【1】日ごろ見慣れている景色──たとえ ば、自分の家の玄関の造りや庭の佇(たたず ま)い、など──が、ある時、ふと、まるで 初めて見る時のように新しく、珍しく感じら れるという経験をしたことはないでしょうか 。【2】そのような時、私たちは日常、眼で ものを見ているつもりで、それでいて実は何 も見ていなかったのだということを感じます 。 言葉についても、同じことです。【3】日 ごろ使い慣れている言葉ですから、私たちは 自分の使う言葉については何でも分かってい るつもりですが、ふとした機会に、実はそれ が勝手な思い込みであったことに気づいて、 はっとすることがあります。子どもたちは、 そのような機会をしばしば与えてくれます。 【4】──「ネコはどうしてネコと言うの。 」、「ハンバーグとハンドバッグは〔ものは 〕似ていないのに、どうして名前が似ている の。」、「校歌を歌ってあげるね。『緑ノ風 ガ吹イーテイル……。』あれ、変だね。『緑 の風』なんてないよね。」などといった具合 です。【5】そして、日本語を習っている外 国人もそうです。──「山田サンと富士サ ン。なるほど日本人はフジヤマ好きなのね。 」、「『お目にかかる』と言うけど変ね。眼 にぶら下がられたら、重くて困るでしょ う。」 【6】言葉を知っているといっても、私た ちは毎日きまった道を通って通勤するのと同 じように、日ごろは言葉の世界でもきまった 道しか行き来していないのです。【7】しか し、この世界には思いがけないところに別の 道があったり、それがまた他の新しい道と交 わったり、そうかと思うと、まわりまわって 気がつくと結局もとの道に戻ってしまってい たりします。【8】詩人はそのような新しい 道を見出したり、自分で作り出したりもする 特別の才能を備えた人たちです。しかし、そ うでなくとも、私たちは誰でもその気になれ ば、言葉というものの持っている隠れた量り 知れない意味する力に気づくことができるは ずです。 |
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【9】まったく同じ顔つきでまったく同じ 性格の人がいないのと同じように、一つ一つ の語も、その気になって観察してみると、そ れぞれ実に個性のあるものです。【0】「頑 固」というのは聞いた感じも見た感じもいか にも頑固そうですし、「前向き」のように何 とでもこちらの言いなりになってくれそうな 語もいます。「破廉 恥」のよう∵なけしか らぬものも「ハレンチ」と装いを改めるとず いぶん違った印象を与えます。「なまじっか 」のように長らくつき合ってきたのに、いざ 紹介してくれと言われると、どのように紹介 してよいのか分からなくて困る語もあります 。一人一人の子どもをそれぞれ個性ある人間 として見るのと同じ眼で語も眺めてみたら、 これほど愛着を感じさせるものはないのでは ないでしょうか。 それぞれの語にそのような個性があるのは 、その語が長い年月にわたって一つの文化の 中で培われてきたからです。私たちは、長い 間生活を共にしてきて、そのすべてを知りつ くしている語は、他のどのような語でもって も置きかえることのできない、かけがえのな い何かがあると感じます。そのような語には 私たちは特別の愛着を感じますし、また、そ の語について他の人に語って聞かせることほ ど楽しいことはないはずです。たとえば、自 分が身につけている方言がそうでしょう。だ から、もしそのような言葉を粗末に扱うよう な人がいたとしたら、その人は、外国語の単 語を日本語の単語に一対一で置きかえれば事 がすむと思い込んでしまった人たちと同じよ うに、言葉を使っているつもりで、実は言葉 に使われている人たちなのでしょう。 (池上嘉彦『ことばの詩学』による。) |