長文集  12月1週  ★人は二足歩行で(感)  mu-12-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2016/09/14 14:27:52
 【1】人は二足歩行で手を解放し、その手
に道具を扱う役割を持たせ、それを発達した
大脳で制御するという方法によって、急速に
強い優勢な動物になった。【2】それが言葉
とならぶ異常な加速進化のもう一つの理由で
あったのだが、それはともかく、強くなった
ために狩る立場に立つことはあっても狩られ
る側にまわることはほとんどなくなった。【
3】そして、最近では事故や病気で死ぬこと
さえ最小限に抑えられ、現にわが国などは、
平均寿命において世界一の数字を誇っている
。【4】医学という蓄積可能な知識の体系に
よって死亡率を下げることが比較的容易であ
ることはあきらかで、それに対して伸びた寿
命の中身を充実させて幸福な老後を送ること
は大変に困難らしいが、ここではそういう面
には触れないでおこ う。【5】いずれにし
ても、われわれは狩られる感覚をすっかり忘
れてしまった。だから自分より強くて速い相
手に狩られることはそのまま極端な不幸であ
るという単純な認識にこりかたまってしまっ
ている。
 【6】喰われることは不幸である。それは
生命というものが個体にのみ宿り、あらゆる
努力を払って個体の存続をはかることが生命
の第一原理である以上は当然のことだ。【7
】しかし、追われる立場で動物としての知恵
をしぼって相手をまくこと、いやもっと危な
くぎりぎりまで追いすがられて、自分の脚力
だけをたよりにからくも逃げきること、相手
の存在に一瞬早く気付いて巧みに回避するこ
とにさえ、大いなる喜びが込められているの
かもしれない。【8】そういう時にこそ弱い
動物は自分が生きているという実感を改めて
感じて幸福感を味わうのかもしれない。
 動物の場合、われわれとは死の概念自体が
ずいぶん違うのではないかと思うのだ。【9
】この場合の動物という言葉には、現代文明
の中で生きるわれわれのような人間以外のす
べての哺乳類を含め る。つまり、先ほど書
いたような、動物たちとの交感関係にある狩
人たち、動物と同種の知恵によって生を維持
している人々もわれわれの側ではなくそちら
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
側に入れたいのだ。【0】彼らにとって死と
は、∵衰弱した精神が描く単純で強烈な恐怖
の源ではない。われわれの精神は死という言
葉を聞いただけで毛を逆立てる。想像力は自
分たちのみじめな姿を求めて暴走をはじめる
。だが死とは、本来、一つの成就、一つの完
成、一つの回帰である。自然から遠く離れて
個の概念を立てすぎたために、個体の意識を
離れてはすべてが無であるという考えがすべ
てを圧倒し、ひたすら個体にしがみつくこと
が至上命令となった。死はエゴの駆動装置に
なりさがってしまっ た。果たして、生きる
ことではなくただ死なないことに、それほど
の意義があるのだろうか。(中略)
 肉食獣に追われて逃げきるか喰われるかは
一つのゲームである。何度勝った者も最後に
は敗れる。自然界には自然死という言葉はな
い。老衰もない。動物はみな捕食者であると
同時に獲物であり、絶対の優位にたって喰う
だけという動物はいない。そして、彼らにあ
るのは事故死と病死だけだ。それがそのまま
不幸でないのは、そのことが生そのものの基
本条件だから、生というものが最初から死を
その中に含んでいるから、生きるものはそれ
を承知しているからである。死は常に目前に
あり、誰もそれを忘れたふりをしたりはしな
い。動物はみなこの危険なゲームに参加し、
興奮と高揚を味わい、常に危機を予想し警戒
しながら、さしあたり目前の若い青い草の味
を楽しむ。(中略)そういう濃密な時間の内
にこそ死は正しい形で用意されている。それ
を承知の生命ではないのか。(中略)
 動物は愚かだから悩みがないと言うのは間
違いだ。動物たちはお互いに大きな知恵を共
有することで個体のエゴを制限し、そこにち
ゃんと安心立命を見出している。その場その
場で力を尽くすだけ で、それを超える不安
があることに気付きもしない。本当はそんな
不安などないのではないか、と考えることが
できたら人間もまた彼らの境地にもう一歩な
のだが、それは容易なことではないらしい。
近代の宗教がまことしやかに語るやすらかな
最期や大往生の準備とは、実は失われた野生
動物と狩猟民族の精神の回復ということでは
ないのか。