長文 11.3週
1. 【1】じつは、「正しい」という言葉には、真理という意味と正義という意味の二つが含まふく れている。真理のほうは、どちらかというと、事実に合致がっちしているとか、論理的に整合的だとかいう意味であるため、客観的に証明できる可能性が高い。【2】しかし正義というのは、人間としてのあり方が正しいという道徳的な意味合いが強いので、主観的な色合いが強い。だから客観的に主張できないところがある。【3】そして正義を旗印にして不正義をしたり、侵略しんりゃくすることもできる。歴史を調べてみると、悪いことは必ず正義の旗印のもとになされたと言う人もいる。そこで、正義など掲げるかか  やつは悪いやつばかりだと言って、正義という言葉そのものに不信感をぶっつける人もいるくらいである。
2. 【4】正義というのは、人間として道理にかなっている、人間としてあるべき正しい姿に合致がっちしているということ。うそ、いつわり、ごまかし、汚いきたな ことをしないという意味である。【5】自分が正しいということは、世の中のほうが間違っまちが ている、それと対立している自分のほうが正しいという判断と感情をもつことである。その間違っまちが ている世の中に合わせると、本来の自分が失われてしまうことになる。【6】正しいと思う自分を貫くつらぬ ということが、「個性化」の道を歩むということである。
3. ただし、そのときに注意しなければならないことがある。それは第一に「正しさ」の主張が「ひとりよがり」になってはならないということである。【7】自分が「正しい」と思っていたことが、「正しくなかった」と思い知らされることもある。それが「一段上の基準や立場から自我が否定される」ということであり、自分の価値観を変えなければならないという体験である。【8】この体験も個性化の中でよく起きることである。このように自分の「正しさ」について謙虚けんきょにならないといけないが、そうかといって、自分だけで正しいと思うように暮らしていれば事足りるというのではない。【9】自分だけ好きなように暮らすということだけでも、周囲の人たちの支持や理解がないと不可能である。本人が変わっていればいるほど、周囲の人たちの理解がないと、なかなか生きていくことさえ難しい。自分の「正しさ」をどれだけアピールできるかが大切なのである。【0】そしてそのためには、自分の「変わっている」ところが、どれだけ普遍ふへん性をもっているか、そしてそれをどれだけ主張できるかが、も∵っとも大切なのである。
4. 以上のように「正しさ」を考えるときには、一方で自己主張し、他方では謙虚けんきょになることが大切だが、しかしそういうことも、じつは「正しさ」や「価値」を追求しているからこそ起きるのである。「正しさ」そのもの、価値そのものを否定してしまっては、自分が「変わる」ということも起こりえないのである。
5. このごろ、「価値の多様化」とか、「多様な家族」とか、「人間いろいろあるのがいいんだ」などということを、したり顔に言う人がふえてきた。それらは「絶対に正しいことなんかないんだ」という意味を含んふく だ言葉である。「絶対に正しいということはない」という命題は正しいと思うのだが、それがさらに進んで「正しいと思うことを主張してはいけない」となると、自己矛盾むじゅんを犯すことになる。「正しいと思うこと」を主張し合うのが「価値の多様化」ということではないだろうか。「正しいことは何だ」ということを追求してはいけないと言ったら、多様化もなにもあったものではない。各人が自分の正義を追求するからこそ、多様な価値観が生まれるのである。正義や真理を追究してはいけないとなったら、多様もなにも、価値そのものがなくなってしまう。「価値の多様化」を主張している人たちの多くの部分が、じつは価値の消失をひそかに願っているのかもしれない。
6. 結論を言えば、「個性化」にとっては、普遍ふへん的な意味を追求するという姿勢が大切なのである。何が普遍ふへん的なのか、正義感があるほうが普通ふつうなのかないほうが普通ふつうなのか、お化粧けしょうをするほうが普通ふつうなのかしないほうが普通ふつうなのか、そういうことに絶対的な基準はない。でも、どちらが正しいか、という各人の観点は必要である。それが「個性」であり、何が正しいのかを追求することなしに個性化はありえない。答えがそれぞれ違っちが たら、きちんと理論的にも感情的にも納得させることのできる内容をもって自己主張するべきである。何人を納得させればいいのか、ということではないが、まあ最低限一人くらいには納得させるものがなくてはならないだろう。恋人こいびと、夫、妻、親、子……。そのうち一人も納得させられないようであれば、それは個性とは言えない。

7.(林道義「心の不思議を解き明かす」より)