長文集  11月2週  ★上野で絵を見たあと(感)  mu2-11-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:22
 【1】上野で絵を見たあと、夕方からは日
比谷でチェコのヤナーチェク弦楽四重奏団の
演奏会をきいた。
 モーツァルト、ドヴォルジャーク、ブラー
ムスの順に三曲きいたが、ドヴォルジャーク
がいちばんであった。【2】実はこの日、は
じめの二曲は二階席できいて、最後の曲を、
芝居でいえばカブリツキに当たるところの招
待席できく珍しい経験をした。そして、招待
席と二階席とでは、どうも、音の大小ではな
く、音色の質がかなり違うということに気が
ついた。【3】正直なところ、私には、二階
の方がまとまった印象をもつことができた。
一階正面の最前列に座っていると、音楽がす
こし近すぎるのではないかという感じであ 
る。おそらくそれは物理的で同時にまた心理
的な問題であろう。
 【4】同じ音楽でも、あるときはひどく感
心し、別のときはさほどでないことがある。
それと似て、ある席ではすばらしい演奏が、
ほかの席では何割か割引きしなくてはならぬ
ということがないとは言えないだろう。
 【5】芸術において、作品は必ずしも絶対
ではない。時、所を超越して価値にすこしの
くるいもないという芸術がないのは、どんな
作品にも、それを受けとる人間の心が必要だ
からで、両者のふれ合うところにしか美は生
まれない。
 【6】そんなことを考えるともなく考えて
いると、きょうめいということばが頭に浮か
んだ。
 人の意見に共鳴する、などと、いまでは比
喩として用いられる が、もともとは物理現
象を指すことばであって、いまも物理学で共
鳴という術語は生きている。
 【7】むかし中学校で共鳴の実験をしたも
のだ。振動数の等しい二つの音叉の一方を鳴
らすと他方もつられて鳴り出す。その実験、
やれと言われてやっただけで、別に不思議と
も思わなかったが、いまから考えると、もっ
たいないことをしたものだ。【8】もうすこ
しよく心に留めておけばよかったと悔やまれ
る。いまやりたくてもだいいち音叉がない。
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それはとにかく、比喩であることすら忘れら
れて使われている。
 【9】共鳴ということばを、もう一度、物
理の世界へお返ししてみると、そこに、われ
われの芸術的感動の原理のようなものが、チ
ラリと姿をのぞかせるように思われる。∵
 われわれはみんな心の奥に音叉をもってい
る。【0】絵を見、音楽をきき、詩や小説を
読む――そういう外からのいろいろの刺激は
意識されない波となってこの胸中の音叉に達
する。それによって、われわれは「心を動か
し」、「感動し」、あるいは「心の琴線にふ
れた」と言うが、要するにそれは共鳴である

 ただ、物理実験で使用する音叉には振動数
がはっきりしているのに、心の琴線が共鳴を
おこす振動数はまだはっきりしていない。そ
れがとらえられれば、鑑賞が学問となるかも
しれない。
 芸術的共鳴の成立する条件については何ひ
とつわかっていない が、鑑賞者が作品、表
現にあまり接近しすぎては共鳴に不便らしい
こと、その距離が美感に関係のあるらしいこ
となどは見当がつきそうである。ひょっとす
ると、共鳴によって芸術の与える感動を説明
できるかもしれない、そう思ったら、自分で
もおかしいくらい心が高ぶって来た。

(外山滋比古(とやましげひこ)「きょうめ
い」より)