長文 12.1週
1. 【1】人は二足歩行で手を解放し、その手に道具を扱うあつか 役割を持たせ、それを発達した大脳で制御せいぎょするという方法によって、急速に強い優勢な動物になった。【2】それが言葉とならぶ異常な加速進化のもう一つの理由であったのだが、それはともかく、強くなったために狩るか 立場に立つことはあっても狩らか れる側にまわることはほとんどなくなった。【3】そして、最近では事故や病気で死ぬことさえ最小限に抑えおさ られ、現にわが国などは、平均寿命じゅみょうにおいて世界一の数字を誇っほこ ている。【4】医学という蓄積ちくせき可能な知識の体系によって死亡率を下げることが比較的ひかくてき容易であることはあきらかで、それに対して伸びの 寿命じゅみょうの中身を充実じゅうじつさせて幸福な老後を送ることは大変に困難らしいが、ここではそういう面には触れふ ないでおこう。【5】いずれにしても、われわれは狩らか れる感覚をすっかり忘れてしまった。だから自分より強くて速い相手に狩らか れることはそのまま極端きょくたんな不幸であるという単純な認識にこりかたまってしまっている。
2. 【6】喰わく れることは不幸である。それは生命というものが個体にのみ宿り、あらゆる努力を払っはら て個体の存続をはかることが生命の第一原理である以上は当然のことだ。【7】しかし、追われる立場で動物としての知恵ちえをしぼって相手をまくこと、いやもっと危なくぎりぎりまで追いすがられて、自分の脚力きゃくりょくだけをたよりにからくも逃げに きること、相手の存在に一瞬いっしゅん早く気付いて巧みたく 回避かいひすることにさえ、大いなる喜びが込めこ られているのかもしれない。【8】そういう時にこそ弱い動物は自分が生きているという実感を改めて感じて幸福感を味わうのかもしれない。
3. 動物の場合、われわれとは死の概念がいねん自体がずいぶん違うちが のではないかと思うのだ。【9】この場合の動物という言葉には、現代文明の中で生きるわれわれのような人間以外のすべての哺乳類ほにゅうるい含めるふく  。つまり、先ほど書いたような、動物たちとの交感関係にある狩人かりゅうどたち、動物と同種の知恵ちえによって生を維持いじしている人々もわれわれの側ではなくそちら側に入れたいのだ。【0】彼らかれ にとって死とは、∵衰弱すいじゃくした精神が描くえが 単純で強烈きょうれつ恐怖きょうふの源ではない。われわれの精神は死という言葉を聞いただけで毛を逆立てる。想像力は自分たちのみじめな姿を求めて暴走をはじめる。だが死とは、本来、一つの成就、一つの完成、一つの回帰である。自然から遠く離れはな て個の概念がいねんを立てすぎたために、個体の意識を離れはな てはすべてが無であるという考えがすべてを圧倒あっとうし、ひたすら個体にしがみつくことが至上命令となった。死はエゴの駆動くどう装置になりさがってしまった。果たして、生きることではなくただ死なないことに、それほどの意義があるのだろうか。(中略)
4. 肉食じゅうに追われて逃げに きるか喰わく れるかは一つのゲームである。何度勝った者も最後には敗れる。自然界には自然死という言葉はない。老衰ろうすいもない。動物はみな捕食ほしょく者であると同時に獲物えものであり、絶対の優位にたって喰うく だけという動物はいない。そして、彼らかれ にあるのは事故死と病死だけだ。それがそのまま不幸でないのは、そのことが生そのものの基本条件だから、生というものが最初から死をその中に含んふく でいるから、生きるものはそれを承知しているからである。死は常に目前にあり、だれもそれを忘れたふりをしたりはしない。動物はみなこの危険なゲームに参加し、興奮と高揚こうようを味わい、常に危機を予想し警戒けいかいしながら、さしあたり目前の若い青い草の味を楽しむ。(中略)そういう濃密のうみつな時間の内にこそ死は正しい形で用意されている。それを承知の生命ではないのか。(中略)
5. 動物は愚かおろ だから悩みなや がないと言うのは間違いまちが だ。動物たちはお互いに たが  大きな知恵ちえを共有することで個体のエゴを制限し、そこにちゃんと安心立命を見出している。その場その場で力を尽くすつ  だけで、それを超えるこ  不安があることに気付きもしない。本当はそんな不安などないのではないか、と考えることができたら人間もまた彼らかれ の境地にもう一歩なのだが、それは容易なことではないらしい。近代の宗教がまことしやかに語るやすらかな最期や大往生の準備とは、実は失われた野生動物と狩猟しゅりょう民族の精神の回復ということではないのか。