長文集  4月4週  ○電車や飛行機の中で  na2-04-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2011/02/08 11:09:29
 【1】電車や飛行機の中で、乗務員に対し
て理由もなく横柄な人がいる。こっけいだ。
乗せてもらわなくては困るくせに、何をいば
っているのだろう。旧国鉄の内部には「乗せ
てやる」という言い回しがあったそうで、そ
れもひどい勘違いだと思うけれど。
 【2】「いや、お客は偉い。買う時は、だ
れもが王様になる」という考え方もあるだろ
う。しかし、それだと無用のストレスが社会
に広がりそうで、賛同しかねる。王様やお姫
様の気分にしてあげることを目的とした一部
のサービス業を例外として。
 【3】子供のころ、駄菓子屋でキャラメル
を買う時や、食堂で親が精算をしている時、
「買ってやったぞ」とお客様面をしていた。
高度経済成長期に育ったので、小学生でもい
っぱしの消費者として扱われた結果と言える
。【4】そんな私が現在のように「転向」し
たのは、自分が社会に出て接客の現場にいた
せいだろうが、それに先立つ経験もある。
 中学生になるかならずかという夏休み。両
親の郷里である高松で過ごし、源平合戦で有
名な屋島に遊びに行った。【5】三つ年下の
弟と二人だったように思う。平日のことで山
上に人は少なかった。蝉しぐれの遊歩道を散
策した私は、ある光景に出くわす。
 休憩所の店先に帽子をかぶったおじさんが
立ち、中をのぞいていた。五十代ぐらいの人
だったのではないか。【6】連れはいなかっ
た。うどんでも食べて店を出ようとしていた
らしい。おじさんは財布を片手に、店の奥に
向かって言った。「ごちそうさまぁ」
 意外な言葉だった。代金を払おうとしてい
るのに店員の姿が見当たらない場合、とりあ
えず「すみませーん」と呼びかけるものだと
思っていた。【7】いや、それしか思いつか
なかった。なのに、このおじさんは無料でも
てなされたかのように「ごちそうさま」と言
う。一瞬だけ違和感を覚えた後、私の内に変
化が起きた。
 自分のために料理を作ってくれたのだから
、お客として代価を支払うとしても「ごちそ
うさま」と言うのが礼儀にかなっている。∵
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
【8】考えたこともなかったけれど、それは
そうだと納得し、お客は偉いわけではない、
と知ったのだ。
 後日、食堂だかレストランだかで食事をし
て店を出る時に、私は小声でぎこちなく「ご
ちそうさま」と言ってみた。【9】すると、
照れくさい気もしたが、それだけのことで一
歩大人に近づいたように感じた。以来、店側
に不始末がないかぎり「ごちそうさま」を言
い添えている。
 屋島で見た何でもないひとコマが、私を少
しだけ変えた。あのおじさんには、今も感謝
している。【0】先方は、すれ違っただけの
少年に何事かを教えたとはゆめゆめ思ってい
ないだろうが、大人の言動が子供にあたえる
影響は、かほど大きいのだ。平素から心して
おかなくてはならない。
 書店員をしていて、いろんな人と遭遇した
。ブックカバーをつけただけで「どうもあり
がとう」と言ってくれる人ばかりではない。
ささいな行き違いで激昂(げきこう)し、ア
ルバイトの大学生に「おれは客やぞ。社長に
電話したろか!」と金切り声でさけぶ小学生
をなだめたこともある。根性の曲がったガキ
だな、と思いつつ、君はろくな大人と会った
ことないんだね、とかわいそうになった。

(有栖川有栖「お客は偉くない」『二〇〇七
年七月二十九日 日経新聞文化面コラム』)