長文 10.1週
1. 【1】明治十年(一八七七)に英語のソサイエティが社会という言葉に翻訳ほんやくされ、明治十七年にインディヴィデュアルが個人という言葉に訳された。しかし訳語が出来ても社会の内容も個人の内容も現在にいたるまで全く実質をもたなかった。【2】西欧せいおうでは個人という言葉が生まれてから九世紀もの闘争とうそうを経てようやく個人は実質的な権利を手に入れたのである。日本で個人と社会の訳語が出来てもその内容は全く異なったものだった。なぜなら日本では古代からこの世を「世間」と見なす考え方が支配してきたからである。【3】では、この「世間」はどのような人間関係をもっていたのだろうか。そこにはまず贈与ぞうよの関係が貫かつらぬ れていた。「世間」の中には自分が行った行為こういに対して相手から何らかの返礼があることが期待されており、その期待は事実上義務化している。【4】例えばお中元やお歳暮 せいぼ結婚けっこんの祝いや香典こうでんなどである。
2. 重要なのはその際の人間は人格としてそれらのやりとりをしているのではないという点である。贈与ぞうよ関係における人間とはその人が置かれている場を示している存在であって、人格ではないのである。【5】こうした関係と時間意識によって日本の世間はヨーロッパのような公共的な関係にはならず、私的な関係が常にまとわりついて世間を疑似公共性の世界としているのである。
3. 【6】贈与ぞうよの場合それは受け手の置かれている地位に送られるのであって、その地位から離れれはな  贈り物おく ものがこなくなっても仕方がないのである。贈り物おく ものの価値に変動がある場合も受け手の地位に対する送り手の評価が変動している場合なのであり、あくまでも人格ではなく、場の変化に過ぎないのである。【7】しかし「世間」における贈与ぞうよは現世を越えこ ている場合もあり、あの世へ行った人に対する贈与ぞうよも行われている。
4. 日本における人間関係を考える場合、この贈与ぞうよ慣行を無視することは出来ない。【8】何らかの手助けをして貰っもら たときなどにもお礼としてものなどを送ることがある。その場合にも返礼はしなければならないが、場合によっては礼状で済ますことも出来る。日本で人間関係を良く保ちたいと思えば、この慣行をうまく利用することが必要となる。【9】単に場に対する贈り物おく ものであっても、自分の人格∵に貰っもら たものとして丁重に礼状を書き、場合によっては返礼をするのである。これは贈与ぞうよ慣行を逆手にとった手であって、それによっては相手の敬意を受ける場合もある。
5. 【0】次に時間意識の問題がある。「世間」の中には共通の時間意識が流れている。日本人の挨拶あいさつに「今後ともよろしくお願いします」という挨拶あいさつがあるが、これは日本特有のものであって、欧米おうべいにはそれに当たる挨拶あいさつはない。なぜなら日本人は「世間」という共通の時間の中で生きているので、初対面の人でも何時かまた会う機会があると思っている。しかし欧米おうべいの人は一人一人の時間を生きているので、そのような共通の時間意識はない。
6. これと関連して日本では「先日はありがとうございました」という挨拶あいさつがしばしば交わされる。しかし同じ挨拶あいさつ欧米おうべいにはないのである。欧米おうべいではそのときのお礼はそのときにするものであって、遡っさかのぼ てお礼をいう習慣はない。日本の「今後ともよろしく」という挨拶あいさつがお礼の先払いさきばら であるとすると、「先日はありがとう」という挨拶あいさつは過去の行為こういに対するお礼の後払あとばらいということになる。
7. 「世間」は広い意味で日本人の公共性の役割を果たしてきたが、西欧せいおうのように市民を主体とする公共性ではなく、人格ではなく、それぞれの場をもっている個人の集合体として全体を維持いじするためのものである。公共性という言葉は公として日本では大きな家という意味であり、最終的には天皇に帰着する性格をもっている。そこに西欧せいおうとの大きな違いちが がある。現在でも公共性という場合、官を意味する場合が多い。「世間」は市民の公共性とはなっていないのである。

8.(阿部あべ謹也きんや『近代化と世間』による)