長文集  8月3週  ★日ごろ見慣れている景色(感)  mi2-08-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:22
 【1】日ごろ見慣れている景色──たとえ
ば、自分の家の玄関の造りや庭の佇(たたず
ま)い、など──が、ある時、ふと、まるで
初めて見る時のように新しく、珍しく感じら
れるという経験をしたことはないでしょうか
。【2】そのような時、私たちは日常、眼で
ものを見ているつもりで、それでいて実は何
も見ていなかったのだということを感じます

 言葉についても、同じことです。【3】日
ごろ使い慣れている言葉ですから、私たちは
自分の使う言葉については何でも分かってい
るつもりですが、ふとした機会に、実はそれ
が勝手な思い込みであったことに気づいて、
はっとすることがあります。子どもたちは、
そのような機会をしばしば与えてくれます。
【4】──「ネコはどうしてネコと言うの。
」、「ハンバーグとハンドバッグは〔ものは
〕似ていないのに、どうして名前が似ている
の。」、「校歌を歌ってあげるね。『緑ノ風
ガ吹イーテイル……。』あれ、変だね。『緑
の風』なんてないよね。」などといった具合
です。【5】そして、日本語を習っている外
国人もそうです。──「山田サンと富士サ 
ン。なるほど日本人はフジヤマ好きなのね。
」、「『お目にかかる』と言うけど変ね。眼
にぶら下がられたら、重くて困るでしょ  
う。」
 【6】言葉を知っているといっても、私た
ちは毎日きまった道を通って通勤するのと同
じように、日ごろは言葉の世界でもきまった
道しか行き来していないのです。【7】しか
し、この世界には思いがけないところに別の
道があったり、それがまた他の新しい道と交
わったり、そうかと思うと、まわりまわって
気がつくと結局もとの道に戻ってしまってい
たりします。【8】詩人はそのような新しい
道を見出したり、自分で作り出したりもする
特別の才能を備えた人たちです。しかし、そ
うでなくとも、私たちは誰でもその気になれ
ば、言葉というものの持っている隠れた量り
知れない意味する力に気づくことができるは
ずです。
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 【9】まったく同じ顔つきでまったく同じ
性格の人がいないのと同じように、一つ一つ
の語も、その気になって観察してみると、そ
れぞれ実に個性のあるものです。【0】「頑
固」というのは聞いた感じも見た感じもいか
にも頑固そうですし、「前向き」のように何
とでもこちらの言いなりになってくれそうな
語もいます。「破廉 恥」のよう∵なけしか
らぬものも「ハレンチ」と装いを改めるとず
いぶん違った印象を与えます。「なまじっか
」のように長らくつき合ってきたのに、いざ
紹介してくれと言われると、どのように紹介
してよいのか分からなくて困る語もあります
。一人一人の子どもをそれぞれ個性ある人間
として見るのと同じ眼で語も眺めてみたら、
これほど愛着を感じさせるものはないのでは
ないでしょうか。
 それぞれの語にそのような個性があるのは
、その語が長い年月にわたって一つの文化の
中で培われてきたからです。私たちは、長い
間生活を共にしてきて、そのすべてを知りつ
くしている語は、他のどのような語でもって
も置きかえることのできない、かけがえのな
い何かがあると感じます。そのような語には
私たちは特別の愛着を感じますし、また、そ
の語について他の人に語って聞かせることほ
ど楽しいことはないはずです。たとえば、自
分が身につけている方言がそうでしょう。だ
から、もしそのような言葉を粗末に扱うよう
な人がいたとしたら、その人は、外国語の単
語を日本語の単語に一対一で置きかえれば事
がすむと思い込んでしまった人たちと同じよ
うに、言葉を使っているつもりで、実は言葉
に使われている人たちなのでしょう。

(池上嘉彦『ことばの詩学』による。)