1. ある日、昼めしをおえると父親は、あごをなでながらかみそりを取り出した。
吉は湯をのんでいた。
2.「だれだ。このかみそりをぼろぼろにしたのは。」
3. 父親は、かみそりの
刃をすかして見てから、紙のはしを二つにおって切ってみた。が、すこしひっかかった。父の顔はすこしけわしくなった。
4.「だれだ。このかみそりをぼろぼろにしたのは。」
5. 父はかたそでをまくって、うでをなめると、かみそりをそこへあててみて、
6.「いかん。」といった。
7.
吉はのみかけた湯をしばし口へためて、だまっていた。
8.「
吉がこのあいだといでいましたよ。」と、姉は言った。
9.「
吉、おまえどうした。」
10.やっぱり、
吉はだまっていた。
11.「うむ、どうした?」
12.「ははあ、わかった。
吉は屋根うらへばかりあがっていたから、なにかしていたにきまっている。」と、姉はいって庭へおりた。
13.「いやだい。」と、
吉はさけんだ。
14. 姉は
梁のはしにつりさがっているはしごをのぼりかけた。すると
吉は、はだしのまま庭へおりて、はしごを下からゆすぶりだした。
15.「こわいよう、これ、
吉ってば。」
16. かたをちぢめている姉は、ちょっとだまると、口をとがらせてつばをかけようとした。
17.「
吉っ。」と、父はしかった。
18. しばらくして屋根うらのおくの方で、
19.「まあ、こんなところに面がこさえてあるわ。」という姉の声がした。
20.
吉は姉が面を持っておりてくると、とびかかった。姉は
吉をつきのけて面を父にわたすと、父はそれを高くささげるようにして、しばらくだまってながめていたが、
21.「こりゃよくできとるな。」
22. また、ちょっとだまって、
23.「うむ、こりゃよくできとる。」といってから、頭を左へかしげかえた。∵
24. 面は父親を見おろして、ばかにしたような顔でにやりとわらっていた。
25. その夜、納戸で父親と母親とは、ねながら相談した。
26.「
吉をげた屋にさそう。」
27. 最初にそう父親がいうと、いままでだまっていた母親は、
28.「それがいい。あの子はからだがよわいから遠くへやりたくない。」といった。
29. まもなく
吉はげた屋になった。
30.
吉の作った面は、その後、かれの店のかもいの上でたえずわらっていた。むろんなにをわらっているのかだれも知らなかった。
31.
吉は二十五年、面の下でげたをいじりつづけてびんぼうした。
32. ある日、
吉はひさしぶりでその面を見た。すると面は、いかにもかれをばかにしたような顔をしてにやりとわらった。
吉ははらがたった。つぎにはかなしくなった。が、またはらがたってきた。
33.「きさまのおかげで、おれはげた屋になったのだ。」
34.
吉は面をひきおろすと、なたをふるってその場でそれを二つにわった。しばらくしてかれは、げたの台木をながめるように、われた面をながめていたが、なんだかそれでりっぱなげたができそうな気がしてきた。