長文 4.4週
1. 【1】電車や飛行機の中で、乗務じょうむ員に対して理由もなく横柄おうへいな人がいる。こっけいだ。乗せてもらわなくては困るこま くせに、何をいばっているのだろう。きゅう国鉄の内部には「乗せてやる」という言い回しがあったそうで、それもひどい勘違いかんちが だと思うけれど。
2. 【2】「いや、お客は偉いえら 。買う時は、だれもが王様になる」という考え方もあるだろう。しかし、それだと無用のストレスが社会に広がりそうで、賛同さんどうしかねる。王様やお姫様 ひめさまの気分にしてあげることを目的とした一部のサービス業を例外として。
3. 【3】子供こどものころ、駄菓子だがし屋でキャラメルを買う時や、食堂で親が精算せいさんをしている時、「買ってやったぞ」とお客様面をしていた。高度経済けいざい成長期に育ったので、小学生でもいっぱしの消費者として扱わあつか れた結果と言える。【4】そんなわたし現在げんざいのように「転向」したのは、自分が社会に出て接客せっきゃく現場げんばにいたせいだろうが、それに先立つ経験けいけんもある。
4. 中学生になるかならずかという夏休み。両親の郷里きょうりである高松で過ごしす  源平げんぺい合戦で有名な屋島に遊びに行った。【5】三つ年下の弟と二人だったように思う。平日のことで山上に人は少なかった。蝉しぐれせみ   の遊歩道を散策さんさくしたわたしは、ある光景に出くわす。
5. 休憩きゅうけい所の店先に帽子ぼうしをかぶったおじさんが立ち、中をのぞいていた。五十代ぐらいの人だったのではないか。【6】連れはいなかった。うどんでも食べて店を出ようとしていたらしい。おじさんは財布さいふ片手かたてに、店のおくに向かって言った。「ごちそうさまぁ」
6. 意外な言葉だった。代金を払おはら うとしているのに店員の姿すがたが見当たらない場合、とりあえず「すみませーん」と呼びかけるよ    ものだと思っていた。【7】いや、それしか思いつかなかった。なのに、このおじさんは無料でもてなされたかのように「ごちそうさま」と言う。一瞬いっしゅんだけ違和感いわかんを覚えた後、わたしの内に変化が起きた。
7. 自分のために料理を作ってくれたのだから、お客として代価だいか支払うしはら としても「ごちそうさま」と言うのが礼儀れいぎにかなっている。∵【8】考えたこともなかったけれど、それはそうだと納得なっとくし、お客は偉いえら わけではない、と知ったのだ。
8. 後日、食堂だかレストランだかで食事をして店を出る時に、わたしは小声でぎこちなく「ごちそうさま」と言ってみた。【9】すると、照れくさい気もしたが、それだけのことで一歩大人に近づいたように感じた。以来、店側に不始末がないかぎり「ごちそうさま」を言い添えそ ている。
9. 屋島で見た何でもないひとコマが、わたしを少しだけ変えた。あのおじさんには、今も感謝かんしゃしている。【0】先方は、すれ違っ  ちが ただけの少年に何事かを教えたとはゆめゆめ思っていないだろうが、大人の言動が子供こどもにあたえる影響えいきょうは、かほど大きいのだ。平素へいそから心しておかなくてはならない。
10. 書店員をしていて、いろんな人と遭遇そうぐうした。ブックカバーをつけただけで「どうもありがとう」と言ってくれる人ばかりではない。ささいな行き違いい ちが 激昂げきこうし、アルバイトの大学生に「おれは客やぞ。社長に電話したろか!」と金切り声でさけぶ小学生をなだめたこともある。根性こんじょうの曲がったガキだな、と思いつつ、君はろくな大人と会ったことないんだね、とかわいそうになった。

11.(有栖川ありすがわ「お客は偉くえら ない」『二〇〇七年七月二十九日 日経新聞にっけいしんぶん文化面コラム』)