1.【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
2. ちょうど、その前の年、
僕が六年生の
晩秋のことであった。
3. 中学へ入るための予習が、もう毎日つづいていた。暗くなって家へ帰ると、
梶棒をおろしたくるまが二台表にあり、
玄関の上がり口に
車夫がキセルで
煙草をのんでいた。
4. この二、三日、母の
容体が面白くないことは知っていたので、くつを
脱ぎながら、
僕は気になった。着物に着がえ顔を
洗って、電気のついた茶の間へ行くと、食事のしたくのしてある
食卓のわきに、
編み物をしながら、姉は
僕を待っていた。
僕はおやつをすぐにほおばりながら聞いた。
5.「ただ今。――お医者さん、きょうは二人?」
6.「ええ、昨夜からお悪いのよ」
7. いつもおなかをへらして帰って来るので、姉はすぐにご飯をよそってくれた。
8. 父と三人で
食卓を囲むことは、そのころはほとんどなかった。ムシャムシャ食べ出した後に、姉もはしをとりながら、
9.「節ちゃん、お父さまがね」という。「あさっての遠足ね、この分だとやめてもらうかも知れないッて、そうおっしゃっていたよ」
10. 遠足というのは、六年生だけ
一晩泊まりで、
修学旅行で日光へ行くことになっていたのだ。
11.「チェッ」
僕は
乱暴にそういうと、ちゃわんを姉につき出した。
12.「節ちゃんには、ほんとにすまないけど、もしものことがあったら。――お母さんとてもお悪いのよ」
13.「知らない!」
14. 姉は
涙ぐんでいる様子であった。それもつらくて、それきりだまりつづけて夕飯をかきこんだ。(
中略)
15. 生まれて初めて、級友と
一泊旅行に出るということが、少年にとってどんなにみりょくを持っているか! 級の
誰彼との約束や計画が、あざやかに
浮かんでくる。両の
眼に
涙がいっぱいあふれてきた。
16. 父の
書斎のとびらがなかば開いたまま、
廊下へ灯がもれている。(
中略)∵
17. いつも父のすわる大ぶりないす。そして、ヒョイッと見ると、
卓の上には、くるみを
盛った皿が置いてある。くるみの味なぞは、
子供に
縁のないものだ。イライラした気持ちであった。
18. どすんと、そのいすへ身を投げこむと、
僕はくるみを一つ取った。そして、冷たいナット・クラッカーへはさんで、
片手でハンドルを
圧した。小さなてのひらへ、かろうじて
納まったハンドルは、くるみの固いからの上をグリグリとこするだけで、
手応えはない。「どうしても
割ってやる」そんな気持ちで、
僕はさらに右手の上を、左手で包み、ひざの上で全身の力をこめた。しかし、級の中でも
小柄で、きゃしゃな自分の力では、ビクともしない。(
中略)
19. 左手の下でにぎりしめた右のてのひらの皮が、少しむけて、ヒリヒリする。
僕はかんしゃくを起こして、ナット・クラッカーを
卓の上へ放り出した。クラッカーはくるみの皿に
激しく当たって、皿は
割れた。くるみが三つ四つ、
卓からゆかへ落ちた。
20. そうするつもりは、さらさらなかったのだ。ハッとして、いすを立った。
21.
僕は二階へかけ上がり、勉強
机にもたれてひとりで泣いた。その
晩は、母の病室へも
見舞いに行かずにしまった。
22. しかし、幸いなことに、母の病気は
翌日から小康を得て、
僕は日光へ遠足に行くことができた。
23. ふすまをはらった宿屋の大広間に、ズラリとふとんをしきつらねたその夜は、実ににぎやかだった。果てしなくはしゃぐ、
子供たちの上の電
燈は、八時ごろに消されたが、それでも、なかなかさわぎはしずまらなかった。
24. いつまでも
僕は
寝つかれず、東京の家のことが思われてならなかった。やすらかな友だちの
寝息が耳につき、
覆いをした母への電
燈が、まざまざと
眼に
浮かんできたりした。
僕は、ひそかに自分の
性質を反省した。この反省は、
僕の
生涯で最初のものであった。
25.(
永井龍男「
胡桃割り」)∵
26. 【1】大学だけでなく、各地の
保育園や
幼稚園に
講演に行く機会もかなりあって、参観に来た母親と子どもの様子をそれとなく観察してきました。
極端にことば数が少ないお子さんの場合、母親のタイプは二通りに分けられるのではないかと思います。
27. 【2】一つは、お母さん自身も無口で
引っ込み思案、
自己主張が少なく、ウサギのようにほとんど声を出さないというケースです。おしめを
換えるにも、
授乳するにも、
靴をはかせるにも、すべて
黙々と行っている。【3】
気質の
遺伝などもあるでしょうが、子どもの側からすれば、どういう局面でどういうことばを用いるのか、
模範を
示してもらうチャンスが少ないのですから、自分のことばが出てくるまでに、時間がかかるのは当然かもしれません。【4】ようするにこれは、マザリーズのところで
述べた「くりかえし」の不足だと思います。
28. もう一つは
逆に、母親がひどくおしゃべりで、子どもの自発
性を生かす「間」が不足している場合です。子どもは家で四六時中ことばのシャワーを浴びているはずなのに、なぜこんなに無口なのか。【5】ほんとにこれがあの母親の子なのかと、わが目わが耳を
疑うことがあります。でも長い目で見ると、やはり、
因果関係の
釣り合いが、ちゃんと
保たれているのかもしれません。ふだんはほとんどおしゃべりしない子が、ある日
突然、母親のいないときにかぎって、
堰を切ったように話しはじめる。【6】いったいこの子、どうなってるのと、まわりの人はびっくり。しばらくすると、ピタッとおさまって、何事もなかったかのようにまた無口な子どもにもどります。そういう子はえてして、大人になってからも、ふだんは
寡黙な、はにかみやと見なされている場合が多いようです。
29. 【7】母親との語らいが子どもの
脳を
活性化するという川島さんの実験データは、じつに
興味深いものがあります。だとすれば、
臨界期の中心に位置すると思われる大切な時期に、
魔法使いであるはずの母親が
魔法の力をふるうことを
怠れば、
刷り込みの力ははたらかないわけです。∵
30. 【8】「三つ子の
魂百まで」ということは、三
歳までに学んだことが、百年分に
匹敵する決定的な
影響を
与えるということではないでしょうか。ですから、もし母親が一分間、赤ちゃんに話しかけるとすれば、
単純計算だけでもその約三十三倍、つまり三十三分間話しかけただけの
効果を生みます。【9】十分間話しかければ、三百三十分、五時間以上話しかけただけの
質的な
影響力をもつことになります。
31. すでにマザリーズのところで
述べたように、母親の話しかけには、くりかえしだけでなく「間」が大切ですが、間を生かすためには、母親の心がその場に
居合わせることが
肝心だと思います。【0】
授乳しながら赤ちゃんに
優しく話しかければ、赤ちゃんは体の栄養分だけでなく、同時に「
魂の
糧」も
吸収しているわけです。もしその時、母親が
片手間に新聞を読んでいたり、テレビの画面に
夢中だったり、赤ちゃんから気がそれていたりしたらどうでしょう。そこには気持ちのキャッチボール、つまり心と心の対話が
欠如しているのではないかと思います。赤ちゃんはおそらく、母親の気持ちが自分に、向けられていないことを感知し、心のどこかで
欲求不満を覚えているにちがいありません。
32. ことばと心は、深いところでしっかりつながっています。育児や、家事、
職業、
趣味などの
明け暮れで、どんなに
忙しい母親でも、子どもに
接するときは一期一会、目を見つめながら、心をこめて話しかけたいものです。
33.(川島
隆太・安達
忠夫「『
脳と音読』「
講談社現代新書」
所収による」)