長文集  5月3週  ★表面的な生活の上では(感)  na2-05-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】表面的な生活の上では、人間という
ものは、案外に早く適応するものだ。二十年
前のことなど、すっかり忘れて、今の生活に
どっぷりつかることが可能である。
 しかし、心の底のほうは、それほど早くは
、変われないのではないだろうか。【2】さ
らに、人間たちの心の共通の底、いわば人間
たちの文化と力とか、情感とかいったものは
、それほど変われないのではないだろうか。
 これも、表面的には風俗はめまぐるしく変
わる。流行のうつり変わりは早い。それにと
もなって、生活態度も変わる。【3】表面的
に見るかぎり、人間の価値観が、どんどん変
わっているように見える。
 とくに若者の場合、古いものを持たないだ
けに、その時代の表層感覚をものにすること
は簡単である。いつでもおとなたちは若者を
特別の目で見ようとする。【4】ぼくの若い
時代だってアプレ(戦後派)と呼ばれたもの
だ。
 それでも、表層意識ではなくて、人間たち
に共通の、深層の無意識にとっては、時間の
流れは意外におそいのではないだろうか。そ
れが、文化といった形になるには、ゆっくり
とした時間が必要なのではないか。【5】そ
れで、あまり急速な変化は、深層の無意識に
よって裏ぎられたりする。
 ぼくはなにも、いままでの秩序感覚を絶対
的なものと、考えるわけではない。それも、
表層のもので、秩序感覚なんてのは、どんど
ん変わったところで、人間はそれに適応でき
るものだ。【6】たとえば、都市化が進めば
、たいていの人間は、とくに若者は、都市的
な感覚で暮らせるようになるものだ。都市に
は都市なりの秩序感覚が生まれる。それでも
ぼくには、その深層の無意識は、そんなに急
には変わらないのではないか、と思えるのだ

 【7】たとえばぼくは、月に何回かは、東
京と京都を日帰りで往復するような生活が表
層では自然なようになってしまった。しか 
し、∵なにかしら深層では、そうした時間で
それだけの距離を往復することへの抵抗があ
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る。【8】移動が可能になった便利さへの抵
抗、そんなものを感じてしまうのである。
 もっとすごい人だと、昨日はパリ、今日は
東京、明日はニューヨーク、なんて人もある
かもしれない。そのうちに、それが珍しいこ
とでなくなるかもしれない。【9】しかしそ
れは、何万年もの間、自分の目のとどく範囲
をテリトリー(なわばり)として生きてき 
た、このヒトという生物にとって、異様なこ
とのような気がしないか。
 それほどでなくても、東京の友人と、電話
で話すことは、いまではなんでもなくなった
。【0】これだって、二十年前だと、「長距
離電話」はかなり特殊なものだったわけで、
ずいぶん便利になっ た。しかしこれだけの
距離の人間がいつでも声をかわしうるという
ことは、いくらか異様なことである。
 飛行機による遠距離の移動とか、電話によ
る遠距離の交信とか、そうした文明の利益を
、べつになんの気なしに受けながら、ときに
ぼくには、心の底のヒトが、なにか抵抗して
いるような気がする。
 山であったところが、町に変わる。ぼくは
山の緑が好きだが、そうしたことを別にして
も、あれだけの山林が、これだけの時間に、
市街に変化してよいのだろうか、いつもそん
な気がする。
 戦後の日本にしても、農村から都市への人
の流れが、あまり急速だったような気がする
。ひとびとの生活はそれに適応しているが、
文化がそれにおいつけないでいるのではない
だろうか。戦後日本の物質的変化のスピード
に、精神的変化はおいついていないような気
がぼくにはするのだ。
 たぶん、社会の急速な変化は、いろいろと
チグハグなものをもたらすのだろう。そのチ
グハグがおもしろいとも言えるし、そうした
ものが進歩へのブレーキの役を果たすとも考
えられよう。そうしたものが見えてきたのも
、いまの時代である。

(森毅(つよし)の文章より)