長文集  12月4週  ○牛の生き血を(感)  mu2-12-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2020/09/15 13:08:03
 【1】牛の生き血を満たしたコップが目の
前にさしだされたと き、頭に浮かんだのは
「細菌がいっぱいだろうな」だった。
 しかし、見つめているマサイの若者たちの
手前、飲まないわけにいかない。思い切って
一気に飲んだ。【2】意外に血のにおいはし
ない。私の懸命の表情がおかしかったのだろ
う、若者たちが手をたたいて笑った。
 アフリカ特派員時代、マサイの伝統的な生
活が見たくてケニアのサバンナを訪れた。出
会った遊牧のマサイ青年たちに同行を認めて
もらい、彼らと一緒に野宿した。【3】その
翌朝、生き血の接待にあずかったのである。
 伝統的な生活をするマサイの人々は、野菜
や穀物をいっさい口にしない。土から生えて
くるものは不浄だとする教えがあるからだ。
食べるのは肉、乳、血だけである。【4】そ
れでも脚気や壊血症のようなビタミン欠乏症
にならないのは、牛が草を食べてとったビタ
ミンを生き血から摂取しているためだった。
 細菌の恐れがある牛の血など飲まず、新鮮
な野菜を食べればいいではないか。【5】穀
物や野菜は不浄だなどという不合理な考えは
捨てて……。そこまで考えてハッとした。
 マサイが住むサバンナでは、雨が年間に三
百ミリ程度しか降らない。平均千八百ミリと
いわれる日本の六分の一以下だ。【6】そん
な土地で農耕に依存する生活を始めたら最後
、たちまち干ばつに悩まされることになる。
民族の存亡にも関わる問題だ。そのため彼ら
は、「土から生えるものは不浄だ」という教
えで農業を遠ざけ、遊牧の生活に依拠してい
るのではないか――。【7】牛の生き血を飲
むのは、野蛮で未開だからではない。そうし
なければ生きていけない環境に住む人々の、
生活の知恵だった。
 牛の血だけではない。アフリカ南西部のガ
ボンでは、知らずにサルを食べてしまったこ
とがある。【8】食事がすんでから、シチュ
ーの中身がサルの肉だったことを教えられた
。なぜガボンの人々はサルなど食べるのだろ
う。
 サバンナと逆に、ガボンは熱帯雨林帯にあ
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り、年間降水量が五千ミリに達する。【9】
ちょっと奥地に入ると巨大な樹木がびっしり
密生∵しており、農業をしたり、牛や羊を飼
うような開けた土地を確保するのはむずかし
い。人々は生きていくため、密林の中でたん
ぱく質を手に入れなければならない。密林の
たんぱく質――それがサルだったのだ。
 【0】一方でアフリカには「食べない文化
」もある。イスラム圏の豚肉だ。
(中略)
 ユダヤ教も豚肉を食べないのは同じだ。あ
る日、ユダヤ人の知人から「反芻しない動物
は食べられないことになっている」と聞いて
合点がいった。
 牛や羊、ヤギ、ラクダなどの反芻する動物
は、草を食べて消化する能力がある。人間は
草を消化できないから食べない。したがっ 
て、牛と人間が食物をめぐって競合すること
はない。しかし反芻しない豚は草を食べるこ
とができず、穀物を食べる。したがって人間
と競合する。
 ユダヤ教やイスラム教が生まれた土地は砂
漠の荒れ地だ。苦労してつくったわずかな穀
物を、豚に取られてはたまらない。豚肉は、
牛肉や羊肉にくらべてくさみがなく、やわら
かい。権力者や金持ちは、庶民から穀物を奪
ってでも豚を育てようとするかもしれない。
それを防ぐために「豚を食べてはいけない」
と教えたのではないか――。
 食文化というのは、暑さ寒さや雨の量、地
形風土、その他もろもろの環境の影響を受け
ながら、長年かかってその地域で形成されて
きたものだ。未開とか野蛮とかいうレベルの
問題ではないのであ る。
 気候や風土などの環境は、食に影響を与え
るだけではない。人々の社会生活やものの考
え方、宗教にも影響していく。
 特派員としてアフリカ大陸で八年暮らした
。その中で、「食べ る」とか「寝る」とい
う行為を通じて「なぜ」を考え続けた。異文
化と出会ったとき「野蛮!」と切り捨ててし
まってはいけない。「なぜ?」と考えていけ
ば、その根っこにあるものにさわれるかもし
れないのである。 (松本仁一「異文化の根
っこ」による)