1. 【1】しばらく
影をひそめていた教養という言葉が、またもや人々の注意をひくようになった。かわいた
海綿のように人々はできるだけたっぷりと教養を身に
吸いこませようとあせっている。【2】
結構なことだと思うが、教養という言葉については
従来から一つの
誤解が広く行われているように
私には思われる。というのは、
雑誌や書物、ないしは
講演などで、いわゆる教養
講座といわれているものを見ると、そのほとんどが、多種多様な
知識の、しかもその
断片の
紹介に終始しているように見えているからである。【3】そうして世間でも、いろんなことを
雑然と心得ていて、どんな話題にでも口を出せる人を、教養の高い人と
簡単にきめてしまっている。
2. しかし、教養と
知識とは決して同じものではないのである。というよりは、
知識はそのままでは決して教養にはならないのである。【4】いくら絵かきの名前をたくさん知っていても、美に対する感覚がちっともみがかれていないような人は、
美術の教養のある人ということができない。作家や作品に広く通じていても、人間の
感情生活や人生の
諸問題に
粗雑な考察しかめぐらすことのできないような人間には、文学は少しも教養とはなっていないのである。
3. 【5】もちろん教養には
知識や学問が必要である。いかに耳の感覚の
鋭敏な人でも、ベートーヴェンもショパンもきいたことのないような人を音楽の教養のある人ということはできない。【6】つまり教養とは、その人の血となり肉となり、その人の
人格を内部からしっかりと
支えているような
知識を指すのであり、教養によってその人の
天性の感覚や
人格がますますみがかれ、深められ、高められて行かなければならないのである。【7】
知識が
人格と
没交渉な
状態にある場合には、真の教養は決して生まれることができない。無知無学の人を教養ある人間ということはできないが、
博識の学者にも教養のない人間は少なくないのである。
4. 【8】次に注意しておきたいことは、教養を身につけるということは、知的
貴族になることでは決してないということである。例え∵ば、
美術の
鑑賞眼を養うことによって、
普通の人々には感じえない深さにまで絵画や
彫刻の美しさを感じえた場合、【9】自分か
一般の人々よりは
一段と高尚な人間になったような
誇りをいだくことは有りがちのことであるとしても、そのような
誇りをいだくために、またそのような
特権階級とならんがために、教養を深めようとするのであるとすれば、その人はついに真の教養を身につけることはできないであろう。【0】なぜなら、くりかえして言うように、教養の目的は、あくまで
自己の人間完成の上に置かれなければならないからである。
5.(
河盛好蔵『愛・自由・幸福』より)