、それを使わない限り価値を生みません。お金と似ています。だから、情報を有効に使わないと革命は起こらないのです。人間の知的レベルを上げなければ、情報を有効に使えないでしょう。つまり、技術を使いこなすだけでなく、世界を広い視野で見、将来を深く
洞察する能力が不可欠なのです。情報革命は、人間のレベルを上げない限り、「情報オタク」を生み出すだけとなるでしょう。その結果、情報を有効に使える大
企業や政府が利益を得るのみなら、新しい人間の可能性を
拓いたり、国境の
壁が破れることにはなりません。現在と本質的に同じ状態だからです。つまり、個々人が情報に
埋もれず、情報を有効に使う能力が、二一世紀には強く望まれているといえるでしょう。
7. さらにつけ加えておきたいことは、情報化社会となると、すべての仕事が机の上でできるようになって、三K(キツイ・キタナイ・キケン)の仕事がなくなるような
幻想がふりまかれていますが、それは
間違いです。確かに、毎日会社や学校に行かなくても仕事や学習ができる部分はあるでしょう。しかし、パソコンを作る人、それを運ぶ人、運ぶ道路(トラック)や鉄道(貨車)を作り整備する人、その資材を作る人、その原料を
掘り出す人……と、パソコン一つをとっても多数の人々の労働の
結晶なのです。その労働自身は、決してなくなることはありません。私たちの生活の中で必要とする、食べ物も住宅も着物も電気も、あらゆるものに労働が必要なのも確かです。情報革命は、人間の知的レベルの革命であって、生活や労働を変える革命ではないことを、しっかりと
押さえておく必要があると思います。
8.(池内
了の文による)
長文 2.2週
1. 【1】コンビニエンス・ストアの二十四時間営業の店がだんだんふえていったのは、一九八〇年ごろからだ。それは、日本の社会が本格的に「サービス化・ソフト化・情報化」という方向にむかおうとするちょうどそのころだった。
2. 【2】お店の機能をサービスという観点から見直すと、だいたい夜も活動する人間がふえてきているのに、夜の七時にお店がしまっていたのではお話にならないのだ。
3. ここで、「時間的な便利さ(コンビニエンス)」というサービスが商売として成り立つ。
4. 【3】便利さというサービスを商売とする以上、当然、チェーン店として、いろいろな地域をネットワークしていくような展開が必要となる。
5. いつでもあいていて、そこにいけば日常のかんたんな雑貨から食料までなんとかなる、そういうお店だ。【4】ふつうのコンビニエンス・ストアには、だいたい三千品目以上の商品がおかれているといわれる。
6. その後、コンビニエンス・ストアは、ファースト・フードをいれ(「おでん」すらファースト・フード化させ)、チケット類の予約
販売、公共料金の窓口業務、クリーニングの
取り扱いといったぐあいに、新しいアイテムをつぎつぎと加えていっている。【5】コンビニエンス・ストアというお店の基本的なあり方も、最初のころとくらべるとやや変わってきている。固定的なものではなく、客のニーズがあればすぐさまその商品をそろえるという
柔軟さこそ、コンビニエンス・ストアの
真髄だろう。
7. 【6】ところで、「時間」をビジネスにしているのはコンビニエンス・ストアだけではない。きみたちのまわりでは、たとえば「牛どん」ショップとか、ファースト・フードのチェーン店などがそうだ。
8. 日本では、一九七〇年ごろからファースト・フードが
店舗をふやしはじめる。
9. 【7】ハンバーガーの店ではそれまでの日本では考えられなかった「早朝」という時間帯を営業のなかに組みいれてビジネス化を図った。その後、「深夜」や「二十四時間」を組みこむ店もふえた。
10. 一方、和食系のファースト・フード店も、「早朝・深夜」をビジネスの対象にした。【8】食事できる場所がしまってしまった深夜や、まだどこもあいていない早朝に営業することで、他のお店との「差別化」を図って、そこにある時間の利便性を商売にむすびつけているわけだ。和食系のチェーン店では、アメリカにまで進出し、成功∵をおさめたものもある。
11. 【9】時間のビジネス化という意味では、コンビニエンス・ストアとファースト・フード店はあるていど共通している。
12. しかし、筆者のみるところでは、やはりコンビニエンス・ストアには、独特のものがあると思う。【0】立地でいうと、
繁華街だけでなく住宅街のまんなかにも出店している。コンビニエンス・ストアの午後九時や十時にいってみるといい。
塾帰りなどの小学生や中学生が夜食がわりにおでんをワイワイいいながら食べているのに出会えるはず。
13. コンビニエンス・ストアが
開拓した「時間」はどうみても夜だ。あの「時間」はまだきちんと管理されておらず、どこにも位置づけられてないのだ。
奇妙な明るさのなかにある解放感と
孤独感がそれを物語っている。
14. コンビニエンス・ストアが消費社会の申し子と考えるのはそのためだ。消費社会というのは、これまでの時間についての考え方、みんなの共通の
枠組みが統一性を失った社会なのではないだろうか。コンビニエンス・ストアの「時間」の位置づけられなさはそれを
象徴している。
15. それまでの常識では考えられなかった、営業時間の「すきま」をビジネスにしたのがコンビニエンス・ストアやファースト・フードだった。
16. 「すきま」というのは、時間についてだけいうのではない。それまで他の
企業が関心をもっていなかった分野だとか、
余裕がなくてできなかった分野のことを
一般に「すきま」(またはニッチ)という。
17. いま、
企業は、いろいろなすきまの分野をねらって、ビジネスにしようとしている。市場が大きくふくらんで成長が頂点に近づくにしたがって、すきまをつく戦略が重要な役割を
占めてくる。
18. そして、コンビニエンス・ストアをはじめ、宅配便など、それまでなかった商売が、いつのまにか、いまでは欠かすことができなくなっている。これも消費社会の一つの断面といってよさそうだ。
19.(児玉
裕「あなたは買わされている」による)
長文 2.3週
1. 【1】動物たちの「ことば」と私たち人間の「ことば」との間には、たいせつな
違う点がいくつかあります。たとえば、アリやミツバチは、どのようにして「ことば」を身につけるのでしょうか。【2】お母さんのアリが子どものアリに向かって、えさを見つけたときにはこうするのですよ、と教えているというのは、考えてみただけでもほんとうにほほえましい光景です。でも、じっさいには、アリのお母さんはそんなことをする必要はないのです。【3】アリであれば、えさを見つけると、足の先からにおいのするものがしぜんに出てくるというふうに、生まれつき仕組まれているのです。ミツバチの場合も、お母さんが子どもの手足をとって、ダンスの仕方を教えてやるというわけではありません。
2. 【4】人間の「ことば」は、こういうふうにはいきません。私たちが日ごろ使っている日本語ですと、まるで生まれつき身についていたように思えるかもしれませんが、たとえば、どういう場合に「アニ」といって「オトウト」とはいわないのか、などということは、【5】みんな私たち自身が他の人から教えられたり、あるいは、他の人が使っているのを見たり聞いたりして学び知ったのか、どちらかです。ひとりでに使えるようになったというわけではありません。このことは、外国語を身につける場合を考えてみれば、もっとはっきりするでしょう。
3. 【6】動物たちは「ことば」の勉強をしなくてすむからいいな、などと思ってはいけません。動物たちは、たしかに人間のように、努力して「ことば」を学ばなければならないというようなことはありません。しかし、その代わり、動物たちは、いつも、そしていつまでたっても、同じことしか伝えることができないのです。【7】それからもうひとつ、動物の「ことば」は、いま、ここにあることがらを伝えることはできるでしょうが、「いま」と「ここ」を
越えたもっと広い世界のことがらを伝えることはできないでしょう。
4. 【8】動物の「ことば」の仕組みは生まれつき身に備わっていますが、その代わり、動物たちには、もともと生まれつき定められたことしか、表したり、伝えたりすることができないのです。動物の「ことば」は、動物たちをせまい世界の中に閉じこめています。
5. 【9】私たち人間の世界は、このように閉じたものではありません。人間の「ことば」は「ここ」「いま」のことがらをはるかに
越えて、過去のことも、未来のことも、そしてじっさいにはありえない想像上のことであっても、表し、伝えることができます。【0】人間は「ことば」を学ばなければならない代わりに学べば学ぶほど、新しい言いまわしを身につければつけるほど、世界が広くなっていきま∵す。そして、さらにすすんで、もし新しい外国語を身につけたとしたら、私たちの世界はどれほど広くなることでしょうか。私たちのほうでその気になれば、人間の「ことば」は私たちをいくらでも広い世界へと連れていってくれます。
6. 私たちがなんの気なしに使っている「ことば」――その「ことば」は、私たちにとってほんとうに深い深いかかわりをもっているのです。
7.(池上
嘉彦「ふしぎなことば ことばのふしぎ」による)
長文 2.4週
1. 【1】公立中学校の先生が去年一年ぼくの大学院のゼミに
聴講生として来ていた。おかげで、教育の「
荒廃」ぶりについて現場の声を
伺うことができた。中でも印象的だったのは、子どもががらりと変化するのが、たいてい中学二年の夏休みだということである。【2】夏休み前まではなんだかおどおどして、はっきりしない子どもだったのが、夏が終わると、
髪の毛を
茶髪に染めて、
昇降口に
座り込んで、三白眼で教師をにらみつけて「うぜえんだよ」と
追い払う……というふうに
変貌してしまう。【3】なるほど、思春期の自意識の混乱を、この子たちはこういうふうに処理するのか、と
妙に納得してしまった。
2. 中学二年生
頃の自意識の混乱というのを、私たちはもう忘れてしまっているけれど、あれはけっこう大変なものである。【4】自分自身、自分が何を考えているのか、よく分からない。何か口にすると、そのつど「いや、こんなことが言いたいわけじゃない」という前言
撤回の思いがせり上がってくる。何かをしても、「いや、こんなことがしたかったわけじゃない」という、自分自身の欲望との不整合感がぬぐえない。【5】だから、思春期の少年少女のたたずまいというのは、ほんらい、「なんだか
煮え切らないもの」なのである。口ごもり、言いよどみ、身の置き所がない……というのが思春期のシャイネスの「王道」である。
3. 【6】ところが、「九月デビュー」の
即製不良少年たちは、できあいの「不良の型」にすっぽり収まることで、このシャイネスに「けりをつけて」しまった。一人一人の中学生が、感じている自分自身との
違和感はそんな簡単にできあいの「型」にはめられるものではない。【7】
茶髪にしたり、ピアスをしたくらいで、ぴったりした自己表現の形態に出会いました、というほどめでたくステレオタイプな人間なんていやしない。不良少年たちとはいえ、それぞれに家庭
環境も学校での立ち位置も言語能力も身体感受性も
趣味嗜好も
違うはずだ。【8】それをぜんぶ「ちゃら」にして、レディメイドの「不良型」にすっぽり収まるというのは、相当いろいろなものを切り捨てることなしには達成できない力業である。【9】思春期のシャイネスを「捨て値」で
売り払うことによって、この子たちは、できあ∵いのアイデンティティを買い取っているのだけれど、私はそれはずいぶんと不利なバーゲンのような気がする。【0】でも、そういうシャイネスのたたき売りと「九月デビュー」を子どもたち自身は(場合によっては親や教師やメディアも)「個性の実現」だと
錯覚している。そんな「定型への回収」をどうして「個性的」だなんて
思い込めるのか、私には理解できないけれど、本人たちはそう信じて、思春期にけりをつける。
4. どうして、「不利なバーゲン」だと思うかというと、そういうふうに思春期に乱暴に「けりをつけて」しまった人間は、そのあと、
年齢を加えていっても、もう「シャイ」になったり、「複雑」になったりすることができないからである。なりたくても、もうなれない。立て板に水を流すような、
薄っぺらなセールストークの操作能力なんかは一週間もあれば、
誰でも身につけることができるけれど、「口ごもる」「言いよどむ」「ためらう」というような思春期固有の言語運用の回路は、一回
壊してしまったら、もう再生がきかない。シャイネスなんて、一回手放したら、もう二度と手に入れることはできない。でも、それがどれほどたいせつなものかは
誰もアナウンスしない。
5. (中略)
6. しかし、私たちの社会は(家庭でも学校でも
企業でも)、そのような複雑さを評価する習慣を失って久しい。私たちに要求されるのは、何よりもまず「わかりやすさ」であり、「単純なキャラクター」である。けれども、人間というのは、そんなに簡単に「わかりやすく」「単純」になれるものなのだろうか。人間本来の底知れなさを無視して、単純な「型」のうちに
流し込むことの本質的な危険性に人々は気づいているのであろうか。
7.(内田
樹『
響く声・複数の私』より)
長文 3.1週
1. 【1】晩秋の山あい、美しい落ち葉で
彩られた岩清水の冷たさに、秋の旅立ちが近いことを感じます。明日の朝、
霜がおりていたら、新しい冬の訪れが、もう間近です。
2. ついさきごろ、小さいお子さんが書いた手作りの詩集を見せていただく機会にめぐまれました。【2】一人は福島市在住の中学二年生、もう一人は
横浜市在住の小学三年生、手書きの文字からにおいたつ、きらりとした
描写は、日本が生んだ天才
童謡詩人、金子みすゞ手書きの試作ノートにはじめてであったときのような
新鮮さに満ちていました。
3. 【3】近年、コミュニケーションの主役が、従来の手紙から電話や電子メールに移ってきているのは、何事もより速くということがいいことであるという現代の風潮を反映してのことでしょうが、この
傾向は心の「
輪郭」を
不鮮明にするだけではなく、「考える」ということさえも日常生活から
奪ってしまったかのように思われてなりません。【4】面と向かって話せばわかることが、メールのやりとりでは、議論が空転し、あげくのはてに思考停止の状態になることすらあります。【5】海外とのやりとりなどでは、たしかにメールほど効率のよいコミュニケーション手段はないと思いますが、一方では、
隣り合わせの机にすわっている人同士が、メールで事務
連絡をとりあっている風景も
普通になっていて複雑な気持ちです。
4. 【6】私自身も、学生からの意見やレポートもメール、
施設使用の
申し込みから、成績評価など、すべてがメールというメール
漬けの毎日で、精神的にも実質以上の
多忙感にあおられています。パソコンの進化もめざましく、新しい機種に
変更されるたびに、
戸惑い、【7】操作を
間違えると画面上には、パソコンからのきついお
叱りの言葉が飛び交い、あわてて、あちこちキー操作をしているうちに、
突如、かたまってしまって、にっちもさっちもいかなくなるという事態も日常茶飯事で、不器用な私は、神経質なパソコンに
怒られてばかりの毎日です。
5. 【8】それにひきかえ、昔のワープロは
寛大でした。「おんがく」と
打ち込めば、「音我苦」などと
変換する
余裕とユーモアに満ち、こ∵ちらが慣れるのを根気よく待ってくれていました。手書きからワープロヘ、そしてパソコンヘと転身する現代は、心が見えにくくなっていて、それだけに、手書きの詩集には
新鮮な感動がありました。
6. 【9】ところで、物理学といえば、ものごとのすべてを論理的にきちんと説明してくれる
堅い学問だと思っていらっしゃる方も少なくないでしょう。しかし、ほんとうは、かなり
寛容な精神に満ちた学問だと思います。【0】光の本性だって、
粒子であるとも波動であるとも、見る人の立場によって、いかようにでも見えることを許してくれますし、
極端な言い方をすれば、「月を見る心がないとき、月は存在するといえるのか」という議論まで、物理学の問題として考えることを許していてくれているのですから。となると、原子から宇宙までを論理の言葉で語ろうとする物理学は、もっともスケールの大きな現代の神話なのかもしれません。
7.(「夢見る科学」
佐治晴夫 より)
長文 3.2週
1. 【1】カはメスだけが人間の血を吸う。オスは果物の
汁などを吸っていて、決して
吸血鬼になることはない。けれど、動物の
吸血鬼の多くは、オスであるかメスであるかには関わらない。
2. 例えばヒルだ。【2】カには「血を吸われた」というより「
刺された」という感じを持つことが多いけれど、ヒルにはほんとに血を吸われたという気がする。
3. 近ごろは農薬のおかげでヒルはほとんどいなくなったが、昔は田んぼや小さな川にヒルがたくさんいて、魚とりや水遊びの楽しみをそがれたものだった。【3】
湿度の高い山の林にはヤマビルというのもいる。人間が歩いていくと、木の上から落ちてきて、首すじなどにとりついて血を吸う。いずれにせよ、ヒルに血を吸われるときは、痛みも
痒みも感じない。【4】気がついたらたっぷりと吸った血で丸々とふくれあがったヒルが
肌にとりついている、というおぞましさであった。
4. 北ボルネオの熱帯林では、しばしばヒルに
悩まされた。林の中の細い道をたどっていきながら、ふと道の両側の草に目をやると、そこら中にヒルがいるではないか! 【5】草の葉の上に、長さ一センチから二センチの小さなヒルが立ち上がって、ヒコヒコ体を動かしている。そうやってとりつくべき相手をねらっているのだ。
5.
双眼鏡で十メートルぐらい先の草をのぞいても、ヒルは一
匹もみつからない。【6】けれどぼくらが歩いてそこへ近づいていくと、あたりは何十
匹、何百
匹というヒコヒコ動くヒルでいっぱいになる。それまでは葉の上にピタリとくっついて休んでいたヒルたちが、ぼくらの
体臭や体温をキャッチして葉の上に立ち上がり、思いきり体を
伸ばして前後左右に
振りながら、何とかしてぼくらの体にとりつこうとしているのだ。
6. 【7】それはぞっとするような光景だった。その何百
匹というヒルたちは、何日いや何か月間この機会を待っていたのかわからない。林は広く、人間やけものはそのどこを通るかわからないからである。
7. 【8】吸血性の動物というのは、
一般にそのような生き方を強いられている。たしかに血は動物の体の中でもっとも栄養価の高いものだろう。そしてそれは、生きた動物にとりついて吸うほかはない。し∵かし生きた動物は動きまわる。血を吸う側は必ず相手より小さい。【9】長い
距離、相手を追っかけていくわけにはいかない。どうしてもある場所にじっとひそんでいて、相手がそこにやってくる機会を待つほかはない。
8. だからヒルにしても、ノミにしても、ダニにしても、吸血性の動物はじつに長い期間、
飢えに
耐える。【0】
彼らはほとんど
休眠した状態で、じっと相手の出現を待っている。相手の存在をキャッチする
嗅覚器官だけは
眠らずにいて、
千載一遇の好機の
到来を今か今かと探っている。
9. 強力な
翼をもった吸血コウモリは、おそらくその
唯一の例外であろう、
彼らは毎晩、かくれがの
洞窟を出て、
獲物を探しにいく。けれど
獲物のガードも固い。運の悪い
奴は、ついに
一滴の血も吸えずに帰ってくる。すると血にありついた仲間がこいつに血を
吐きもどして分けてくれる。
10. これは
ヴァンパイアの助け合いとして有名な話だ。けれど、この助け合いは美しい道徳的
行為なのではない。血を分けてもらった個体は、相手をちゃんと覚えていて、翌日そいつが空腹のまま帰ってきたら、優先的にそいつに血を分けてやるのだ。そこには
互恵の原則が成り立っている。日本での昔からの表現によれば、「情けは人のためならず」なのである。
11.(日高
敏隆「動物の言い分、人間の言い分」)
長文 3.3週
1. 【1】テレビを見ているとき、急に私が
怒りだし、登場人物に反論し始めるので家人がびっくりすることが度々ある。大体それは、科学者が「専門家」として、いかにもすべてを知っているかのように話すときであり、自らの判断ミスを素直に認めないまま
権威を保とうという態度にあきれはてた場合である。【2】「そんな姿勢だから、科学者がますます信用されなくなるんだ」と私はつい
怒ってしまうのだ。
2. と書き出せば、
地震の予知やエイズ問題に登場する科学者のことだとお気付きと思う。私が強く言いたいのは「科学者は、少なくとも真実に対しては
徹底して忠実であるべきだ」ということである。【3】未知の
闇を探るのが科学者の仕事なのだから、
間違いを犯すのが科学者であり、知識の限界を知っているのも科学者なのである。だからこそ、真実が明らかになったとき、
間違いを率直に
訂正し、どこに限界があったかを誠実に語らねばならないと思うのだ。【4】それが「真実に忠実な科学者」の姿であり、科学者は
間違うものだという当然の事実を、私たちも知るようになるからだ。それが「専門家」として、科学者が何らかの問題に関係したときの取るべき態度だと思っている。
3. 【5】しかし、立場や
権威が
邪魔をするのだろうか、それとも責任を問われるのが
怖いのだろうか、なかなかそのような「専門家」にはお目にかからない。「もんじゅ」の事故しかり、エイズ問題しかり。【6】「その段階ではわからなかった」にしても(確かにそうだったのかは調べなければならないが)、ある種の判断をしたのは事実だから、真実がわかった段階で素早く誤りを認めるのが真実に忠実な科学者なのである。【7】さらに、「答申はしたが、実行は行政の責任だ」という
逃げ口上で責任を
回避するのは、ほとんど人間として失格だと思う。答申がなければ政府は実行できないのだから、そのような答申をした道義責任からは決して
逃れることができないのだ。【8】専門家として政府の委員になるということは、その責任を負う
覚悟をしているということなのだから。
4. いろいろな問題で、多くの科学者が専門家として安全を「保証」したり、無害を「証明」する役を演じている。【9】時には、
妙ちきりんな説で現場を混乱させたり、例外や小さな欠点を針小棒∵大に言いたてて誠実に対応しようとする人の信用を落とさせるようなピエロ役を果たすこともある。数々の公害問題で、科学者は平気でそんな役回りを演じ、政府や会社の
隠れ蓑となってきたことは否定できない。
5. 【0】それにしても、なぜ人にはピエロだと
見抜けないのだろう。おそらく、「専門家は
間違わない」という
幻想を、知らぬ間に
刷り込まれているからではないだろうか。お上が
偉く、お上が相談する専門家の科学者の先生はもっと
偉い、という体質が
抜き難く染み着いているのかもしれない。それに対応して少なからぬ科学者は自らを
権威づけることが習い性となり、
間違いや限界を語る義務を
放棄してしまった。「真実に」ではなく「
権威に」忠実な科学者というわけである。
6. そういえば、日本にはやたらに専門家が多い。むろん、命にかかわらない専門家はいくらいても構わないが、「
権威だけがある」科学者が専門家として後ろに
控えていると極めて危険である。いずれにしろ、そんな専門家の言うことなんか、
眉に
唾をつけて聞く習慣を身に付けた方が良さそうだ。
7. 先日、
地震学者の金森
博雄教授と対談したとき、印象に残った言葉を聞いた。
彼はカリフォルニア州の
地震が発生したとき
即座に
震源や規模を推定し、鉄道やガス会社に
地震情報を知らせるシステムの責任者となっている。もし
彼の情報が
間違っていた場合、会社に損害を
与え訴訟になるかもしれませんねと聞いたら、
彼は「
刑務所へ行くことは
覚悟しています」と答えた。真の専門家とは、このような人のことだとつくづく思ったものだった。
8.(池内
了「科学は今どうなってるの」)
長文 3.4週
1. 【1】たたら製鉄とは、
粘土でつくった
炉の中に木炭と砂鉄を入れ、三日三晩ふいごで風を送って鉄をつくる製法で、「玉鋼」と呼ばれる、日本刀をつくる材料になる上質の鉄ができます。何百年も続いてきた伝統的な製法ですが、私が実際に木原さんにお会いして聞いた言葉は実に科学的なものでした。
2. 【2】例えば、
炉の中からブチブチ聞こえる音がするので、それは何かと聞くと「鉄の
滴が落ちてくる音だ」と言う。見なくてもそんなことがわかるのかと聞いたら、「穴をあけてのぞいたよ」。【3】温度は一四〇〇度ぐらいと言うから、そんな低くてよいのかと問うと、「自分で測定して調べたから
間違いない」。炭素の
含有量は一・二パーセントぐらいと思えばいいと言うから、どうしてわかるのかと聞くと、「全部
分析した」と答えが返ってくる。【4】つまり何を言いたいかというと、
彼はたたら製鉄という伝統的な産業に従事しながら、昔からのものを伝承としてそのまま
墨守するのではなく、自分の目や頭や手を使ってすべてを確かめたうえで取り組んでいるのです。
3. 【5】実は、
彼は四二
歳になるまでは研究所や工場で、良質の鋼と
銑をつくるための研究を行うとともに、実際に製造に
携わっていました。そして、日本美術
刀剣保存協会が一九七七年にたたら製鉄を復活する際に、当時の
安部由蔵村下(
村下は職名)のもとで、養成員としてたたら製鉄の仕事を始めました。
4. 【6】ところが、その
村下は「これをこうしなさい、あれをああしなさい」という指示はまったくしませんでした。自分で考えて自分でやれというわけです。何か失敗をすると、「オレならこうする」と言って、そのときになって初めて教える。【7】木原さんはそうした過程で何度も失敗を
繰り返し、「なぜそうするのか」を自ら
徹底的に調べることで納得しながら技を身につけていったのです。
5. ものづくりのさまざまな現場には、「
暗黙知」と呼ばれるものがあります。【8】例えば機械設計に
携わる人なら、機械のバランスが悪いとき、「ここにこんな力が走っているからこんな動きをしてしまうので、その力の流れを考えていけばバランスが正しくなる」と読み取れる力を自らの経験から身につけています。【9】これが「
暗黙∵知」で、ものづくりを進めるうえで非常に重要な要素です。
6. 以前は、こうした
暗黙知は、
先輩と
後輩が
一緒に働いているときに、自然と伝わっていきました。それも、言葉で伝わるのではなく、横で見ていて
先輩のもっている技を「
盗む」という形で行われていました。【0】最初は、わけもわからず見よう見まねで行ってうまくいかなくても、失敗を
繰り返すうちにちゃんと
理屈を考えて、「どうしてこうするのか」を自分で考えるようになる。単に言葉で教えられただけでは、失敗はしなくても真似事の
範疇から出ることはなく、真の理解を得たことにはなりません。技は「
盗む」ものなのです。たたら製鉄で木原さんが行ったのが、まさしくこれでした。自分の目で鉄の
滴が落ちるのを見たり、鋼の成分を
分析したりするのも、真の科学的理解を得るために
先輩から技を
盗み取って、木原さん自身が必要と感じて行ったものなのです。
7. 例えば、動いているものの仕組みを考えるとき、まず自分で観察し、どんな動きを実現したいかという課題設定をする。次に、観察した事実から要素を
摘出し、その要素をどのように組み合わせて全体図をつくればいいかを考える。それにしたがってつくったものを実際に動かしてみる。その動きが、最初に観察したものの動きと
一致していれば、初めてその仕組みが「わかった」と言えるのです。そして、もし
違っていれば、また観察して全体図をつくりなおしていく――。これはまさしく「科学」そのものです。「伝統」と「科学」というと水と油、「伝統」とは昔からやってきたものをただ
黙って
受け継ぐことと感じている方も多いでしょう。しかし、以上のことから見てもわかるように、真の伝統とは科学的なものなのです。
8.(
畑村洋太郎「だから失敗は起こる」による)