長文 12.4週
1. ある日、昼めしをおえると父親は、あごをなでながらかみそりを取り出した。きちは湯をのんでいた。 
2.「だれだ。このかみそりをぼろぼろにしたのは。」 
3. 父親は、かみそりのをすかして見てから、紙のはしを二つにおって切ってみた。が、すこしひっかかった。父の顔はすこしけわしくなった。 
4.「だれだ。このかみそりをぼろぼろにしたのは。」 
5. 父はかたそでをまくって、うでをなめると、かみそりをそこへあててみて、 
6.「いかん。」といった。 
7. きちはのみかけた湯をしばし口へためて、だまっていた。 
8.「きちがこのあいだといでいましたよ。」と、姉は言った。 
9.「きち、おまえどうした。」 
10.やっぱり、きちはだまっていた。 
11.「うむ、どうした?」 
12.「ははあ、わかった。きちは屋根うらへばかりあがっていたから、なにかしていたにきまっている。」と、姉はいって庭へおりた。 
13.「いやだい。」と、きちはさけんだ。 
14. 姉ははりのはしにつりさがっているはしごをのぼりかけた。するときちは、はだしのまま庭へおりて、はしごを下からゆすぶりだした。 
15.「こわいよう、これ、きちってば。」 
16. かたをちぢめている姉は、ちょっとだまると、口をとがらせてつばをかけようとした。 
17.「きちっ。」と、父はしかった。 
18. しばらくして屋根うらのおくの方で、 
19.「まあ、こんなところに面がこさえてあるわ。」という姉の声がした。 
20. きちは姉が面を持っておりてくると、とびかかった。姉はきちをつきのけて面を父にわたすと、父はそれを高くささげるようにして、しばらくだまってながめていたが、 
21.「こりゃよくできとるな。」 
22. また、ちょっとだまって、 
23.「うむ、こりゃよくできとる。」といってから、頭を左へかしげかえた。∵
24. 面は父親を見おろして、ばかにしたような顔でにやりとわらっていた。 
25. その夜、納戸で父親と母親とは、ねながら相談した。 
26.「きちをげた屋にさそう。」 
27. 最初にそう父親がいうと、いままでだまっていた母親は、 
28.「それがいい。あの子はからだがよわいから遠くへやりたくない。」といった。 
29. まもなくきちはげた屋になった。 
30. きちの作った面は、その後、かれの店のかもいの上でたえずわらっていた。むろんなにをわらっているのかだれも知らなかった。 
31. きちは二十五年、面の下でげたをいじりつづけてびんぼうした。 
32. ある日、きちはひさしぶりでその面を見た。すると面は、いかにもかれをばかにしたような顔をしてにやりとわらった。きちははらがたった。つぎにはかなしくなった。が、またはらがたってきた。 
33.「きさまのおかげで、おれはげた屋になったのだ。」 
34. きちは面をひきおろすと、なたをふるってその場でそれを二つにわった。しばらくしてかれは、げたの台木をながめるように、われた面をながめていたが、なんだかそれでりっぱなげたができそうな気がしてきた。